きょうも懲りずにFUJIFILMのカメラで撮り歩き、懲りずにFUJIFILMのことをブログに書いている。でも、正確にいうとFUJIFILM のことを書いているという意識より「フィルムとフィルムカメラ好きが好むデジカメの世界」のことを書いている、という意識なんだよね。
その「フィルムとフィルムカメラ好きがデジカメを作っている」という観点については、以下の記事をまずは読んでみてほしい。ひとつ前のブログにも取り上げていた記事なんだけど、これが「FUJIFILMのカメラと写真とは?」のすべてを凝縮して語り尽くしてると思うので。いやあ、富士フイルムの上野さん、あいかわらず熱い。
ちょっと感動的ですらあるよね。こういう意識の人たちが作ってるカメラを使いたくなるもん。いや、たしかに僕はフィルムとフィルムカメラが好きだからかもしれないけど、FUJIFILMが指向するのは単にノスタルジックな回想ではなくて、フィルムカメラの時代に形成されたカメラのカタチが、実際に写真を撮るうえで心地いいし、便利であるということのチョイスなんだよね。そこがまた僕なんかはものすごくうなずける。
その確固たるポリシーは、もうかれこれ10年前ほどに開発されたXシリーズの初代機X100と、その後にレンズ交換式として登場したX-Pro1に凝縮されていると思う。だからこそ、僕はいま、このX100とX-Pro1を好んでハードに使っている。古さは感じない。それよりもルーツとしての味わいをビンビン感じる。感覚的にはバルナックライカを使ってるような高揚感があるといえば伝わるだろうか。
きょうは、このX-Pro1にフィルムシミュレーション「ASTIA」をチョイスして撮った。それは、僕的な感覚でいえばフィルムカメラにフィルムを装填するような行為だから、Twitterに「きょうはX-Pro1にASTIAを詰めて」と表現してツイートしたところ、その言い回しが良いとコメントしてくれたフォロワーさんがいた。そうなんだよね、僕は本当にFUJI機のこの所作が気に入っている。
それはそうと、このX-Pro1の叩き出す色はなかなか独特だ。X-Trans CMOS初代のセンサーを積む機種は他にもあるけど、このPro1だけは他と違う色味を醸し出すと感じている。それこそ、いい感じでノスタルジックで、どこかフィルムで撮ったような写真の面影を感じる。
もちろん写りの鮮やかさは精巧さでいえば現行の最新機種が素晴らしいわけだけど、フィルム装填と同じようにセンサーでその日の描写を選ぶとするなら、このPro1はちょっと手放せない。願うのは、このX-Pro1が壊れることなくいつまでも使えること。電子部品を多用するデジカメだから、いつかは壊れ、修理不能になるわけだけど、そこまでは味わい尽くす所存なのである。ちょっと代わりのきかないカメラだからね。
追記)YouTubeで貴重な動画を見つけたんで、これも貼っておこう。昨年末に語られたXシリーズ総括のシリーズだね。
いやあ、動画の時代はありがたいね。こういう開発者の方々の話が、その人柄、企業柄まで含めて伝わってくる。富士フイルムのカメラたちがハイテク機器なのに人間くさいのは、こういう発想や情熱、熱量が滲み出てるからなんだよね。ますます惚れ直すぞ、FUJIFILM。