そう書くと、なにやら昔の骨董品のように聞こえるが、尊いのはそれがいまでも普通に現役カメラとして使えているからだ。
いわゆる「機械式カメラ」と呼ばれるカメラたち。絞りもシャッタースピードもじぶんでセットすることが前提のカメラ。電池を入れて露出計を動かす仕様のカメラもあるが、僕はその電池も入れない。電池を使わず機械を動かしていることに感じる何かがあるから。
電気を一切使わずに精密機械が動いていることの感動は、なかなか言葉では言い表せない凄みがある。まさしく、尊いというレベルの。
僕が所有しているフィルムカメラは、ほとんどが機械式だ。電子シャッター機もあるけど、買い求めるのはほぼ機械式シャッター機のみだ。それはやはり、電子基板を必要としない機械式カメラなら、職人さんと部品があれば「直せて使い続けられる」という安心感があるからというのもある。
現代の電子デバイスの塊というデジカメでは、さすがに70年間も経過した個体が普通に使い続けられるなんて考えるのはむずかしい。けれど、機械式カメラなら、たぶんこの先数十年すら、まだいける。フィルムが存在するかどうかは分からないが、メンテさえすればカメラは生き続ける。
ちなみに、僕個人的にはフィルムは無くならないと考えている。ライカがあるかぎり、という条件付きだけど。ライカはフィルムメーカーではないけど、ライカがこの世にあるかぎり、フィルムは何かしら使い続けられる環境が残ると思っている。
ある意味、楽観的かもしれない。けれど、電子部品が無くなって、結果としてそのカメラが使えなくなるというプロセスは、どうもライカらしくない。ただ、それだけの理由だけど、それは妙に僕の中に強くある。
デジカメは本当に素晴らしいが、機械式のフィルムカメラは「使い続けられる」という、究極の尊さがある。冷静に考えると、とんでもない機構の究極の道具なのだ。それほどまでに、電気を使わずここまで精密に動く機械は、あとは機械式の時計くらいだろう。
この話に何か結論めいたものはない。ただ、きょうは僕がライカM3にふれて一日過ごしていたから、全身にその尊さを再認識したということで、このブログに書き留めている。(機械式カメラは別にライカだけじゃない。Nikonをはじめ日本の機械式カメラもまた素晴らしい。)
誰かにすすめるような話でもないが、電気を一切使わないカメラを動かして写真を撮ってみる、という極上の体験は、生きているうちに一度はぜひ。その尊さにちょっと人生観が揺さぶられるだろう。