Leica M-P typ240

カメラは、かつての実用品から「新しい嗜好品」として再定義しないといけない。

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Leica M-P typ240, Summar 50/2

なにを今さらと言われそうというか、カメラ業界はとっくの昔に嗜好品へとシフトしていると言われるかもしれないけど、個人的にはそのようには見えないというか、昔のカメラの延長線上でしか描けていないように見えるのは気のせいだろうか。

誰かがTwitterで言ってたけど、カメラはかつては「写真を残そうと思ったら、カメラを使うしか方法が無かったから、世間の誰もがカメラに触れていた」と。僕も昔はカメラを趣味にしていなかったけど、そんな僕でもたしかにスマホカメラがない時代は、そうやって写ルンですなんかを買って実用品としてカメラと接触していた。

でも、今ならこの程度の実用品としての撮影なら、みんなスマホカメラでやっちゃうよなと。ここ数年でもスマホカメラの性能アップは物凄いものがあるからね。だとしたら、撮影スタジオなんかで撮るカメラマンの人たちの実用品としてのカメラは別として、一般の人にとってカメラは「無くても困らないもの」だし、あえて安くはない値段のカメラを買うといのは、相当な嗜好品としての魅力がないと、なかなか説得力に欠けるなとやはり思うのである。

普通に考えると、それはカメラの再定義であり、カメラという存在の革命的出来事だと思うんだけど、カメラも、カメラメーカーも、カメラ観覧雑誌なんかを見ても、その高額な嗜好品への革命的シフトみたいなものは正直あまり感じないんだよね。かつてのカメラファンをキープするという意味ではそれも正解ではあるんだけど、新しい時代のカメラファンを新たに創造していくという点においてはどうなんだろう。もう少し新しい解釈が滲み出てもいいと思うんだけどな。

僕はクラシックなカメラのファンなんで、昔のカメラの延長線上で全然かまわないと思ってるほうの人間だったりするんだけど、そんな僕から見ても、もう少し「カメラがある価値」みたいなものをクリエイティビティだったりエモーショナルな方向に振らないと、カメラというアイテムを現代的に楽しんでる人たちの思考となんとなく乖離があるような気がしてならないんだな。

いやもう本当に大きなお世話の考え方だとは思うんだけど、そういう「風」が吹かないとカメラというアイテムとその世界が一般人の間にまで残り続けていくのは相当困難な気がするんだよね。カメラというアイテムが、もしくはフィルムというアイテムが存在するまでの間なんとか楽しめればいいという考え方もあるけど、それはさすがにちょっとさびしい。カメラファンがまだしっかり存在するうちに、そこに何かしらの新しい風をやっぱり起こしたいよね、できれば。

たまにこうして同じような話を何度も書いていて、その都度僕自身にも答えがあるわけじゃなくて、心のどこかで歯痒さもあるわけだけど、うちに秘めてるだけよりは少しでも吐き出したほうがいいと思って、思い出したかのようにこうして何度もこのテーマにふれてブログを書いていたりする。

カメラのノスタルジックな部分はとても魅力だし、ハイテク機器としてのカメラ性能の高度化もたしかに大切ではあるんだけど、もう少し時代のライフスタイルを揺り動かすような風が起こせないかな。容易い課題じゃないことは分かってるけど、そのジャンプないし、ジワジワとでもカメラというポジションのアップデートをしなやかに始められないかなとか、今日もまた考えている。