Leica M-P typ240

M3の“あの”所作と感覚をデジタルでも。

Leica M-P typ240, Summilux 50/1.4 2nd

近ごろまたM型デジタルが支持されてるように感じるので、僕のM型デジタルに対する思いみたいなものを載せておこうと思う。あくまで個人的な経緯と見解なので、みんなにあてはまるわけではないとは思うけど。

僕にとってのM型デジタルとは、「M3の現代の生き写し」というほかない。M3の、あの唯一無二の撮影フィーリングをデジタルでも味わいたいと考え始めた結果、比較対象となるモノは全て消え去り、ただひとつ「M型デジタル」という選択肢だけが残るのである。あのファインダー、あの手の中の感触、あのシャッターフィール、そしてあのレンズの描写が現代に蘇るフィルムライクなJPEG画像。そのどれもが、僕にはM3のオマージュに他ならない。

M3の生き写しだから、レンズはおのずとM3で使う50mmのいつものレンズになる。最近、スナップ用にマイクロフォーサーズのOLYMPUS PEN-Fを手に入れて広角レンズで街撮りすることも多いけど、時としてM型デジタルに50mmレンズをつけて夜の街を撮ると、なんというかそのヒリヒリとした感覚に「あ、やっぱり50mmスナップのこの感覚はたまらんな」と再認識する。僕の目線をトレースするあの絶妙の画角感覚は、やっぱりM3のあの感覚なのである。

今でいうならボディのその薄さもM3とほぼ同じとなったM10やM10-Pがまさに生き写しなんだろうけど、僕はM-P typ240を意を決して手に入れた経緯があるんで、一生使えるかどうかは別として「M3と共に、M-Pを一生もののライカ」として人生の道具にしていこうと心に決めている。M3と出会わなかったら、たぶんM-Pは手にしていないし、M-Pがなかったらこれほどデジタルを使う頻度は高まらなかったんじゃないかと思う。

M3は現在でもそれなりに高価だが、M型デジタルに至ってはバカみたい高額だ。高機能なデジカメが世にはたくさん溢れているなかで、時代が止まったかのような限られた機能しか持たないマニュアル志向のデジカメを持つ意味は正直無いんじゃないかと思う。性能と反比例するように不当に高価だからね。でも、M3のあの所作と感覚をデジタルでも再現したいとひとたび思いたったならば、このM型デジタルは途端に現実味を帯びた存在になる。デジタル時代になり、二度と得られなくなるのではと思われたあのM3の感覚を、また手にすることができることへの代わりのきかない価値として。

実際、M型デジタルの写りは、フィルム時代のライカが写し続けてきたあの感覚を、ちょっとクレージーなんじゃないかというくらい突き詰めて再現しようとしていると僕は感じる。そのライカの開発者たちの「じぶんたちは何者か」という理解と、歴史を重んじるリスペクト精神、決して時代に流されない確固たるクラフトマンシップが、このカメラを他とは似ていない孤高の存在たらしめている。マーケティングに流されず、マーケティングを自ら創出する、そういうライカにまたリスペクトが増すのである。一個人のライカ観ではあるけれど、記憶メモとして。

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