先日、今年の夏はモノクロームだけで撮ろうかな、というブログを書いたのだけど、静かにそれを実行に移している。とりたてて披露するような話でもないので、個人的な備忘録としての文章である。
写真はすべてLeica M8、初代ズミクロンの沈胴タイプで主に絞り開放付近でJPEGで撮ったもの。撮影時間は早朝で、朝陽が昇ると共にISO感度を640→320→160と下げていく。こうして感度を数枚ずつ変更できるのはデジカメの利点だ。
色を排除して、被写体の形やそこに織りなす光と影の交錯を楽しむモノクロームは、建物が入り組んだ街中ストリートで撮るほうがユニークだろうが、あいにく早朝なので僕の散歩ルートにはそんなものは無い。
それゆえに被写体は草花や何の変哲もない道端になるが、最初からモノクロームでしか撮らないと思うと、おのずと光と影を特に意識することになり、そういう目で見ると意外と撮りたいものに困ることは無い。
別に誰に見せるものでもない個人的な写真として捉えれば、決してスナップ向きの街中じゃなくても写真撮影は楽しめるということを、モノクロームはあらためて気づかせてくれる。
僕はこの「日々の実験的撮影」がけっこう楽しい。いや、かなり楽しいから、こうして懲りずに家の近所でも毎日シャッターを切っているわけだ。レンズを変えたり、絞りを変えたり、距離を変えたり。実験は尽きないのである。
僕がモノクロームで撮ろうと思った理由のようなものは、ひとつ前のブログを見てもらうとして、要はちょっとひとつのことを深めたいと思ったということ。ある意味「制限」があるなかで遊んでみようというのは、子どもの頃の「工夫して遊ぶ」ことにちょっと近い。
モノクロームで作品的なものを撮りたいとか、そんな大それた話とかではまったくなく、遊ぶことにじぶんなりに「工夫」という要素をより加えたかったというくらいのことに過ぎない。(志が低く申し訳ない)
そういう意味でいうと、モノクロームだけで撮るという遊びは、想像以上に楽しい。もう少し正確にいうと、なんか妙にホッとして心の中がシンプルになっていく。そうしたクリアな頭の中で「工夫」みたいなことを考えることに集中できる。
いや、これまでもモノクロームで撮ることはあったわけだけど、モノクロームでしか撮らないというほどの縛りを課したことはなかったから、そこは小さなようで大きな違いかもしれない。
Kodak製のCCDセンサーを積むLeica M8/M9/M-E系はモノクロームがいいという人も多い。M MonochromもあえてCCDを選ぶ人もいるように。
そして、そもそもモノクローム写真時代に作られた初代ズミクロンもモノクロ専用レンズと言えなくもない。そんな両者の組合せが、どこか気分をその頃へ連れて行ってくれる感じもよい。
ちなみに僕の場合は、このLeica M8だけでなく、所有するすべてのデジカメの設定をモノクロームに変えてある。だから、カメラをチェンジしても毎日モノクロームである。僕が飽きないかぎり…。
どこまでこの遊びが続くか分からないけど、なんとなく「今年の夏はモノクロームで撮りたい」と直感的に思ったことがきっかけだから、少なくとも夏が終わるまではモノクロームの日々になるのではないかと予想している。
飽きっぽいが、意外と凝り性なのである。