僕の手元にやって来たK-3 Mark III。まだ多くを語れるほどは撮り倒せていないけど、このカメラが普通じゃないことは数枚もシャッターを切ればはっきり分かる。
いわゆる、別物である。
ファインダーの優秀さはよく語られるところだけど、僕が思うのは「むしろファインダーがあることを意識させないほどのレベルのクリアーさ」ということ。
いや、もう何を言ってるんだと言われそうだけど、光学ファインダー性能もここまでくると、肉眼の延長線といっていいくらい恐ろしく自然だということ。
それほどまでに、K-3 Mark IIIのファインダーは見やすく、美しい。
そして、脳をさらに歓ばせるのが「奏でる」と表現したくなる、そのシャッター音だ。
派手さとも違う、かといって上品すぎるわけでもない、実に人間の五感に最も心地よくチューニングされたであろう、その絶品のシャッターフィールは、僕的にいえば芸術的ですらある。
なにも、そこまでしなくたっていいだろうと勘繰るくらい、このカメラには「撮ることに没頭できる世界」が形作られているのである。
その凄みを言葉にするとどうしても饒舌になってしまうが、それほどまでにこのK-3 Mark IIIで撮る行為は美しく、官能的であるということでご容赦いただきたいと思う。
その一端を感じとれるエピソードを、昨日漫画家のしろさんが以下のようにツイートしてくれていたので紹介しておきたい。
リコーさんにPENTAX KPお借りした時の写真が出てきました、うちの一眼レフカメラはフィルム時代の作り方がまだ残っていて、デジカメとしては作りがオーバークオリティになっちゃってるんですよ、コストかかっちゃってしょうがないです、と楽しそうにしゃべっていらっしゃったのが印象的でした pic.twitter.com/Bqf9BMSLeY
— しろ (@siro700) February 2, 2022
リコーの方のお話曰く「フィルム時代の作り方がいまだに残っていて、デジカメとしては作りがオーバークオリティになってしまう」と。
こういう言葉を聞いて、ペンタキシアンたちは歓喜し、一生PENTAXと生きていく、と思うのであろう。僕もいまは、まさにそう感じている。
そのファインダーをのぞいて、一度シャッターを切り出すと、もう永遠に撮り続けていたくなる、それこそがK-3 Mark IIIを表現する僕の率直な感想。
そういうカメラは、一生のうちで、そう出会えるものではないと思う。
現代の奇跡のカメラ、そう言っておこう。