Street Snap近ごろ「コンデジ」が人気だと聞く。この場合の「コンデジ」とは定義がむずかしいんだけど、言葉をそのまま受け取るとコンパクトデジタルカメラの略だから、軽量コンパクトで気軽に持ち歩けるカメラということになるだろう。
ただし、カメラ界の中では「コンデジ=レンズ固定式のカメラ」という解釈もある。いや、カメラに詳しい人なんかは、こっちの解釈のほうが慣れっこかもしれない。
とはいえ、この解釈も現代的には微妙になっていて、やれフルサイズのレンズ固定式カメラや、なんなら中判デジタルと呼ばれる機種もレンズ固定式ならコンデジと括られたりもして、そうなるともはやサイズ的にも価格的にもコンデジと呼ぶのはどこか違和感があったりするわけだが。
Street Snapまあ、きょうはコンデジの話をしようと思ったわけじゃなく、なぜコンデジ(レンズ固定式)が人気なのか。それでみんな何を撮っているのか。それって、もしやストリートでスナップする人が増えていたりするのか、とか、そんなことをちょっと考えたりして、なんとなくブログを書き始めている。
たしかに、ストリートでスナップ写真を撮るとなると、俄然、少しでも小さく軽いカメラが威力を発揮する。その極め付けがRICOH GRのあのサイズだと思うけど、あそこまでコンパクトじゃないにしても、そうだな、僕的にいえばFUJIFILM XシリーズのAPS-C機あたりがなんとか持ち出せるサイズ感だろうか。
Street Snapそりゃ物理的には、その人の意思さえあれば、レンズ交換式のフルサイズミラーレス機だって持ち出せるし、なんなら望遠レンズをつけてストリートに繰り出す人だっているだろう。けれど、なにかと通行人の肖像権的なことが問われる昨今、あまり大きな機材をストリートで構えるにはかなりの覚悟がいるように思う。
その「街に溶け込んでカメラを構える」という観点でいくと、小さいカメラは当然ながら周囲に必要以上に注目されることなくカメラを構えることができる。別にやましいわけじゃないが、変に目立つよりは街と同化して必要以上に目立たず、さりげなくシャッターを切れたほうがいい。
Street Snapまあ、そうやって街中で目立たないためにコンデジが選ばれているかは定かじゃないとして、何はともあれ「さりげなく日常を撮る」という意味では、周囲に威圧感を与えないカメラであるほうが使いやすいし、持ち歩きやすい。
そんな使い勝手でいうと、それこそスマホカメラがいちばんさりげなく持ち歩けるわけだけど、そこをあえて「コンデジ」で撮りたいというニーズが出てきているとするならば、僕なんかはとても文化的でクリエイティブな現象として注視するし、うれしく思うのだ。
Street Snap街中=ストリートというのは、単に構造物の差があるというわけじゃなく、不思議とその空間ならではの匂いとか気配がある。それは単に視覚的な意識だけじゃなく、五感をフル稼働して感じている世界のありよう。それを、カメラがあれば写真の中に封じ込めることができる。この感覚は、スマホカメラでは得られない感覚だ。
と同時に、それは実際にカメラを持って体感してみないとなかなか実感できない類のものでもある。カメラと街を徘徊したり浮遊する感覚というのは、なにか意識がゾーンに入ったような、ふだんなかなか味わえない感覚といっていいだろう。ストリートスナップしている人ならきっとうなずける、あの感覚である。
Street Snap単に視覚だけではないものがいろいろ写り込むわけだから、ある意味、ストリート写真は肉眼では見えないいろんなものが混在し、異世界とも思える写真が撮れたりする。偶然性も含めて、その予期せぬ光景が写ることがストリートスナップの醍醐味だとも言える。
僕はストリートでスナップする時は大抵、ひとりで撮っているから、誰と会話するわけでもない、その街の喧騒のなかにまさに同化してシャッターを切るあの静寂とドキドキとする感覚は、できあがる写真と同じかそれ以上にゾクゾクとする撮影体験でもある。
Street Snapそうしたこのうえない時間が、カメラをひとつ持つことで体感できる。そんな、ある種の非日常感を求めて、人はコンデジという道具に目を向け始めてるんじゃないかと思ったりする。考えすぎだろうか。でも、これは本人が無意識のうちにとっている潜在的な行動心理だろうから、あながち全然違うというわけでもないんじゃないか。
ストリートスナップは、写真を撮っていると共に、その時代のその瞬間を記録している。本来ならただ素通りしてしまっている光景を、時間を止めて写し、それを後から眺めたり誰かと共有することができる。もはや、写真を撮るという一言では言い表せない副産物が山のようにある。
Street Snapカメラという機械はデジタルになったかもしれないが、その撮影体験でフル稼働する五感の様は、変わらず人間的で実にアナログ的だ。これだけ世の中がデジタル化した現代だからこそ、カメラという道具を持つことの価値が再認識されているのかもしれない。
そう、カメラは単なる道具じゃないのだ。そして、コンデジはそのゾクゾクする世界の入り口であり扉になっているのだ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、僕はそんなふうに考えている。




















































