作品というのは、僕の中では創作しているイメージがあって、何かしら目的意識をもって、その構想にそって作り出されたものなのかなと思って。あくまで、僕の持つイメージの話だけどね。その意思自体はとても素晴らしいことだと思っていて、作品のためにカメラを持って遠くへ出かけたり、機材を研ぎ澄ましたり、現像レタッチにこだわったり、その熱はきっと日々を頑張って生きぬくエネルギーになる。
僕はそこまでエネルギーを注げないから、ただただ静かに目の前の光景たちを写真に撮っている。移動の路上、散歩の道端、家族や愛犬の写真。実に平凡な日常をカメラで撮っている。記憶してるといえばカッコいいんだけど、そこまでもなくて、カメラで写真を撮る行為が好きだから日々シャッターを切っているというのが正直なところだ。そんな緩い気持ちで写真を撮っていて楽しいのか? その程度ならスマホカメラで十分なんじゃないかと言われそうだけど、そこはやはりカメラで撮るからどこか心地いいんであって、それだから飽きずに日々撮り続けられている。日常とカメラがセットな感じなんだよね。
明らかに作品なんかじゃない笑。紛れもなく写真であって、それ以上でも以下でもない。もちろん、写真を誰かに見てほしいという気持ちはあるけど、それもこうして日々の記憶のブログの中で十分だと思ってる。十分っていうとなんか妥協してるように思えるか。妥協どころか本人としてはそれがむしろ気持ちいい。そのカメラとの距離感、割く時間の長さも、趣味としての適度な労力。どれもが気持ちいいんだ。好きなカメラで、好きな時に、好きなようにシャッターを切る。それが楽しくて、そのうえ気にいるような写真が撮れればそれはもう儲けものみたいな。作品を撮ってる人からすると、あまりに緩いカメラとの向き合いかもしれないけど、それも含めて許容してくれるカメラってのは懐が深いなあと思う。僕の生きてるシーンのほとんどはごくごく平凡な日常だから、そのほとんどを一緒に行動できるカメラというのは実に理に適った道具なんだ。