KONICA C35

カメラで写真を撮るのは五感にいいんだ。特にフィルムは。

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Konica C35, Hexanon 38/2.8

さて、2018年最初の日も夜になり、いろいろ考えていたことが脳の中で形になりつつある。今夜はやっぱりカメラについて。それもフィルムカメラについて。

僕のフィルムカメラの日常的メンテナンスは、手の体温でカメラをなでてやり、各部ダイヤルなんかをコリコリと動かしてやった後、数回空シャッターを切ってあげること。あたりまえに聞こえるかもしれないけど、デジカメではあまりそういうことはしない。フィルムカメラならではの儀式だ。それは、デジカメが電化製品的であるのに対して、フィルムカメラはとても人間くさい機械に感じるから。なでたりしてやると、歓ぶ感じがするんだよね、いや本当に。

フィルムを入れる儀式もそう。あの独特のフィルムの匂いが、僕の人間らしさみたいなものを目覚めさせてくれる。そう考えると、フィルムカメラとはにんげんの五感に訴える塊のようなものだと思えてくる。視覚でいえば、あのなんとも愛おしいフォルム。ヴィンテージカーと一緒で、あの当時の技術だから生まれた直線と曲線の混ざり具合は、現代のハイテク機器にはない美意識を感じずにはいられない。

そして触覚。そのフォルムと絶妙の材質で作られたカメラたちの手触りは、もう二度と再現できないような高揚感を現代を生きる僕らに感じさせる。本当のヴィンテージとは、見た目だけじゃない、この手触りを言うんだと思う。

さらに嗅覚。フィルムの匂いもそうだけど、クラシカルなカメラたちは独特の香りを放つ。鉄の香りのような、皮の香りのような、手垢のようでもあり、その時代に染み付いたような匂いであり。半世紀も前に作られたカメラたちは、ボディに傷をため込むのと同じように、さまざまな匂いを身につけてきてるんだろうと思う。とにかく、たまらない。本能を刺激する匂いといっていいだろう。

そして、聴覚。もしかしたら、これがいちばん僕らを刺激する時代感かもしれない。巻き上げレバーの音、シャッター音、ダイヤル操作の音、レンズ交換の部品がこすれあう音、フィルムカバーを閉じる音。どれをとっても現代の最新式カメラでは決して奏でることのできない音を聴かせてくれる。この音が聴きたくてフィルムで撮ってるところもあるくらいだ。決して上品な音ではないけど、感性に訴える熱みたいなものがある。もし音をデザインするディレクターがいたとするなら素晴らしい仕事だというほかない。

と、ここまてきて、後は味覚だけど、カメラに味覚なんてないじゃん、ということだけど、僕にはそれがあると思っていて、それこそが現像上がりのネガであり、ポジであり、プリントだと思う。つまり、フィルムカメラだから味わえるあの収穫のような産物だ。これだけハイテクでデジタルなものがあふれる時代に、なにもわざわざフィルムを現像して写真を楽しむ必要なんかないんじゃないかと思うけど、あのフィルムの「味」だけは逆立ちしたってデジカメには真似できない。だからこそ、フィルムから離れられず、今なおフィルムで撮り続ける人たちがいる。僕もその一人だ。

きょう、フィルムカメラたちをメンテナンスがてらさわりながらそんなことを随所に再確認して、それはつまりにんげんの五感すべてに訴えてくる魅力なんだとあらためて気づいた。で、こればっかりは、実は言葉で説明するのはむずかしい。五感に訴えるモノだから、やはり手にして、さわって、動かして、撮って、現像してみないと分からない歓びでもある。今年あたり、フィルムに挑戦してみようかなと考えてる人は、休みが明けたら、ぜひ中古カメラ店をのぞいてその五感でフィルムカメラの味を確かめてほしい。決して少なくない人々がフィルムカメラに魅せられるのは、何もフィルム写真の味だけじゃないんだ。それを写すフィルムカメラというモノたちに魅せられてることが伝わってくると思う。僕もそれが伝えたくて、こうしてブログを書いているところもある。

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