Leica IIIa

しゃべるライカ。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5 Red Scale

しゃべるライカ。

この場合の「しゃべる」というのは、ライカがしゃべるんじゃなくて、ライカを手にした人がしゃべるという意味なんだけどね。このライカというカメラは、人を撮りたくさせるだけじゃなくて、ライカについてとにかくしゃべらせようとするチカラがある気がするんだ。

そりゃNikonだってZeissだってそういうチカラが無いわけじゃない。けれど、僕がカメラをやるようになって思うのは、特にこのライカというカメラは、手にした人にライカを語らせる魔力のようなものがあるということ。僕にとってその筆頭は田中長徳さんの数々のライカ本だけど、とても物静かなイメージのあるセイケトミオさんも、ことライカについての発言だけは書籍やブログで目にする。僕がライカM3を手に入れるきっかけになったのも「ほぼ日」の記事の“写真がもっと好きになる”の中で菅原一剛さんがライカについて語っていたのを目にしたからだ。

そして最近は、一般のライカユーザーの人たちのブログ。気のせいかライカを手にする人が増えているような気もしていて、あちこちでライカのことについて語ったブログを目にする。すると、どれを見てもとてもみんな饒舌だ。本来、写真を撮る人というのは「写真に言葉はいらない」みたいなところがあって、カメラ解説記事ならともかく、カメラやレンズのことをこれほどまで多く語ったりはしない気がする。そして、カメラやボディへの思いのみならず、そのライカを手に入れるにいたったさまざまなエピソードまでみんな書き添えている。こんな風に人をしゃべらせるカメラを、僕は他に知らない。

僕もこのブログの中でライカのことについてはかなり書いてきている。どういう経緯でライカを手に入れることになったのか。その時、レンズのことはどう考えたのか。ライカの最初と今ではどんな風にイメージが変わったのか。なぜこんな機能の平凡なカメラに人は多くのお金を出してまで手に入れようとするのか。それはもう語り出したらキリがない。僕はライカのことについて書かれた書籍もとても好きなんだけど、それはライカにまつわるさまざまなエピソードがおもしろくて何冊も何度も読みあさっているところがあるんだよね。

なぜライカとは人をしゃべらせるのか。そこには、ライカを持つと人は少年のようになる、というのがある。語り口こそライカらしく大人な言葉選びやリズムで語られてるけど、僕にはみんながとても子どもの心に帰ってしゃべりはじめている気がするんだ。夢中とか没頭とかそういうやつかな。ほら、子どもの頃におもちゃや工作とか、好きだったミニカーを手に入れた時の歓びとか、そういう類の興奮。そんな童心に知らず知らずのうちに帰らせるカメラがライカだと思うんだ。僕が手にしたこのバルナックライカIIIaなんかは、手に入れた時の僕のブログを読み返すと「冒険的カメラ」と書いてある。そう、冒険心が芽生えるカメラなんだ。

ライカが100年近くにわたってその作りのポリシーやスタイルを変えないというのは、この「カメラによって人へ本能的な冒険心を与えること」をモットーとしてたりするからじゃないかな。人がワクワクする気持ちや、物事のルーツを大事にしてコツコツと没頭していく感じを何より良しとするライカ社としてのポリシーみたいなもの。僕はそんな気がしている。じゃなかったら、いい大人がここまでライカのことについて来る日も来る日も饒舌にしゃべったりしない。人をここまで本能的に高揚させるわけだから、だとしたらあの値段は決して法外ではなく、ある意味人生100年においては妥当な値段なのかもしれない。そうして僕もまたライカを語り、ライカのことについて語られた記事を探す毎日なのである。素晴らしいじゃないか、ライカ。

まるで何十年も使い続けているかのように手に馴染む不思議なカメラ、ライカ。 まるで何十年も使い続けているかのように手に馴染む不思議なカメラ、ライカ。 夜も更けようとするこの時間、またひとつのカメラをケースか...
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