そういえば、写真家の鈴木心さんのYouTube動画を観てたら、「海外のひとたちは、ボケのある写真は撮らない。」みたいなニュアンスのコメントがあって、なにげにちょっと驚いた。え?、そうなのかと。
海外(ここでは主に欧米なのかな)では、写真表現において構図とか色の配置とかそういうことを基本として考える文化ゆえに、ボケみたいなもので誤魔化さない…みたいなくだりだったと思う。たしかに、言われてみるとそうかもしれないと思って、少しネットで調べてみた。
そうすると、いくつか海外におけるボケのことに触れた記事があった。日本でいう写真表現のボケは国際語みたいになっていて【Bokeh】と呼ばれてるらしく、海外の写真を撮る人たちの間でも通じるらしい。けれど、そうして認知されたのは1990年代後半ということで、意外とつい最近だ。つまり、最近まで海外では写真表現においてボケという概念が無かったということでもある。
写真というのはパンフォーカスで撮るもので、実際、海外のフォトグラファーたちの作品はどれもボケを使わないものばかりだと。そう言われるとそんな気もする。
日本の場合だといわゆる明るいレンズを用いるのはボケの美しさを手に入れるため、みたいなニュアンスがあるけど、海外の人たちにとっては絞り開放値の明るいレンズとはボケのある写真を撮るためのものではなくて、暗い場所でも撮れるためのものという認識が一般的だった、みたいな風に記事には書かれていたと思う。
なぜ、日本人だけがボケという表現を好むのかははっきりとした見解はわからないのだけど、最近でこそ海外でも通じる写真表現のひとつにはなったとはいえ、つい最近までは使われていたかったと考えると、やはり日本独特の写真の撮り方なのかもしれない。
でも、あらためて日本の写真家の人たちの作品を見ると、たしかにプロの写真家の方々の写真はパンフォーカスで撮られている気もする。やはり何を撮るかとか構図、光と影の切り取り方が秀逸なのであって、アマチュア写真家のようにボケを用いた写真はあまりない気がするのである。
僕なんかは典型的にボケのある写真が撮りたくて、スマホカメラじゃなく一眼レフを手に入れた人間だから、このボケが好きな日本のアマチュア写真愛好家の典型なのかもしれない。たしかに、ボケでいろんなことを誤魔化しているという自覚もなくは無い。ボケがあったほうがそれっぽい、という考えがどこかにあるからね。
でも、ボケのある表現に惹かれる側面も大きい。写真家のセイケトミオさんのブログが好きで以前はよく眺めていたけど、セイケトミオさんがブログの中にポストされていた抽象的とも思える美しいボケのあるモノクロームの写真がずっと好きだったし、ソール・ライターの前ボケの写真なんかに無性に惹かれるじぶんもいる。もちろん、こんな巨匠たちの描くボケは、僕の撮るボケなんかとは質も解釈もまったく異なるレベルだとは思ってるけど、まあ恥ずかしながらやはりボケは好きなのである。
この話に答えは無いのだけど、なぜか夜中の3時にふと目が覚めてしまったので、ちょっと気になっていたことをブログに記しておこうと思った。このボケのことを考えるようになって、ボケを用いない写真を撮ってみようなどと意識もするのだけど、これもなかなかむずかしい。街中スナップではパンフォーカスで撮るけど、いざ散歩道で草花を撮る時なんかはパンフォーカス縛りというのは辺りが写り込みすぎる感じがしてね。
写真におけるボケとは何なんだろうね。個人の好みなのか、日本独特の何かなのか、それとも未熟さの表れなのか。そんなことを考えながら、きょうもまた実験のようにシャッターを切る。さて、もうひと眠りするか、それともこのまま起きていて朝陽が登るのを待つか。そんな祝日の早朝である。