元旦の朝、ふとこれまでの僕と僕のカメラたちのことを記憶に残しておこうと思った。そこから、何かが動き出すかもしれないとか考えながら。
僕が意識してカメラというものを所有した最初の一台が、Nikon D5300だ。意識してと書いたのは、それ以前にSonyのサイバーショットを仕事の記録用カメラとして持っていたことがあるから。でも、いわゆる趣味として写真が撮りたいと思って購入したのは、このD5300が最初。Nikonを選んだのは、どこか職人的で道具感のある雰囲気を持っていたからだと思う。実際このD5300はコンパクトだけど僕には十分無骨な道具に見えた。この時に一緒に購入したレンズが、キットのDX 18-140と単焦点50/1.8G。特に50/1.8Gの写りにはいっぺんで魅せられた。当時飼っていた愛犬とほんとよく撮り歩いたな。
その次に買い足したのが、コンデジのNikon Coolpix P340だ。購入した動機は、平日に持ち歩けるカメラが欲しくなったから。しかもNikon D5300の操作ロジックを一日も早く覚えたかったから、Nikonのコンデジを探した。P340を選んだのは、50/1.8Gと同じレンズのf値がf/1.8だったことと、そのスクエアなデザイン。あと値段もたしか2万円ちょっとでかなりお買い得に思えた。ランニングの友として、出張なんかのスナップの友として、けっこう大活躍してたな。モノクロを積極的に撮り始めたのもこのP340から。センサーが小さいからカラーの写りはAPS-Cデジイチには敵わなかったけど、モノクロはほんといい写りをしてくれた。
そうすると、コンデジで撮るスナップにハマっていったんだな。当時、D5300やP340の写真をTumblrにあげてたんだけど、ある日フォロワーの人が僕のP340の写真に影響を受けて同じくP340を購入され、しばらくその人もP340でスナップをアップされていた。そうしたら、ある日、その人がRICOH GRに買い替えたんだよね。理由は起動の速さ。P340の写りには満足されていたんだけど、せっかくのシャッターチャンスにどうしてもP340だと起動が追いつかない。それが決定的理由で買い替えられ、その人のTumblrにはGRの写真が流れ始めた。このエピソードが僕を直撃した。ネットで調べてみるとGRとは何やら究極のスナップシューターであることが分かる。次の日には僕はGRを手にしていた。
この頃からかなあ、少し沼みたいなものを意識し始めたのは。D5300とGRでAPS-C機の写りに魅了されていった僕は、その先にあるものを見たくなった。当時の僕にとっての「その先」とは「フルサイズ」のことだったんだよね。まわりのハードなカメラ使いの人たちはみんなフルサイズを使っていた。知り合いの編集者の人もひたすら僕にフルサイズをおすすめする。当時はフルサイズの意味もよく分かっていなかったけど、とにかくそれが最高峰のように思えて、とにかくその世界をのぞいてみたくなった。D5300を修理に出した時だったと思うけど、予備機を持っていなかった僕は、D5300と入れ違いにD750を手に入れることになる。その際に24-120/f4をキットレンズとして手に入れ、以降、望遠70-300、マクロ60/2.8にわかにボディとレンズが増えていった。実際フルサイズの写りは僕には驚嘆のレベルで、この頃には物欲を止められないじぶんがいた。
その後手に入れたCoolpix P900はもう勢いだけだったな。望遠70-300の世界に魅せられ、息子のサッカーの様子なんかをもっと高倍率で撮りたくなった。あと、月を撮りたいと思ったんだよね。この頃はすっかりNikon党だったから、迷わず最高倍率のP900を選んだ。2000倍相当の焦点距離と強力な手ぶれ補正のおかげで、手持ちで月の表面を撮ることができて驚愕したのを覚えてる。でも、一眼レフと比べるとその写りの質のほうはなんかしっくりこなくて、だんだんとカメラに迷いが生じ始めたんだよね、たしか。で、ある日、RICOH GRだけを手元に残して、すべてのカメラとレンズを手放すことになる。いわゆる断捨離ってやつ。いつのまにか増えすぎたカメラとレンズを使いこなせなくなったじぶんがいたんだよね。
そらからというもの、しばらく僕はRICOH GRとだけ過ごす日々が続いた。一年くらいそうだったかな。当時は、僕はもうこのまま新しいカメラを増やすことはなく、GRだけで生きていくと思っていた。ところがある日、このフィルム機のNikon FEに巡り会うことになる。たしかNikonの経営危機が噂されていた時で、どこかNikonに思い入れのあった僕は、Nikonをなんらかの形で応援したい気持ちがあった。でもデジイチはもうじぶんの中では無いなと思っていて。そんな時に、Twitterの中でフィルム写真たちが目に入り始めたんだよね。そっか、フィルムならNikonはアリだなと。フィルムの知識なんてこれっぽっちもなかったんだけど、まさに直感でこのFEを購入し、持ち帰ることになる。そうして、分からないなりに試し撮りしてみた写真たちは、現像の楽しさも含めて僕をとりこにしていったんだ。そうだ、僕が撮りたかった写真はこんな写真たちで、そっか、それはフィルムだったんだと。
