僕の愉快なカメラたちは7台になった。正確に言うと一台は壊れちゃったから6台か。フィルムカメラが4台と、デジタルカメラが2台。フィルムカメラは購入した順に、Nikon FE、Konica C35、Leica M3、Nikon F2。そして、デジタルカメラのほうはRICOH GR、Nikon D300だ。一年前にはRICOH GRだけだったことを考えると少々”沼”にハマった感は否めないけど笑、でももう一度カメラとじっくり暮らしてみようと思わせてくれたのはフィルムカメラたちとの出会いなんだよね。でなかったら、一度はすべて手放したデジタル一眼レフをもう一度買い直すなんてことはきっとしなかっただろうから。
フィルムカメラと出会うまでの僕は、なんというかカメラの歴史や写真を撮る仕組みみたいなものをまったく知らなかった。もちろん、そんなこと知らなくたって最新のカメラでシャッターを押せば、搭載された最新性能のおかげもあって悪くない写真が撮れるわけだけど、それは僕にとってはいい絵を撮ろうという作画みたいなもので、”写真”を撮るということとは異なる行為だったんじゃないかと、今は思う。うまく言えないけど、写真の中に体温みたいなものが欠けていたんじゃないかなと思う。今も体温みたいなものを封じ込めた写真が撮れているかというと怪しいけど、それでもそういうことを意識してカメラや写真と向き合っている実感はある。
誤解を恐れずにいえば、撮影テクニックやかっこよさみたいなものをあまり気にしなくなった。むしろ作為的なかっこよさよりも、いまリアルにじぶんの目の前にある世界の普通さとか温もりとか秒針の経過みたいなものを気負わず素直に切り取りたいと思うんだ。そして、そういう人間味みたいなものが封じ込められたものこそ”画像じゃなくて写真”であり、古くはフィルムを開発した人、それを写すカメラという道具を考えた人、そうした意図にすごく共感して魅せられた人たちの手によって、写真という文化は形成されたんじゃないのかなって。実際はどうかは分からないけど、僕はそう解釈したし、フィルムカメラに出会った時にそういう衝撃というか気づきをもらった。フィルムに凝り始めると、そうした写真の文化とか、それをより豊かにしようと進化を重ねてきたカメラ関係者の人たちの熱さみたいなものを自然と感じ始めるようになるんだよね。で、それを当時のカメラを実際に手にすることで確かめたくなる。フィルムカメラに出会うとハマるのは、写真の原点や初心みたいなものに自然と立ち返っていくプロセスなんじゃないかと思うんだ。
フィルムが再現しようとしている色や風合い、それを作り出す露出の仕組み、その息吹が今も継承され続けたカメラたちの進化の歴史。そういうものに触れると、写真を撮ることがものすごく厳かなものに思えてくるんだよね。僕の場合は、もう一度フィルム色で家族の記憶を撮りためたいと思った。いま、ふたたび、家族とどこへ出かけるにも必ずカメラは一緒だ。そしてそれは単なる記録写真じゃなくて、記憶の写真として僕らシャッターを切っている。そんな意識になると、もう上手い写真とか下手な写真とかそういうテクニック的なことはゼロとは言わないけどどうでもよくなるようなところがある。少なくともプロではない僕の写真は、僕や家族が見て心がほっこりする写真であれは”いい写真”なんだと考えるようになったんだよね。
他の人たちが撮った写真なんかを見ても、上手く言えないけど”そういう気配”のあるものに惹かれるようになった。だから、ちょっと作為的な写真は苦手だったりする。むしろ、”キメていない写真”に心惹かれるんだなあ、フィルムを始めて以来の僕の写真を眺める意識としてね。キメるんだったら、もう圧倒的にキメてくれ、みたいなね。写真を始めてまだ3年程度の僕がなんか知ったようなことを言うのは恥ずかしいけど、でもそれが今の僕の心情だし、そうした本音がさらりと書けるのがじぶんのブログのよさでもあるかなって。
家族の写真は他人に見せるものではないので、このブログにすら披露はしないけど、僕は家族の写真がいちばん好きかな。そして、その感情こそが写真文化をここまで温めてきた何かだと思っている。フィムルカメラというのは始めてみるまではなかなか敷居が高かったりするのだけど、デジタルカメラをやっていてなんか写真を撮ることに意味を見失ったりした時、なんか人間の温もりみたいなものが欠けていると感じた時には、フィムルカメラを始めてみるといいと思う。なんというか、「写真の初心」みたいなものにきっと立ち帰れる何かに遭遇すると思う。