浮遊する夜の街は癒し。OLYMPUS PEN-F

OLYMPUS PEN-F, M.Zuiko digital 12/2

一日の終わりの疲れの癒し方は人それぞれだと思う。けれど、心と体の両方に効くという意味で、カメラを持って夜の街へ出るのは悪くない、というか、かなりおすすめである。街灯やネオン看板の光はあるものの、そのまぶしさは疲れた体にはやさしい。今の季節なら少し冷えた空気に街行く人も足早で、薄暗い街に溶け込んだブラックボディのカメラのことなど誰も気にしない。知った顔もいない夜の路上は、立ち振る舞いという意味でも緊張とは無縁だ。そんな街の片隅でシャッターを切る。背面モニターはOFFだから、いちいち撮ったその場で写真を確認することなく、次々とシャッターを切っては歩き、またシャッターを切る。まるで透明人間のように。あとからその時の思考のことを振り返るも、ほぼ何も覚えていない。無心で撮ってるんだろうね、その時は。夜の路上のスナップは実に心地いい。特に目的もなく、ゆるい思考に身をゆだねて流れていくように撮るのは最上の癒しであり、快楽だ。カメラ一台でこれだけ精神を解放できるのは、とてもありがたく幸福なこと。疲れたら、カメラを持って夜の街へ出よう。そこは、ポジティブな逃げ場が待っている。あらゆる緊張から逃れられる逃げ場。

かまえないほうが、いい写真が撮れる不思議。

Leica M-P typ240, Elmar M 50/3.5

僕の一週間でいえば、平日5日感は街撮りスナップ、週末2日間は自然のある散歩道スナップだから、撮る頻度としては街撮りスナップが多い。そうやって過ごしてみてよかったなと思うのは、街撮りスナップのおかげであまりかまえずにシャッターが切れるようになったこと。

一眼レフからカメラをスタートしたひとなんかは分かると思うけど、あのどっしりとしたボディと密度の高いファインダーで撮り始めると、例えば水平なんかも正確にとろうとするし、構図なんかもやけにきっちり撮ろうとしてしまう。それはそれで整理整頓されたような写真で良いわけだけど、少しきちんとしすぎていて、どこか自由な空気感に欠ける。どうだろう。

その点、街中のスナップはとにかく速写で良くも悪くも余裕がない。街中でカメラをかまえること自体が少々目立ちすぎるし、街行くひともカメラを意識して、スナップとしてはとても居心地の悪いものになる。だから、僕の場合だと街撮りスナップはもうほとんどファインダーなんて見ていない。ピントもMFレンズなら目測だし、首からストラップを下げたそのウエストレベルの位置でシャッターを切ったりするから、水平もラフだし、構図もものすごく感覚的だ。

けれど、そのほうが何というか目の前のリアルな光景の動きだったり空気感みたいなものが収められる気がするんだ。その地が呼吸している感じを切りとれると言えばいいだろうか。ある意味、無秩序で自由な空間をそのままトレースするような感覚が僕にはあるんだよな。他のひとが同じように感じるかは分からないけど、僕の場合はそうだ。そうやって街撮りスナップをするようになって、週末の自然のある散歩道をスナップする時も、いたずらにカメラをかまえることはなくなった。それこそ、ノーファインダー気味だったり、背面モニターも使わなかったり、とにかくラフにシャッターを切るだけ。目線は光景ばかり見てる。それが今の僕のカメラと写真への向き合い方だ。

この話に特に正解やゴールはない。この世に一枚として同じものがないのが写真の世界。誰がどんな撮り方をしてもいいし、むしろ他人と撮り方が違うのは表現ツールとしては当たり前のこと。それこそ、一生試し撮りなわけだから、昨日とは少し異なる撮り方の実験を今日も明日も繰り返す。それでいいと思うんだ。写真を撮ることが心地よければね。

