日記のようなもの

ものごとの本質を考える。本当にいいものだけに、じぶんなりの「いいね」を。

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ものごとの本質を考える。本当にいいものだけに、じぶんなりの「いいね」を。

日曜の夜22:40、今日やるべきことを終えてベッドに寝転び、この週末をふりかえったり、明日からのまた一週間を考えたりするニュートラルな時間だ。落ち着いてライカを触っている時間は、ちょっとした至福の時間でもある。

さて、週末だけど昨日はブログを書いていないので、今夜くらいは書かなくてはと思い、何を書こうかと考えていた。無理やり書かなくてもいいんだけど、せめてブログくらいは続けようとじぶんに課している人生のルールみたいなものだから。

今夜は「本質」みたいなものについて少し書いてみようと思う。まあよく聞く言葉だし、とても正論的な言葉なんで、とにかく本質といえば誰もが「それは大事」なんて同調するところがある。でも、この言葉くらいふわっとした言葉も他にない。何が「本質」で、何が「本質」でないのか。

僕はこれ、「本質=じぶんらしくするもの」なんじゃないかと定義してみたりする。つまり、他の人からすると本質じゃないかもしれないけど、じぶんにとっては「本質」という考え方だ。例えば、流行りものや周囲の雰囲気みたいなものに流されないということ。写真でいえば、やれモノクロームとはこう撮るんだなんてことは教科書的に目を向けつつも、それは写真の世界てば本質かもしれないけど、僕が好むモノクロームのあり方と異なれば、それは僕にとっては本質ではない。

例えば、世の中の多くの人が「いいね」を押す出来事やモノ、写真なんかも、なんとなく周囲に流されて「いいね」しがちだけど、それでいちいち「いいね」してると、じぶんが本当に「いいね」と思うものが少し見えなくなるなあという思いが最近ある。世の中にとっては本質?でも、僕にとっては本質じゃないのである。そういうのに流されたくないなというか、そういうことに大事な時間を費やしたくないなと。

誰かに褒められたいなと思うと、それが目的化しちゃう。いや、他人に褒められることは気持ちいいことだし、それ自体は頑張る何かしらのエネルギーにはなる。けれど「いいね」って言われることを目指しちゃうと、じぶんの中の本当にいいねと思うことを見逃してしまう。それは、じぶんにとって本質じゃないんじゃないか。そういうことを僕はいま疑い始めてる。

人生は長いようで短い。おそらくまたあっという間に来週の同じ日曜の夜がやってくる。とするなら、他人や世の中のいいねという一見本質みたいに見えることより、じぶんの中の本当の本質なことに貴重な時間を費やしたいと思うんだ。仕事においても、家族との人生においても、カメラとの向き合いも、写真に求めたい部分も、そして世の中に貢献したいと思うじぶんのあり方にも。

幸い、僕にはこうしてブログという考えたり、それを言葉にして少しだけ発信したりできる場所がある。じぶんがいいねと思うコトやモノをそれとなくじぶんの本質として記憶していく場所だ。ここには、いいことに「いいね」するボタンはない。それがなんかいい。いいねと思う人もいれば、それはいいねとは思わないという人もいて当たり前だ。けれど、そういう声には流されずに、僕は僕にとってはいいねと思うことを書き続けることができる。

僕がこうしてブログを少なからず続けられているのもそういうことだし、ブログを書くことをおすすめするのもそういうところからである。けれど、それも僕にとって本質と思うだけのことだから、誰もそのことに変に同調したり、流されたりする必要はない。本当にじぶんにとっていいねと思うことを、世の中の本質ではなくてじぶんの本質として追いかければいいのである。それが人生というものだ、と最近少し思い始めている。

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