週末、ニコンのちライカ。
昨日の土曜日はフィルムのNikon FとミラーレスのNikon Z6と過ごしたけど、日曜日の朝は気分を変えてライカたちと過ごしている。これは、なんというか意図してというか本能的なチェンジ。ニコンのような本格的カメラを触れば触るほど、反動のようにライカが触りたくなるのである。
ライカというのは、ある意味カメラじゃなくて「ライカ」だ。それは、現代では珍しくなったレンジファインダー(距離計カメラ)機ということもあるけど、他のカメラたちとはどこか一線をかす存在。
つい先日、Twitterで「ライカ使いたちは、おれのカメラと呼ばず、おれのライカと呼ぶ」というちょっと皮肉を込めたツイートを見た気がするけど、それは実際、自慢か何かでそう呼んでるんじゃなくて、カメラというよりはやっぱりライカなんだと、僕なんかは少し納得して見ていた。
ライカの良さを一言で言い表すのは難しいけど、もしかしたらこの「カメラというより、ライカ」という立ち位置を感じさせることこそが、最上の凄さなのかもしれない。
半世紀以上前から見方によっては大きな変化はまったく無く、いまだにMFで撮ることを撮り手に要求するライカ。そんなカメラは他に無いし、そんな時代に取り残されたようなトラディショナルなカメラがむしろ高価であることは、カメラをやらない普通の人から見たら実に馬鹿げた話ではあるけど、ライカファンは一向に減らない。むしろ増えている気さえする。これは何を意味するのか。
僕もライカを使うまでは、ライカなんてお金持ちのおじいちゃんが骨董品のように使う(飾る、自慢する)モノだと思っていたけど、ひょんなことから手にしてみたら、それは使った者にしか分からない、カメラ好き、なかでもスナップ好きを魅了する塊であったと、いい歳をして納得がいった。
写真のバルナックライカは、ボディだけなら三、四万円。代表的レンズであるエルマーを足しても一桁万円で手にすることができるだろう。そう、決して他のカメラより高価なわけではない。イメージとは怖いもので、このバルナックの値段の話をすると、大抵の普通の人は驚く。そんな値段でライカは買えるのかと。
これはカメラじゃなくて、ライカ。その言葉の裏にあるワケを知ることは、何か大人の科学のようで楽しいし、何よりライカならではの写真が現代でも実用品として撮れることにまた惚れるだろう。そこで気に入れば、M3などもう少しモダンなフィルムライカを手にすればいいし、ゾッコンになったらM型デジタルライカへとライカの未来を確かめてみるのもいい。
僕はニコンのカメラたちが大好きだけど、そんなニコンたちを使い込むと必ず使いたくなるライカとは、やっぱりなかなか偉大だぞといつも思う。こういう嗜好品はあくまで個人的な好みの問題だから、他人に押し付けるものではないけど、ライカだけは人生で一度、体験してみてほしいなと、カメラファンの一人として思うんだよな。余計なお世話だけど、余計なお世話がしたくなるんだ、ライカは。