いまどきのカメラはハイテク機器だから、カメラ任せでオートで撮れば適正露出の綺麗な写真が誰でも撮れるわけだけど、はて、じぶんは「綺麗な写真」が撮りたかったんだっけと思ったりもするのである。
だから、僕はできるだけマニュアルで撮っているところもある。物理ダイヤルのカメラを好むのもそのせいだ。
物理ダイヤルで絞りやシャッタースピードを変える場合、ダイヤルに刻まれた目盛単位で露出を調整していくことになる。その必要以上に小刻みに露出を調整しないのがいいのだ。
ちょっと明るすぎたり、ちょっと暗すぎたり、ちょっとシャッタースピードが足りなかったり、ちょっと感度が足りなかったり。そうすることで、ちょっとだけじぶんの想像を裏切ったりする一枚が撮れたほうがうれしいし、リアリティを感じたりする。
フィルムカメラで撮るフィルム写真がいいと思えるのは、機械式カメラで撮っていた頃の小刻みすぎない、ある意味大雑把でともいえるあの感じが僕は好きだったのだろうというのは、僕の勝手な自己分析だけど、意外と確信をついてるとは思ってる。
だって、電子回路が写真を撮るんじゃなくて、僕という生身の人間が写真を撮るわけだから。そこをコンピュータ任せにしてどうすると。自然界の微妙で曖昧なゆらぎを、自然界と同調するかのように人間の感覚を駆使して撮る感じがいいのである。
あ、これは僕の趣味としてのカメラとの向き合い方の話だから、決して一般論ではないのであしからず。でも、写真に必ずしも精巧さを求めていないという感覚は、昨今のオールドコンデジなんかを好む若い人なんかも同じ感覚なのかなとも思ったり。
いい写真とは?というのは写真をやる上で永遠のテーマだけど、精巧で綺麗な写真がいい写真というわけじゃない。プロの人はそんなことは言ってられないかもだけど、少なくとも僕の場合は趣味の写真だから、いい写真とはじぶんが好きな写真だ。
そして、そんな好きな写真が毎度撮れることなどまったく無いのだけど、そのなかなか思うようにいかない感覚とかが楽しくて、この永遠に続く試し撮りの連続のような日々が楽しかったりするのだ。
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