
僕はふだんからいろいろなカメラを使って写真撮影を楽しんでいるが、ここ数年はやはりミラーレス機の比率が高い。そんななかで、むしろ欠かせない機材になっているのが一眼レフ機だ。
たしかに数年前は「世の中のカメラはすべてレフ機からミラーレス機へとシフトする」という潮流のようなムードがあった。つまり「一眼レフとは古い規格のモノ」といった流れであり認識だ。
けれど、ある程度ミラーレス機の成熟が見えてきたいま、たとえカメラの主流がミラーレス化しようとも、ひとつのジャンルとして一眼レフは存在し続ける価値が十分すぎるほどある、と感じる。それは「趣味のカメラの世界」や「撮影体験の歓び」という意味においてだ。
フィルム時代から数えると、一眼レフという形態は熟成に熟成を重ねたある意味「完成系」の域にある。機能的にこれ以上なにか飛躍的な進化を望むというより、長い年月で積み重なってきた「写真機としての情緒的価値」にこそ、かけがえのない歓びと醍醐味を感じるのだ。
目の前に対峙する光景を電子変換せずに肉眼に近い形で見つめる光学ファインダー、手と脳にリズムを刻むように心地よく鳴り響くシャッター音。迫力ある大地に向き合うための迫力あるボディ。それらはスマートさというよりも武骨さかもしれないが、見渡す限りデジタルに囲まれた世界の中にあっては、むしろ野生のようで心地いい。
いまもフィルムがジャンルとして生き残るのと同様に、この一眼レフの撮影体験もジャンルとして必要だととても強く感じるのだ。
僕がフィルムカメラの流れを汲むクラシックなスタイルのカメラを好むことがバックボーンにあることは否定しないが、それでも単に懐古主義ではなくて、こうしたエモーショナルな撮影体験を望むニーズはきっと少なくないと思う。それは人間らしさみたいな意味合いも内包しているように思う。どうだろう。
この世のカメラメーカーから一眼レフがすべて消えたわけではないが、それでもほとんどのカメラメーカーがミラーレス機を主力製品としているなか、一眼レフをメインに作り続けるPENTAXの存在は非常に大きい。部品の調達ほか、一眼レフ機を維持し続ける体制の確保はかなりの努力を要すると思うが、PENTAXにはぜひ頑張ってほしい。
時が前に進む以上、「進化」は大きな推進力でありエネルギーであるが、「変えてはならないもの」もまた、やっぱりあるのだ。一眼レフの、あの歓びもまた、僕はその要素のひとつだと最近ますます感じている。