僕の週末にNikonの一眼レフが帰ってくると、やはり平日もフィルムで撮りたくなっていった。最初はOlympus TRIP35を探していたんだけど、程度のいいモノを見つけられず、お店を転々とするある日、このKonica C35に出会う。おそろしく綺麗だったそのボディは写りの方も想像以上に優秀だった。テッサー型のレンズHexanonはいまでは僕のお気に入り中のお気に入りレンズだ。そして、生まれて初めてレンジファインダーのカメラを手にして、僕のカメラ観がまた少し開けていくのである。
Leica M3との出会いである。現在のライカの地位を不動のものにしたM型の原点でもあるM3。フィルムにハマった僕がどうしても見てみたかった世界が、このM3が記憶する世界だった。今でもはっきりその感触を覚えているけど、初めてお店でこのM3にさわり、ダブルストロークのレバーを巻き上げ、空シャッターをきった時の衝撃はとんでもなかった。ズシリと手に馴染むその機械の塊感も圧倒された。これが、ライカかと。もっと驚いたのは、使い続けるうちに、このフィルムライカが実に日常的でフレンドリーなカメラであることに気付かされたことだった。こんなカメラは後にも先にもM3だけだと思った。
そう、そして僕は機械式のカメラに魅せられていったんだ。電池を一切使わないカメラが持つ、異常な安心感と道具感。Leica M3で感じとったその感触をNikon機でも味わってみたかった。そして、壊れても職人の人さえいれば直せるであろうNikon最後の機械式フラッグシップ機であるF2を手に入れることになる。ミドル機でコンパクトなFEと比べると、手に持った瞬間から世界は異なる。F2はプロ機とは何ぞやということを無言で伝えてくる迫力があった。見るからに堅牢性の塊のようなそのカメラは、あらためてNikonのカメラのポリシーのようなものを僕に強烈にアピールしてきた。
と、本来であればこの機械式カメラたちとの出会いで僕のカメラへの探求は終わりになるはずだった。ところがフィルムカメラ、そしてマニュアルで撮ることの楽しさを覚えた僕は、再びデジタルでもマニュアルライクな撮影が楽しめるんじゃないかと考えるようになる。そう、以前デジイチを使っていた僕は、露出をじぶんで決めて楽しむというカメラ本来の操る楽しみをカメラ任せにし過ぎていた。でも、機械式のフィルムカメラを楽しめるようになった今、デジイチでそれを確かめたくなり、あえて画素数や感度がフィルムカメラに近い10年前のデジイチNikon D300を手に入れる。そして、オールドニッコールのレンズたちを装着してマニュアル撮影を楽しみ始めるのである。
Nikon D300とオールドニッコールで試したデジイチのマニュアルライクな世界は想像以上に楽しかった。そして、何より軽快だった。ここで、デジイチでも十分フィルムのようにカメラを操りながら写真を撮ることができると確信した僕は、満を持して本命だったNikon Dfを手に入れることになる。フィルムニコンの再来ともいえるクラシックなボディデザインと、マニュアルライクな操作ダイヤル、そしてかつてのオールドニッコールが装着できる懐の深さ。何年かぶりに僕の手元にNikonのデジタル一眼レフが形を変えて帰ってきたのである。今では愛犬との散歩はもっぱらこのDfがメインだ。そして、次なる確かめたい世界が見えてきた。
それが、Nikon F6だ。Dfを手にしたことでフィルムとデジタルの境目がいい意味で曖昧になってきた僕は、逆にフィルム機でもデジタルライクにオートフォーカスや現代的機能を楽しめるんじゃないかと考えた。そして、もうひとつ、リバーサルフィルムを楽しむための信頼できる露出計とシャッタースピードを備えたカメラ、それもできればフラッグシップ機で試してみたいという欲求が高まっていったのである。そういうことを考えている時に目の前に現れるのがカメラである。ある日、中古カメラ店のショーケースにF6を見つけ、ついにNikon最後のフィルムフラッグシップ機を手にする。その後の様子はこのブログでも何度か書いてきたからもうおわかりかもしれないけど、僕の想像を遥かに超えて、期待に応えてくれたのである。
これが初めてカメラを手に入れてから現在までの、僕と僕のカメラたちの軌跡である。とても詳細は書ききれないけど、もしそれぞれのカメラに興味がある人は、過去記事をブログ内検索してもらえると少しはお役に立てるかもしれない。こうして振り返ると、すべての出会いは必然だなと思う。どの部分が抜けても今の僕と僕のカメラは存在しない。そして、カメラがこうして増えた今も、かつてのデジタル時代の沼とは少し様子が違う。僕の中では同じカメラはまったく無いから、どれもまったく異なる存在として今は必要なんだ。この先のことは正直分からない。もしかしたら、また断捨離の時が来るかもしれないし、そうじゃなくてすべてのカメラを息子へ受け継いでいくかもしれない。いずれにしても、それもまたなんらかの必然なんだろうから、しばらくじぶんの歩むままに身を委ねてみようと思う。2018年、僕に何かしらの転機が来るのか、また新しい出会いに遭遇することになるのか。楽しみであることは間違いない。