KONICA C35

撮った写真をその場で確認しないフィルムの潔さについて。

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Konica 35, Hexanon 38mm

きょう木曜日はオフで、少々グジャグジャになった脳を癒しほぐすために、カメラを車に積んでいつもの古い町並みをめざした。カメラはNikon F6とNikon Df、最近のお気に入りの二台だ。前回訪れた時もこの二台だったんだけど、その時とは逆にカメラチェンジして撮ってみた。そのほうが前回の写真と合わせて、その町の姿をフィルムとデジタルの両方ですべて押さえることができるからね。

そうしてデジタルとフィルムの二台を持ち替えて撮り歩くと如実に分かるんだけど、フィルムは実に潔いなと。だって、撮った写真をその場で確認しないんだからね。フィルムで撮る人には当たり前の事実かもしれないけど、デジタルをやってると撮った写真をモニターで確認することもまた当たり前のことで、だからこそ失敗写真が少ないとも言える。まあ、撮りすぎるという意味での失敗写真は量産するんだけど、ここではそれは置いとくとしてね。

撮った写真をその場で確認しないって、凄くないか。撮れてるかどうかも分からないわけだから、現像するまで。それでも撮れてると信じて次々と撮っていくんだ。これ以上の潔さはないと思う。撮った写真を確認しないから、撮るテンポも実に軽快だ。僕が今日使ったNikon F6なんかはAF/AE、フィルムも自動巻き上げだから、実に速い。ほんとフィルムなのに撮りすぎるカメラだから。でもその撮りすぎる何かは、この撮った写真をその場で確認しないというこも大きいんだ。

その場で撮った写真はどこにあるかというと、じぶんの脳の中にイメージとして焼き付けられるんだ。鮮明にというよりは少しおぼろげながらな感じではあるけど、それでも脳がフィルムみたいになって、そこにファインダーの中の光景が焼き付けられる。カッコよく言おうとしてるわけじゃなくて、本当にそうなんだ、フィルムで撮る感覚というのはね。もう、これを潔いと言わずに何を潔いと言う、そんな感覚だ。

僕らは便利という進化によって大抵のものはその場で正確に確認できる時代を生きている。そういう毎日の中でこれだけ不確かな事象はもうフィルムカメラで撮ることくらいかもしれない。だからこそ、そこには強烈に惹かれる何かが存在するだろうけどね。もし、こらからフィルムを始めようかなと検討したりしてる人は、ぜひやってみたほうがいいと思う。フィルム写真の質感がいいとか、メカニカルなフィルムカメラがカッコいいとか魅力はいろいろあるけど、最も強烈な魅力とはこの「撮った写真をその場で確認できないこと」だと思うよ。

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