ライカだから辿り着くのか。レンジファインダーだから辿り着くのか。
きょうの仕事鞄の中にはM型デジタルのLeica M-P〈typ240〉が入っている。平日用カメラはここのところ、年末に手に入れたマイクロフォーサーズのOLYMPUS PEN-Fを持ち出すことが多かったのだけど、今朝はLeica M-Pをチョイスした。それには少しワケがある。
昨夜、Twitterでつながっているあるフォロワーさんが、それまで使われていたミラーレス機などを手放されて、M型デジタルへとチェンジされた。その理由のひとつとして「バルナック型を使って撮るようになってから、二重像を合わせるカメラの方がじぶんには向いていると思った」というようなニュアンスのことを言われていたと思う。カメラの好みとはあらゆる五感が作用してるから、他にも理由としてはあるのだろうと思うけど、僕はこの話を聞いた時「あ、それ、ちょっと分かる」と思った。
というのも、僕もM型デジタル購入のきっかけになったのは、バルナックライカIIIaを手にして街撮りスナップを始めたことだった。一眼レフを街中に持ち出すほど度胸のなかった僕にとって、いわゆるコンパクトカメラではないカメラを持ち出すのはIIIaが初めてだった。お世辞にも見やすいファインダーではなかったものの、街中で主張し過ぎずに構えられるカメラは、実に新鮮な気持ちを僕にもたらし、何かまったく新しい次元のカメラを手にした気がした。
以来、ライカとは僕の中で高価なカメラではなく、スナップシューターという位置付けになった。そして、週末用カメラとして大事に使っていたM3も街撮りカメラへと役割を変えていったのである。二重像を合わせるレンジファインダーは、言い方によっては街の雑踏で見えづらいシーンでは目測で撮ろうよ、と語りかけてくるカメラでもあった。慣れてくると、レンジファインダーほど街中でサッと気軽に構えられて、サッとシャッターを切れるカメラはないという、ある種の到達点みたいなものに辿り着くのである。だったら距離計ファインダーはいらないじゃないかと言われそうだけど、ファインダーはいざという時に存在していることが重要で、事実ライカはゆっくりファインダーをのぞきながら撮る時も、まばゆいほどのクリアなファインダーで撮り手の気分をその気にさせてくれる。
そうして、カメラとは一眼レフのことだった僕が、レンジファインダーというカメラに目覚め、やがてシーンを選ばないM型デジタルへと辿り着いたわけである。こうやって書くと何やら理屈っぽいけど、実際はもうなめらかに時間が流れるようにいつのまにかLeica M-Pを手にしていたような感覚だ。たしかに高価なカメラではあるけど、このシーンを選ばない万能性はその値段に値するものがあるかもしれない。特にフィルムライカのあの感覚をデジカメでも再現したいという人にとっては、それだけの価値を見出せるクオリティがあると思う。ライカ開発陣が込めたであろうフィルムライカの再現性は尋常じゃないことが、使ってみるとひしひしと伝わってくる。
そういえば、ここ数ヶ月の間にカメラファンの間でもおなじみの「まきりなさん」とか「ジェットダイスケさん」らがM型デジタルを手にされた。これはたまたまなのか、偶然なのか、それとも時代の何かしらのメッセージなのか分からないけど、なにか「辿り着いた感」を僕は感じた。そのせいか、最近ライカが全般的に高騰してるような気がしないでもないけど笑、それも含めてこのライカでありレンジファインダーというカメラがどんな軌跡を積み重ねていくのか、ひそかにウォッチしていきたいと思っている。もちろん、傍観者としてではなくユーザーとして。まだまだ奥深いこのカメラの何かを追い求めて。
Daydreaming of Summer we take an exclusive look at Istanbul-based photographer Suzan Pektaş's new Black Sea Series. Shot with the Leica M-P (Typ 240), a highly emotive personal story dedicated to Suzan's childhood memories. Visit the blog to find out more. https://t.co/VJOnPtxPTN pic.twitter.com/dqtOYEUST5
— Pro-50 – дилер LEICA (@leica_ukraina) January 10, 2019