PENTAX K-3 Mark III

PENTAXのカメラを愛する人たちの気持ちが、ちょっと分かった気がする。まだ、ちょっとだけどね。

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PENTAX K-3 Mark III, DA 20-40 Limited

PENTAXのデジタル一眼レフを触ってまだ数日間だから、とてもじゃないけどペンタキシアンの人たちの気持ちが分かったとは言えない。

でも、なんとなく良いなというレベルではなくて「これは確かにモノが違うかも」という強烈な印象があるんで、PENTAXというモノの良さを「ちょっと分かりかけてる」とは言えるんじゃないかと思う。

かつての僕にとってPENTAXとそれを愛する人たちの印象は、ちょっと「孤高の存在」だったと思う。

それは、製品そのものもフレンドリーというよりハードでいぶし銀的だし、それを使う人も信者的でマニアックな人たちに見えた。悪く聞こえたら申し訳ない。でも、それが外から見ていたPENTAXの印象だった。

でも、こうしてじぶんでPENTAXのカメラを使うようになって思うのは、なんというかもっとひたすらピュアなもので、ただただ「写真を撮ること、楽しむことに真っしぐらな人たちの道具」という感覚が近いと思う。

製品を作るPENTAXリコーの人たちがまずそれで、それに共感・共鳴した人たちが愛用者として自然と集まっている、そんな感覚。

いや、それはどこのカメラメーカーでも同じじゃないかと言われるかもしれないけど、他のメーカーはそれはやっぱり流行りや市場ニーズなんかを重視しているのが見てとれるなかで、PENTAXだけは本当にピュアに「写真を撮るプロセスを楽しむ」ことだけを見てる気がするんだな。

それはやっぱりRICOH GRにも通じるところがある。僕は長らくGRユーザーだけど、PENTAX K-3 Mark IIIを手にして感じる道具感は、まさしくGRのそれだなとあらためて思うのである。

恐ろしく頑なな職人的姿勢とでもいうのかな。GRなんて、カメラに詳しくない人が見たらGR digitalの頃から何ひとつ変わっていないように見えるだろうし、なんならフィルム時代から変わっていないとさえ映る。ユーザーであるこちらが心配になるくらい不変で頑ななのである。

でも、それは考えてみるとシンプルなことで、デザインを変えることが目的ではなく「写真を撮るプロセスが楽しいこと」が目的だから、形についてはもうとっくに成熟の域にあって、今は細かな部分をリファインし続けているということだろう。

PENTAX機もある意味、同様だ。世の中の流行に目を向ければミラーレス機への転換が目的化するところだけど、PENTAXはあくまで「撮る楽しさ」をゴールにしたため、結果的に一眼レフであることをチョイスしている。その姿勢は、ペンタプリズムを用いて一眼レフを最初に世の中に打ち出した時から、まったく変わっていないのである。

いや、ごめん。ここは完全に僕の推測であり妄想だ。けれど、長くGRを使い続け、今回PENTAX機を使い始めたことで、物凄く腑に落ちた点だし、そういう感覚にいたく共感しているじぶんがいるのである。

こういう時代に、ここまでブレない姿勢の会社と製品があるんだなと、ちょっと感動すら覚えるのだ。

またちょっと言葉が過ぎるかもしれないけど、それが率直な僕のいまの思いである。そして、それはもしかしたらペンタキシアンと呼ばれる愛好者たちの思いの一端ではあるんじゃないかと思い始めている。

僕は、じぶんが良いところ思ったモノは、他の人にも教えたいと思う人間である。ただ、あくまで僕のものさしで感じた個人的な「良い点」であって、すべての人に当てはまることじゃないことの方がほとんどだ。

すべての人に当てはまる良いカメラは、他にあると思う。そうではなくて、じぶんの価値観、いや人生観といってもいいかもしれない、それがリコー/PENTAXの歩む道と合致する人には、これ以上ない最上の歓びをこのカメラたちはもたらしてくれると思う。

何かを得るためには、時に何かを捨てる、ないし何かを特別に研ぎ澄ませる必要がある。そういうことを再認識する製品、それがPENTAXだと思い始めている。

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