Leica M3

静かなるクレイジー、Leica M3。

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Leica M3

人にも当てはまることだけど、ここではカメラのことだ。ライカM3。いろんなカメラを使ってきて、他に気に入ったカメラもたくさんあるのだけど、その中で独創性という意味においてはM3は群を抜いている。いや、異質という言葉のほうが似合っているかもしれない。とにかく「違う」んだ。

ここでいう「違い」というのは、良い悪いの「違い」ではない。褒めちぎるブログでもない。単に「違う」ということが際立っているという話である。正確にいうと、僕はフィルムのM型ライカはほぼM3しか知らないから、例えばM2やM4、M6なんかも同じ「違う」部類に入るかもしれない。でも、割と世の中のカメラ通の物書きの方々なんかが「ライカはM3を超えられない」的なコメントを綴っているのを見かけるので、初代機への念はあるにせよ、M3をベースにM型フィルム機を語っても差し支えはないんじゃないかと思う。

で、「静かなるクレイジー」の本論だ。静かというのは、まずM3に触ってみるとストレートに伝わってくる。人でいえば完全に物静かな人のそれであるように、このカメラは無言の、いや無機質というほうが近いだろうか、そういう冷徹さみたいなものを伝えてくる。触ると、それは確信に変わる。見た目を少し裏切るようにずしっと手が下がるような鉄の塊の重さだ。しかも、まるで血の通っていないかのような人の手を触った時の、あの冷やっとした感触がある。これに、最初は度肝を抜かれる。あまりに度肝を抜かれるもんだから、触った人も無言だ。僕がそうだった。

そして、おもむろにフィルム送りレバーを親指で引いてみる。普通の人ならここで再び無言で唸る。「何なんだ、このニュルリとした感触は」と。この時代のカメラはもちろん電気を使っていない。すべてが機械工作仕掛けだから、まあ人間くさい動きをするのはある程度想像がつく。でも、その人間くさい動きというのでも、他のカメラは大抵「機械っぽい」。つまり、良くも悪くもガシガシとかカチッとか、部品と部品が噛み合わさる何かしらのショックというか、そこに動作の明暗や始まりと終わりがある。けれど、このM3はそこに部品の噛み合いを感じない。ニュルリなんだ。

え、意外とM3てカチッとしてなくて緩い作りなの?と言われそうだけど、M3が凄いのは、ニュルリとした感触の中にとんでもない精密性を感じることなんだ。ニュルリとしてるのに精密、って何だ、その相反する釈然としない言葉の組み合わせは、と言われそうだけど、実際その言葉しか思い浮かばないのである。僕のM3は製造番号が75万番台の初期型でいわゆるダブルストロークと呼ばれるもので、フィルム送りにはレバーを二回引く必要がある。この二回「ニュルリ」とやることが、何者にも変えがたい陶酔感を使い手に与えてくる。そう思うのは僕だけじゃないはずだ。

このM3の中はどんな部品と部品が噛み合って動いているのか?と、一瞬不思議な感覚になるんだ。何度使ってもそういう感覚に陥るから、それは慣れようがないほど強烈な感触なんだ。いや、金属じゃなくて、絹とか液体とか空気圧とか、そういう金属じゃないものでしか生み出せないような、この世の機械工作では作り出しようのないような感触を覚える、それがM3の「ニュルリ」なんだ。

そして、ファインダーをのぞく。いや、ヤバいよ、もうこの段階では。フィルム送りレバーでこのカメラが只者じゃないと感じ始めてのぞくことも影響してると思うけど、その静かなる興奮の中、目をやった接眼窓の先には…とんでもないまぶしい世界が待っている。これほど美しい光を感じさせるガラスの窓を僕は知らない。さっきからコイツは何を酔いしれて饒舌に語ってるんだと絶対言われると思うけど、これはもう実際にのぞいてもらうしかない。広くキラキラとした視界の中に白く丹精に浮かび上がるブライトフレーム。何なんだ、この期待の何段も上を行くM3体験は。これが今から65年前の1950年代に完成していた世界だとは信じがたいと思うはずだ。

もう、ここまでの所作で普通の人はライカを完全に崇拝するだろうなあ。僕はそうだった。そうして、シャッターを切るのである。「ティッ」「テャッ」…陳腐にいえば「チッ」とか「チャッ」だろうけど、そこに単純な機械とは一線をかす、やはり繊細で精密な何かが挟まる。シャッターのショックを極限まで最小にしようとする尋常じゃない精密技術がそこに込められていることが分かる。その手本はきっと機械工作の世界じゃなくて自然界の風とか水とか葉が揺れる動きとか、絶対にそういう神レベルのものをめざしたとしか思えない感触だ。

もう、クレイジーなんだ、とにかく。写真を写すとか、機械を組み立てるとか、そういう工業製品の観点からいえば、ここまで研ぎ澄ませた品質を実現する必要がどこにあったのか、それは分からない。だって、その前身であるバルナック型ライカのあの感触でも十分だし、カメラとしてのエモーショナルな楽しみもそこにはしっかり宿っていたと思う。他のカメラと比較しても十分秀逸だったであろうはずだ。バルナックライカの、あのカメラらしい質感からある意味「超越」の域にいってしまうM3に、ライカのとんでもない革新性を感じずにはいられない。たぶん、誰もそこまでのクオリティは望んでもいないし、想像すらしなかったのに、自らその到達点へとハードルを高めまくったカメラ、M3。もう、奇跡としか言いようがない。

僕の手元には、いまM3がある。そして、今日もニュルリとやっている。M3が今なお歴代最高のライカと言われるのは、決して伝説に酔いしれているわけじゃない。これだけ世の中のテクノロジーが進歩しても作り出せない何かの正体は何なんだろう。その得体の知れない感覚が、このカメラを「静かなるクレイジー」な存在たらしめていると思う。まだM3を触ったことがない人は、ぜひ一度触ってほしい。そして、無言でしか納得のしようがないその超越した何かを感じ取ってほしい。

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