カメラへの思い

たしかにレンズは「一生もの」なのだ。

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Leica M8, Elmar M 50/3.5

たとえばこのMマウントのエルマー。1950年代製で製造されてからもう70年ほど経つんで、もしじぶんが生まれた年からこのレンズを使っていたとすれば70歳まで使い続けられことになる。いや、まだまだ何十年か余裕で使い続けられそうなくらいだから、これは誇張なく「一生もの」と言って差し支えないだろう。

電気を使わない機械式シャッターのフィルムカメラも、修理職人さんがいればそれこそ永遠に直して使えると言われるけど、それでも程度のいいボディは年々減りつつあるし、複雑なパーツを多用しているカメラは部品の欠損なんかもどうしても出てくる。それからすれば、カメラより構造がシンプルなMFレンズなどは、きちんとメンテナンスし続ければ写りも廃れない。

いや、凄いことである。70年前にエルマーやズミクロンを生み出した開発者たちも、まさか70年後もこうして使い続けられているとは夢にも思わず世に送り出したんじゃないかと想像するけど、その恐ろしいまでにこだわって精巧に作られたからこそ、100年も普通に使えているのだろう。圧巻である。

Leica M8, Summicron 50/2 1st

現代のデジタルカメラは、どんなに高価な製品でもさすがに100年は使い続けられない。僕がこれまでオールドデジカメを使ってきた肌感では、記録メディアとバッテリーさえ確保できれば、必要以上にハードに使い込まなければ四半世紀、つまり25年くらいは使える気がするが、それはさすがに「一生もの」とは言えない。

そう、撮影機材で「一生もの」と言うならば、それはボディよりも「レンズ」なのだ。デジタル時代になってもマニュアルフォーカスのレンズはまだまだ新製品として発売されているものも多い。こうしたレンズたちなら、たしかに一生ものとして清水の舞台から飛び降りる気持ちで高価なものを手にするのも説得力がある。なんてったって正真正銘「一生もの」だから。

だから、いまより機材をアップデートしたいと考えた時は、ボディは増やさずにレンズのほうに目を向けてみるというのがいいかもしれない。センサーや機能の進化はあれど、写真というのは最後はやっぱりレンズの描写が出来栄えを左右する。むしろボディのほうは目をつぶっても操作できるくらい少数精鋭のカメラをしこたま使い込んで、描写の変化はレンズに託してみる。

Leica M8, Nokton classic 35/1.4 SC

これだけモノの進化や変貌が激しい時代に、100年買い替えずに使い続けられるなんでのはコスパ以上にロマンの塊のような存在だ。仮にオートフォーカスのレンズだとしても、マウントが変わらないかぎりはボディよりは丈夫に使い続けられるのではないだろうか。

そもそもカメラが増えてもカラダはひとつ。カメラ自体は本来、そんなに数はいらないのである笑。じぶんの撮影スタイルにフィジカルにフィットする相棒的ボディと出会ったら、その先の100年はレンズだ。なんか新しいカメラに目移りしてきたら、それよりも現状のボディは変えずに「レンズに投資」することを考えてみる。

スマホにできないカメラ産業の隆盛とは、レンズの隆盛でもあるのだ。

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