まあ、僕の場合は所有しているカメラのすべてにそう言ってるんで、あまりありがたみのある言葉になっていない気もするが。
でも、これは紛れもない真実で、過剰なまでに惚れてしまったカメラと出かけて写真を撮る行為は、たとえそれが誇れるような絶景でなくても、実にジンときて静かな高揚感に包まれるのである。
そのいちばん最近の相棒が、このPENTAX K-3 Mark III。このミラーレス本格化時代に一眼レフを手にして何の高揚があるのかと言われそうだけど、これはK-3 IIIがミラーレスか一眼レフとかはあまり関係なくて、ただただコイツでシャッターを切る行為が楽しいのである。
僕は一眼レフ機とはいまだに腐れ縁で、Nikon DfとD750、あとはCCD機としてD200やD70、D3000をローテーションしながら楽しんでいる。
考えてみるとNikonばかりをだけど、そんな僕のNikon一眼レフの牙城に、このPENTAX K-3 Mark IIIが食い込んできた。そこには、Nikon機とはまた異なる高揚感が間違いなく存在する。
何にそこまで魅せられるのかというのは、ここ数日の僕の過去記事を読んでもらえたらと思うが、けれどそれもロジカルにいえばそういうことであって、実際のところはもっと曖昧でエモーショナルな部分での感動であり高揚感だ。
けれど、このK-3 Mark IIIと歩き始めると、なんかいい時間が過ごせる気がするのだ。
光学ファインダーであることは大きいかもしれない。そもそも僕がNikon DfやFUJIFILM X100V、X-Pro3を溺愛するのもOVFで世界を眺められることが手にする理由のベースだった気がするし、そこにフィルムカメラで撮るあの感慨深さを重ね合わせてきた気もする。
まあ、古い人間というか、アナログなシチュエーションがやっぱり好きなんだろうね。
そんな、思い入れのある光学ファインダーをこれからもずっと追求し続けると宣言したPENTAXに対して、リスペクトというか感謝の気持ちもあって、K-3 Mark IIIに特別な感情を抱くのかもしれない。
光学ファインダーといえば、ライカM型もデジタルになった今でもそこを踏襲している。だから、M型デジタルにぞっこんな人の気持ちもよく分かる。予算が許す人は、M型デジタルのあのレンジファインダーの世界を通過するのも良いと思う。
ライカが何を考えてカメラをこの世に送り出しているのかということが分かると思う。
カメラはハイテク機器のひとつだと思うけど、これほどまでに人間くさい機械もそう無いと思う。
そう、写真はたしかにスマホカメラでも撮れるけど、カメラの、それも光学ファインダーを通してシャッターを切るあの行為はやはり唯一無二で、この体感に変わる道具はこれからもカメラだけだと思う。
たとえ、武骨でスマートフォンのようにスマートでは無いと言われようとも、あの撮影フィールを感じるためにはカメラで撮るしかない。そんなカメラを生み出す素晴らしいメーカーがこの国にはまだ多く存在する。
せっかく、世界を代表するカメラがこんな身近にあるんだから、一家に一台、人間らしくエモーショナルなひとときに包まれる道具として手元に置いておくとちょっと毎日が豊かになるんじゃないかな。
最近、僕は特にそんなことを考えている。