長かった梅雨が明けてからは、僕の中ではフィルムカメラ明けでもあって、ほとんど毎日フィルムを詰めては、いろんなフィルムカメラを散歩や街へ連れ出している。雨のジメジメした気分から、鬱憤を晴らすかのようにフィルムで光を追いかけてるわけだ。追いかけてるというと言い過ぎか。緩やかに辺りを数枚、シャッター切っている。
フィルムの写りのエモさ(Twitterなんか見てると、若い人たちはフィルムの描写をそう表現している)もあるけど、それだけじゃ僕はここまではハマってなくて、それにはやはりフィルムカメラの存在も大きい。クラシックな銀塩カメラの佇まいや、アナログの操作感がたまらなく現代において心地いい存在なんだよね。言うなれば癒してくれる存在であり、ちょっと少年心を思い出させてくれる存在とでもいえばいいだろうか。
まあ、あいかわらずフィルム価格の高騰や販売終了の銘柄がジワジワ増えたりと、どこか心の底でドキドキしながら、それでもフィルムがまだ普段の生活の中で楽しめる現代に少なからず感謝したりしている。そりゃ、フィルム価格をもっと手軽なものにしてよという思いはかなりあるけど、逆にいえばこれだけデジタルハイテク時代にまだフィルムが使えているのは奇跡的なこと。まだまだ根強い人気がこのフィルムというアイテムにはある証なんだろうね。
以前にも書いたことがあるんだけど、少し楽観的なことをいえば、ライカが存在するかぎりフィルムはこの世からは無くならないとは思う。M型ライカ(Leica MPやM-A)のために、必ずライカ社がなんとかフィルムを流通し続ける策を講じてくれると思ってるからだ。けれど、価格の方は相当上がると思う。庶民の僕が使い続けられるレベルの値段で入手が可能かどうかはかなり怪しいけど、でも、だからこそ、使えるうちにこの世紀の発明品を経験しておきたいという思いがけっこう強くある。
もしくは、少し夢のようなことをいえば、今の若い人たちの中のフィルムブームみたいなものがもっと盛り上がり、デジカメのマーケットはシュリンクしたとしても、カメラマーケットはフィルムカメラが支えるようになるんじゃないか、そんな淡い期待もどこかある。その時、カメラメーカーはどう動くか、カメラメンテナンスに関わる人たちの環境はどうなるか、現像機は果たしてまだ稼働しているのか、とか課題は割と山積みのままだけど、フィルムなんていう人間の本能に強く訴えてくるモノは、もう二度と発明されないんじゃないかとも思うわけである。
答えはまったく見えないけど、今はただただフィルムを味わい尽くし、僕の中の人間らしさみたいなものをささやかだけど歓ばせ続けたいと考えている。一日でも長くね。