写真とは

制約は向上心の母である。カメラもね。

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Nikon F2, Auto50/1.4, Fuji業務用100

僕は以前、NikonのD750というデジイチを使って写真を撮っていた。カメラを始めて数ヶ月で手に入れたフルサイズのカメラで、とにかくファインダーやシャッター音が嬉しくて、愛犬と散歩しながら道端の風景をいろいろ撮ってた。少しネットやカメラ雑誌で撮影知識を学んで単焦点レンズや望遠レンズを揃え、そういう意味ではスマホカメラでは撮れない世界をそれなりに楽しんでたんだと思う。

それから数年経ち、その間にデジイチをすべて手放して、フィルムカメラを始め、今また再びデジイチを手にしたカメラライフを送っている。カメラを始めた当時と違うのは、露出や感度のことを考えながら写真を撮っているということ。当たり前に聞こえるかもしれないけど、以前D750で撮っていた頃は、正直あまり露出や感度のことは理解していないまま撮ってた。それでもなんとなく撮れちゃうんだよね、現代の高性能なカメラなら。

そんな程度の知識の僕がある日フィルムカメラを手にしたもんだから、最初は驚いたなあ。以前の僕は、こんなにもカメラ任せで写真を撮っていたのかと、フィルムカメラを使うようになって初めて気がついたんだ。と同時に、現代のカメラと比べるとあらゆる点でスペック的に劣るフィルムカメラだけど、カメラの仕組みを学びながら工夫する喜びみたいなものを得ていくには、このあらゆる「制約」がとても大切だなとも感じた。

昔のフィルムカメラは感度でいえば最高でもISO1600まで。常用でいえばISO100か400だから、今のカメラのように数万のISO値の感度なんて魔法のような世界。感度100とか400という制約の中で、絞りやシャッタースピードを工夫する。そのシャッタースピードをにしても、いいところ最高1/500とか1/1000が限界だから、そうするとある程度絞って撮らないといけない。現代のカメラならシャッタースピードはシャッタースピード1/4000や1/8000は当たり前だし、ご丁寧にNDフィルター機能もあるから、明るい単焦点レンズを付けていてもシャッタースピードの「制約」なんて考えもしなくて撮れるからね。制約を考えもせずに被写体に向きあえるのが利点とも言えるけど、僕はそれ、カメラの楽しみを半減してると感じたんだ。フィルムカメラという「制約」のあるモノと出会ったおかげでね。

感度の制約、シャッタースピードの制約、古いレンズゆえの癖や、ほぼ撮る時に補正なんてできない制約。そんな制約たちが、それを突破するための工夫や、それを逆手にとった写真のあり様みたいなものを発想させてくれる。そんなこんな試行錯誤を繰り返していると、ようやくカメラの構造の基本である露出のことが頭に構造として染み付いてくる。そこからようやくカメラという道具と共同作業で写真を撮る楽しみの本質みたいなものが分かるようになったんだよね、僕の場合は。

だから、制約はとても大事。カメラなら万能で高価な高性能カメラを手にするのもいいけど、例えば安いカメラでスペック的制約のあるものと向き合うほうが撮影の工夫という意味では実はワクワクするし、高価なカメラやレンズでも万能タイプよりは特長を絞ったモノのほうが、とんがったおもしろさが味わえる。それもある意味制約を楽しむということ。僕は広告の仕事をしてるけど、広告の表現というのはまさに制約だらけの中からアイデアを紡ぎ出す仕事で、まあ日々制約だらけの中で生きてる様なもんだけど、制約があるから工夫する楽しみがあると、ずっと教えられてきたし、実際それが日々の創意工夫になったことは間違いない。

制約というのは、意識の持ちようによってはとてもネガティブに聞こえる言葉だけど、制約こそが目の前のハードルを越える向上心の母であり、制約の中から突破してアウトプットを高めることこそが最高にクールと考えると、これほどポジティブなこともないよなと思う。そういう、生きてく上での本質的なよろこびみたいなものをフィルムカメラが思い出させてくれたように思う。そういう制約の仕組みのようなものの原点が理解できてから、満を持して高性能なものを手にした時に、その高性能を本当にフルに引き出せるよろこびが味わえるんじゃないかな。そこへ到達するには一生かかっても時間が足りないとも思う今日この頃だけど。

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