フィルム色は光も影も神々しい。こんな美しいものがこの世から無くなってはいけない。
昨日も少しフィルムとフィルムカメラの必要性を書いたけど、きょうも何気なくTwitterを眺めてたらあらためてそんな気がしたので、少し書いてみる。
タイムラインに流れてきたいくつものフィルム写真にハッとしたり魅せられたわけだけど、なかでも今日いちばん目がとまったのはこのツイートの写真たちだった。
外部リンクhttps://t.co/tyJB3OMCn2— 増田 彩来 | sara masuda (@sara_photo_912) January 19, 2019
saraさんという方のツイート。凄い数のいいねとRT数だったと思うから、写真好き、カメラ好きの人たちにはおなじみの方なのかな。僕は恥ずかしながら誰かのリツイートで流れてきて初めて知った。京急線という決して特別ではない日常のシーンがこうも豊かにあたたかいものとして描かれるのかと、ほんとハッとした。カメラを向けた人も、カメラを向けられた人も、とても自然でおだやかだった様子が伝わってくる。(というのは僕の勝手な想像で、そうでなかったらスミマセン。あ、ツイートももし掲載NGだったらご指摘ください)
僕はフィルムでもデジタルでも撮るけど、カメラを構える時に少し大きな違いがあるとするなら、逆光気味の方向にもフィルムカメラならレンズを向けるし、そうしたデジタルなら黒く潰れてしまうようなシチュエーションでも光をすくいとりたくなる時にフィルムカメラを持ち出す。フィルムが過去のものでデジタルが現代や未来のものという解釈ならこういうことにはならない。デジタルで撮れないものがフィルムで撮れるわけだからね。
写真というのはやはりつきつめると、この世の光のあたった世界をフィルムに、印画紙に封じ込める行為なんだろうから、真っ暗な空間ならともかく、わずかでも光がある空間なら黒つぶれすることなくその場の空気を写し取りたい。それを現代のカメラではなく、過去のものといわれるフィルムカメラとフィルムがやってのける。この凄さはちょっと神々しいとさえ思う。これだけ素晴らしい発明を過去のものというレッテルでこの世から消し去るのは、なにか自然界や人間界というレベルであってはならないんじゃないかとさえ思う。それほど、フィルム色とは美しい。
あまりにハッとしたんで、少し大げさな言葉の選び方になっちゃったけど、僕は本気でそう思うんだなあ。フィルムで撮るというのはなかなかエネルギーがいる。それでも、こうして決して少なくない数の人たちがあえてフィルムカメラを持って今日も日常をフィルム色で切り取ったり、残そうとしている。そして、そんなフィルムを愛する人たちを支えようとするフィルムカメラ界隈の仕事に従事する人たちがいる。社会は需要と供給の関係でできてるからフィルムが消費されないとやがて淘汰されるわけだけど、なんとかできないかなあと今日もこうして妄想したり。フィルム色とは代わりのきかない色だからね。