
これは昔もブログに書いたかもしれない。「機材もまた、写真という思い出の一部」というフレーズ、実は以前、写真家の林ナツミさんが語られていた言葉で、それを聞いて以来、なんとなく僕の中で宝物のようになっている。
なぜ、そのフレーズが聞けたかというと、林ナツミさんが当時、プロの写真家さんのなかではめずらしく「インスタの投稿に機材名をさらっと添えられていた」のを見て、僕がとても参考になりますとコメントしたところ、そこで林ナツミさんが回答してくださったのである。
-「コメントありがとうございます。機材もまた、写真という思い出の一部かなと思っています」-
たしかにカメラやレンズは写真を撮る道具で、写真を見せるうえでは裏方で表に出る必要のないものとも言えるけど、その写真をどんなカメラとどんなレンズで撮ったのかというシチュエーションもまた、その写真を残すシーンを思い出させるものである。そんなふうに思う僕は、林ナツミさんの言葉に強く共感したのである。
きっと林ナツミさんは、ご自分の記憶メモ的な意味でインスタの写真に使用レンズ名などをさらりと添えていたのだと思う。そうやってどんな機材で撮ったかを記録として添えておくと、じぶんが過去の写真を振り返った時に、たしかに「写真という思い出の一部」として、色濃く写真を撮った日の記憶が蘇るのだと思う。

その日の天気、気温、その時の光の強さに対する露出、そのためにチョイスしたレンズ、そのために持ち出したカメラや三脚などのシチュエーション的記憶。じぶん自身の思い出としては、カメラやレンズなどの機材もまた、たしかに写真という思い出の一部なのである。
だからというわけじゃないけど、過去に使っていたカメラやレンズというのも、とても思い出深く愛着の濃い存在だ。考えてみると、僕は一度手放したカメラやレンズを、数年経ってから再び手に入れ直すことが多い笑。この話は余計な付録的話だけど、じぶんの過去に撮った写真などを見返すと、強烈にその時に使った機材などの思い出もよみがえる。
思い出だから、なんだかいいことばかりを美化して思い出すのかもしれないけど、昔撮った写真を見て思い出す感情とちょっと似ていて、あたまとからだがとてもポジティブに反応するような気がする。そして、実際に昔使っていた機材を手にしてみると、なんか言いようのないエネルギーのようなものを再び手にする気がするのだ。
これは、僕の個人的な感想みたいなものだから、他の人に当てはまる話かどうかは分からないので、異論反論はご遠慮いただきたいが、写真を撮る道具とは、少なくとも僕にとってはそんな存在だと思っている。
Leica M typ240も、MマウントのElmar 50mm f3.5も、僕のたいせつな思い出が詰まった道具であり、間違いなく写真という思い出の一部だ。そんなことをふと思い出したので、きょうの備忘録ということで、再びブログに綴ってみた。
そうそう、僕にとってはこのブログという記憶の装着もまた、写真という思い出の一部かもしれない。
★今日の注目商品をチェック!