日曜日の朝、懲りずにいつもの散歩道を愛犬とNikon Df+50/1.8Gと歩き写真を撮る。いつもの道だから特に変わり映えする景色があるわけでも無い。それでもわざわざ一眼レフを持って写真を撮るのは、日常を記憶すると共に、露出なんかをいろいろ試したいからなんだよね。
他の人のことはよく分からないけど、僕にとってはカメラやレンズは尽きない課題ばかりだ。朝の光は順光がいいのか逆光がいいのか。感度は100がいいのか400がいいのか。明るいレンズは何段絞るとおもしろいのか。シャッタースピードは結局125がいいのか250がいいのか、それとも500がいいのか。フィルムカメラを始めてすっかりハマったこれらの疑問というか課題、そんな無限とも思える無数の組み合わせのテーマを、日々試し続けてるといっていい。
そんなことをひたすら試すのにデジイチを再び手にしたところがある。なにせいつもの散歩道だから、とりたてて珍しい光景がいつもあるわけじゃない。露出に変化をつけながらひたすら試し撮りするのにフィルムを使い続けてたら、さすがにコストが持たない。露出やマニュアルライクな撮影を学ぶのに、もう一度デジイチを購入しようと手に入れたのがNikon Dfだ。
愛犬と散歩する時は、やんちゃな動きをする愛犬のリードを持っていても写真が撮れるように、撮影モードは絞り優先かシャッタースピード優先。レンズはAFが多い。そうして、光や影を意識しながらファインダーをのぞいて、その露出〈絞り値とシャッタースピード〉を確認する。今朝なんかは絞りf3.5付近をいろいろ試してたけど、朝晩の光が微妙な時間帯はあえてプログラムモードにして、絞り値とシャッタースピードがどこになるかを確認したりもする。それがいつも新鮮でたのしいんだよね。僕にはゲーム的でね。
そうしてデジイチをマニュアルライクにしてつかんだ露出感覚を、フィルムカメラの撮影に活かす。活かすといってもデジタルとフィルムは露出が同じでも当然描かれ方が変わるから、また課題が生まれる。今度はフィルムカメラで疑問に思ったことをデジイチで試す、その繰り返しみたいなね。もうこの試し撮りのサイクルは果てしない。どこまでいっても正解が無いような果てしなさがある。レンズが変わって、カメラが変われば、またベクトルが異なる課題が出てきて、まるで事が着地する感じはない。カメラやレンズがよく「沼」と言われるけど、あれは物欲をさして沼というより、このちょっとやそっとでは正解を感じられないカメラと写真の奥深さにハマっていく状態を指すんじゃないかなと思う。
このカメラやレンズ、露出のことなんかが少し「分かる」という感覚でいえば、カメラとレンズの種類はむしろ増やさないほうがいい。カメラもレンズも一種類だけに固定して、ひたすらそこを深掘りしていったほうが何かがつかめると思う。つまり、この場合は世の中でいわれるカメラ沼やレンズ沼とは真逆の方向なんだけど、このなんともつかみづらい正解を追いかける行為もまた沼だなと思う。いや、こっちのほうがむしろ本当の沼だと。
人生は、昨日分からなかったことや出来なかったことが今日出来るようになる、その繰り返しであり、その一つひとつがまた次の向上心を誘発する、そんな果てしないサイクルの連続。カメラやレンズがいいのは、そういう人生の縮図みたいなことを教えてくれる道具であることだ。仮に露出のことなんかが分かるようになったとしても、日々目の前に現れる光景は光も違えば影も異なり、同じ光景は二度と現れない。つまりどこまでいっても正解なんかつかめない試される世界の連続なわけだけど、それが僕らを飽きさせないし、いかにも人生そのものだなと思う。どうだろう。