僕は写真を撮るのも、ブログを書くのも、さらりとが好きなんだ。

Olympus PEN-F, M.Zuiko digital 12/2

だから「いい」というわけじゃなくて、だから「ダメ」だとも言えるんだけどね。いい写真を撮ろうと思えば、いい被写体を探すために汗をかいて、努力をして、テクニックとしての勉強もしたほうがきっといいに決まってる。けれど、僕は性格というか、生活の順番の付け方というか、写真を撮ることにあまり無理をしたくないと思うところがある。だから、撮る写真はいたって平凡だ。仕事帰りのストリートだったり、週末の愛犬との散歩道だったり。特に劇的なことは目の前でそうそう起こるシチュエーションじゃない。そう、平凡な景色。

でも、じぶんではけっこう楽しいんだ。そんな平凡な景色の中に、ちょっとした光と影の交錯を感じたり、街の匂いとか気配なものをわずかに見つけて撮る。光ということでいえば朝晩の撮影が多くなる。平凡な光景に少し変化が混じるからね。それと、僕の場合、決定的なのは「写真を撮ること以上に、シャッターを切る行為が好き」ということ。だから、誤解を恐れずにいえば被写体はなんでもシャッターが切れればある程度楽しい。写真を本気でやってるひとからは怒られそうな、実にたわいのない動機だけど、いつでもシャッターが切れるように、毎日決して軽くない重量のカメラを仕事鞄の中に入れて出社している。職場の同僚なんかからはほんと驚かれるよね、常にカメラを持参しているからね笑。

これはもう家でも一緒で、息子からは呆れられたように「いつもカメラ持ってて、ほんと好きだなカメラ」と言われるからね笑。息子はカメラには1ミリも興味がないから、まあ四六時中カメラを持ち歩き、あちこちでなんの変哲も無い光景をパシャパシャ撮る僕は変人なのかもしれない。妻にいたってはもはやカメラのことは会話にも出さない。もう僕とセットだから、特に日々そのことについて語るものではなくなったんだろうと思う。まあこうなると、もはやいいことか悪いことかもよくわからない。そう、僕にとってカメラは空気のようなもんなんだ。

そうして日々、平凡な写真を量産しても救われるのは、こうしてブログを書いてるからかな。家族や知人の写真以外は、基本的にすべてブログ用だから。なんてったって写真自体が平凡なわけだから、ブログがそれほど特別なものになるはずもない。だから、カメラ同様、僕にとってのブログは空気のようなもの。特別、書く前にかしこまって準備するわけでもなく、即興のようにしゃべり言葉でどんどん書いていく。ブログを始めた頃はパソコンで書いていたけど、今はほとんどiPhoneで書く。だから、どこでも書ける。通勤途中だったり、仕事の移動の合間だったり、待ち時間のひと時だったり、寝る前のベッドの中だったり。とにかく、かしこまらず、さらりと書く。それが無理せず、ブログを続けられてる秘訣みたいなものかな。

実際、僕の日常はそれなりに忙しい。仕事も、家庭も、それなりにやることがたくさんだし、趣味にしたってカメラ以外にもロードバイクに乗ったり、プールで泳いだり、Runしたり、本を読んだり、映画や動画を観たり、やることは尽きなくて、もう週休3日制にしてほしいと本気で思ってる。そんな毎日だから、カメラもブログも必要以上に無理をしないという関係性に自然と落ち着いてきたんだと思う。けれど、それでも十分楽しめてる感覚があるのは、カメラもブログも無理せずとも楽しめるコトだったからだと思う。性に合ってたんだろうね。人生において、こういう相性のよいコトに出会えるのはけっこう貴重なこと。そりゃ、写真が上手くなりたいとか、ブログももっと読まれる本格的なものにしたいと思う気持ちもなくは無い。けれど、無理はしたくないんだ。僕が僕らしくいられるリラックスできる時間だからね。それが素直な気持ち。それで満たされてるんだから、幸福なのかもね。この世に感謝。