そんな大袈裟なことではないんだけど。でも「F」で撮ることというのは、ちょっと理屈じゃないところがあるんだ。
Nikon F一桁機を好む人なら分かると思うけど、初代機Nikon Fは決して完成度の高い製品じゃない。実際、Fの改良版として誕生したF2は機械式カメラの最高峰といってもおかしくないくらい、その作りの綿密さは素晴らしい。フィルム送りレバーの感触はその最たるもの。隙がない作りが、無言でその堅牢性の凄さを手に伝えてくる。それからすると、Fはずいぶん「緩い」。
けれど、それがよかったりするんだ。人間味というかね、使っていて気負いがない。もちろん、登場したその当時はそれでも最高峰の作りとして世の中を席巻したのだろうけど、その後に進化を続けたNikon F一桁機たちと比べると、良い意味で甘いんだ。
でも、僕なんかはほんとラフに週末に癒されたいためにカメラと過ごしているようなもんなんで、なにも完成度ばかりを追い求めてるわけじゃない。Nikon F5の「ロボ」のような作り込みの凄さを堪能する一方で、そればかりじゃ息が詰まるというか、時に裸足になって砂浜を歩くようなラフさが欲しい。そんな緩いひと時に「F」はどんぴしゃハマる。
なんだか、プロ機Fでちゃんと撮ってる人には「そんな緩いカメラじゃない」と怒られそうだけど、僕は完成度の高いF2やF5に対して、Fにはそういう隙を求めるんだ。あくまで僕の私見という意味でね。それと、やっぱりFについては、初代機というNikonの一眼レフの原点としての思い、そしてこのブラックボディの精悍さに僕はちょっと特別な感情を抱くことも大きいかな。単に機能性なんかを超越してるのが「F」なんだ。
世の中がいろんな意味で複雑かつ高速、完成度の高さを求める時代にあって、Nikon Fが持つ緩さとシンプルさは、今となっては実にバランスがよくて、僕にはとても貴重な時間をもたらしてくれる存在。良いカメラという意味では他にたくさんの製品があるけど、Fに求めるのはそういう機能性や利便性、完成度じゃない。心地よさなんだ、適度に隙や甘さ、そう、人間味を再確認する心地よさ。それが僕にとってNikon Fで撮るということ。