僕のTwitterのアカウントには、けっこうNikon Dfを使っている人がいる。けれど、世の中的にはニッチなカメラでありユーザーなんじゃないかと思う。いや、僕のことならともかく、Dfユーザー皆さんをそんな風に表現して申し訳ない。
でも、デジカメとしてはそれくらい異質な存在だと思う。デジカメの進化はハイテク感の進化でもあるから、そう考えればNikon Dfとは時代の流れに乗ったカメラでは決して無かったと思う。
事実、僕がカメラを始めたのはNikon D5300でありD750で、あの斜体のNikonのロゴがクールだと思ったし、当時のNikonのデジタル一眼レフの形がいかにもプロっぽくて、これぞカメラ!という気分で写真を始めた。
思えばその頃にすでにNikon Dfは存在していたと思うけど、僕の眼中にはまったく無かった。どこか年寄りじみて感じたし、野暮ったいとさえ思ってたんじゃないかな。とにかくそんな意識すらしていない存在のカメラだった。
そんなNikon Dfが急に視界に入るようになったきっかけは、間違いなくフィルムニコンで撮るようになってからだ。ひょんなことからNikon FEというフィルムカメラを手に入れて、あっという間にフィルム写真の魅力に取り憑かれ、Nikon F2のアイレベルで撮り始めた頃にはオールドニッコールのレンズも増えていった。
露出なんてことをちゃんと意識し始めたのもフィルムを始めてから。デジタル一眼レフで写真を始めた頃は、絞り優先であれこれ撮ってはいたけど、いま思うと、露出補正ダイヤルくらいしか使っていなくて、あとはWBで色味を意識するくらい。いかにカメラ任せで撮っていたかと思うし、そういう意味ではスマホカメラで撮ることと大して変わりない使い方だったように思う。
そのせいだけでもないけど、僕はその後しばらく一年間ほどデジカメから遠ざかることになる。デジカメはGRだけを残して、それ以外の数台のデジカメは手放し、ちょっと本格的カメラと距離を置いた期間だ。
フィルムカメラに出会ったのはその後なんだけど、フィルムカメラでフィルム写真を撮るようになって、感度、絞りとシャッタースピードの段数、マニュアルフォーカスの妙みたいなものを自然と意識するようになり、そうすると「もしかしたら、デジカメもフィルムカメラのように操作すればおもしろいんじゃないか」と思い始め、再びデジカメを本格的に再開するきっかけになったのが、このNikon Dfだった。
このNikon Dfは、Nikonが古くからのコアなファンに向けて発表したカメラでもあって、センサーはフラッグシップ機のNikon D4と同じものを採用するという力の入れよう。ダイヤルパーツの作り込み、シャッター音のチューニングなど、すべてが当時のデジタル一眼レフの文法とは異なる思想で作られた。
クラシックなスタイルのカメラという点でいえば富士フイルムのXシリーズも存在していただろうけど、ミラーレス機ではなくレフ機でこのスタイルを指向したカメラは、後にも先にもNikon Dfだけだろう。それは往年のFマウントレンズをアダプター無しの美しいフォルムのまま装着するという点においては、一眼レフであることが必須だったんだろうと思う。
Nikon FやF2、FE/FM系で活躍したレンズをそのまま装着して、かつ感度や露出補正ダイヤル、シャッタースピードダイヤルを操作して撮影する感じは、フィルムニコンで撮ることとほぼ差はなかった。往年のフィルムニコンを使ってきた人たちにしてみれば、ようやくカメラらしいデジカメが出てきたという気分だったんじゃないかと思う。
これがデジカメの進化の過程のなかで「後退」だったかどうかはよく分からない。スピーディに上手い写真を撮る観点から言えば、モードダイヤルを廃して往年のシャッタースピードダイヤルを復活させることは狂気の沙汰であったかもしれない。けれど、古くからその所作で写真を撮ってきた人たちには、それは後退ではなく写真撮影の復権だったのかもしれない。
まあ、理屈的に書くとそういうことだけど、僕的には「そのほうが楽しいから」というシンプルな理由でしかない。そのほうが気分がのる。ただ、それだけなのである。
万人に受け入れられる話ではないと思うけど、そういうニッチかもしれないニーズに当時目を向けたNikonは、なかなかの英断だったと思う。そういう姿勢に心打たれてカメラを手にする人間も少なからず存在する。そういう心持ちで撮る写真は、やはりどこか味のある一枚が撮れるんじゃないかという気もしている。カメラとは精神性と直結した道具でもあるのだ。