
さっきのブログにもすこし触れたんだけど、気になったのでちょっと考えてみた。写真家の小林幹幸さんがTwitterにポストされていた以下のような言葉。なるほどと。
「写真を見ると、撮影者がどんなメディアを見てるかわかります。きちんと芸術写真集を見てる人は作風に筋が通っています。雑誌を購読してる人も少し違う。しかし、ツイッターしかみてない人はツイッター風の写真、face book見てる人もそんな写真。悪いとは言わないがすぐにわかってしまうという話」
おぼろげながら感じていたことを的確にまとめてくださった、そんな気がした。このツイートの前に「Twitterにポストする写真があれば、ぜひコンテストに応募を」と述べられていたので、小林さんなりの写真愛がきっと込められた言葉なんだろうなと思う。僕はコンテストとかにはほんと無縁で、撮った写真は気がつくとSNSにしか展開していない。ある意味、じぶんのアルバムみたいなもので、それを知人や友人に何気に見てもらう感覚がSNSのそれに近いのかな。それで全然いいんだけど、他人に見てほしいと思う気持ち、他人から感想を聞いてみたい気持ちが少なからずあるのなら、発表の場をすこし広げてもいいのかな、と少し思った。
となると、たしかに多くの人にある程度共通して強く届く作風の筋みたいなものが必要になるし、そういうことを目で、体で習得するような今までとは少し違うインプットが必要になるんだろうね。できるかどうかはわからないけど、新しいまなざしをもらったから、ここに記憶して、できれば実戦までいけたらいいと思う。
ただ、僕は気負いのないスライス・オブ・ライフのような写真を見るのも昔から好きで、そんな写真を日々一堂に眺められるものは少なかったんだけど、Twitterのタイムラインにはそういう日常が散りばめられてるなと思う一瞬もよくある。コンテストを審査する人の目線とはまた違った、そういう人たちの目とか声もすごく気になる存在なので、ここから生まれる気づきみたいなものにも、これからも注目していきたいと思っている。
気になるツイートでしたよね!
ただ…自分が高校生の時写真の道を諦めたのもコンテストでした。
自分には写真を選ぶ目がないと感じたからです。
コンテストの結果を、いつもじっくり見ていたのです。
金賞が飛び抜けて優秀な時はわかりましたが、僅差の次点と銀賞の違いがわからなかったり。
約3年、技術的な面とコンテストの写真を見続けて来た結論でした(^^;;
今の自分の写真は、誰かに認められるための写真ではなく。
自分の成長記録という名の自己満足かな。
いずれ自分は死んでしまい、せっかくつけてる日記も燃やされてしまう。
それと変わらないんじゃないかと笑
気楽に撮れないと、楽しくないですよね!
写真は記憶でもあり記録でもあり作品になったり友達とのコミュニケーションになったり、解釈はほんとたくさんですよね。大多数の人に共感してもらいたい一枚もあれば、ある一人の人に共感してもらえれば死ぬほどうれしい一枚もある。こんな解釈が無限大の行為ってありそうでなかなかないですよね。僕が写真に惹かれるのはそういう懐の深さかもしれません。刺激になりました。感想ありがとうございました^ ^