カメラへの思い

どっしりとしたカメラで撮るのもいいなあ、とあらためて。

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PENTAX K-1 Mark II

僕は最近、少し大ぶりなカメラで写真撮影を楽しんでいる。最近手にしたフルサイズ一眼レフのK-1 Mark IIや中判デジタルのFUJIFILM GFX50SIIの2台だ。

両方ともボディだけで900gから1kg超のカメラ。数値だけ見ればとても軽快に撮れそうにはない重量なんだけど、いざ使ってみるとそれほど重さを感じないというか、心は割と軽やかに撮ることができている。

最初は「重さの割に重量バランスがいいのかな」とか考えていたんだけど、そういう物理的なことと言うより、心持ちのほうが大きいと思う。で、思いついたのがブローニーフィルムで撮る、あの「中判カメラ」の感覚に近いんじゃないか、ということ。

いや、中判フィルムカメラとはまったく異なるデジタル機であることは重々承知のうえなんだけど、そういえば中判フィルムカメラのことを重いと感じたことは無かったなと。

一枚一枚をじっくり撮るスローなカメラとの時間の流れ方が、そう思わせるんだろうなと、たぶん。

撮ることの没入感が大きいというか、それによって「やれ重たいとか、やれ大きいとか」、そんなことは忘れさせる何かがあるのだ。

もちろん小さく軽いカメラで得られる恩恵は計り知れないし、フットワークの軽さは撮れる写真の状態にも変化を及ぼす。軽量コンパクトなカメラだからこそ「もう一歩、前へ踏み込める」という感覚があるし、それによって街撮りスナップもとても好きな撮影スタイルになった。

FUJIFILM GFX 50S II,

でも、一方で大きく思いカメラだからこそ、撮る光景に対峙するパワーみたいなものが上がる気もするのだ。

写真家の新納翔さんが以前動画の中で「東京という都市のパワーを写真に収めるのに、そのパワーに負けない動画としてPENTAX 645Zを使っている」というようなニュアンスのことを話されていたのを思い出す。そうだ、その感覚に近いかもと。

まあ、僕なんかは新納さんの技術や発言とはレベルが全然違うし、似たようなことを言うのは小っ恥ずかしかもあるのだけど、大きく重いカメラには撮り手のマインドにスイッチを入れるパワーも大きいし、撮り手をちょっと異次元の感覚へと連れて行ってくれるとも思うのだ。

大きく重いのは、部屋でメンテナンスして触ってる時くらいで、いざ撮影に連れ出してみると決して大きく重くない。何を言ってるんだと言われるかもだけど、そんなことを最近感じたり、考えたりしている。

時間の流れ方も変わるかな。即写とは異なる「写真を紡ぎ出す」というような感覚。まだ上手く言語化できないのだけど、K-1 Mark IIやGFX50SIIともう少し時間を重ねて、この話のじぶんなりの真理みたいなことを見いだせたらいいなと思っている。

やはり、写真やカメラは「こころ」だなと感じる今日この頃なのである。

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