これはなにもPENTAX Q-S1にかぎった話ではない。全般的にそういうカメラが好きなのである。
とはいえ「少年の心のまま大人になったようなカメラ」ってそもそもどういう意味なんだよ?ということがある。
そこについては、僕もこれが正確な表現とは思っていないが、ニュアンスとしてはこれがいちばんしっくりくる。そういう言葉尻にいちいち正確さを求めない、というもこのタイトルの意味合いに通じるところだ。
子どもの頃は良くも悪くもあまりリスクというものを考えない。若気の至りといえばそうかもしれないけど、じぶんが好きと思う方向へけっこう大胆に舵を切ることができる。そのほうが「たのしい」からである。とてもピュアな行動である。
けれど、大人なると「たのしい」よりも「ただしい」とか「ソツなくちゃんとしてる」ことが良しとされる。じぶんのものさしより、社会全般に良しとされるものさしへと基準が変わっていく。
当たり前だ、そこにはビジネスだのお金だの生活の安定だのが絡むから、もうあの頃のように好きだけで突っ走れないのだ。そもよく分かる。いい大人だから。
でも、趣味の世界とは、唯一そういう「今の当たり前」みたいなことに反旗を翻しても許される領域じゃないかと叫ぶじぶんがいるのである。
このソツなく便利でちゃんとしてる毎日の中で、あえてクソ不便だったり、クソ非効率なことなんかにニヤリとしたいわけである。世界は「たのしい」を最優先に回るべきだとか無茶な発想でいたいのである。趣味のひとときくらいは。
その点、クラシックなカメラは良い。フィルムは高いし、現像はひと手間かかるし、老眼でマニュアルフォーカスは見えづらくなるし、保証なんかも付いちゃいない。でも、たのしいのである。たのしさと苦労は引き換えの関係にあるんじゃないかとさえ思うくらいだ。
少し古いデジカメなんかもそう。やれ高画素、瞳AFだの動画機能が当たり前の時代にあって、機能もレスポンスもややもっさりしたデジカメは一見するとデメリットしか見えないけど、僕みたいにスチール専用の寫眞機として使うことにかぎっていえば、むしろカメラらしさが色濃く残るし、なによりそういう工夫が必要な所作とか格闘が実験と科学のようでたのしいのである。
そういう少しクラシックなカメラたちは、まさに少年の頃の性能のまま大人になったカメラのようなもの。そういうカメラに触れていると、僕の脳みそもいい感じで少し時代を巻き戻すことができて、便利とかをありがたがらずに「たのしい」に没頭できるじぶんがいたりするのである。
上手く表現できているかは分からないけど、以上が僕が考えるタイトルの意味合いみたいなものだ。
でも、現行機のカメラの中にも、実はこの「少年の心のまま大人になったようなカメラ」ってあるんだよね。そういう遊び心を過去に置き忘れていないカメラというか、変わらぬ思想というか。
そして、そういう匂いを感じると、僕の少年心が疼くのである。