Rolleiflex Standard

フィルムとデジタルは、男と女のような。

アフィリエイト広告を利用しています
Rolleiflex Standard, Tessar 75/3.5, Fujifilm Neopan Acros100

フィルムとデジタルは、男と女のような。

僕はデジタル一眼レフでカメラを始めて、途中ほぼフィルムしか撮らなくなった時期を経て、再びデジタルも持つようになり、いまフィルムとデジタルを自由に行き来するように両方楽しんでいる。フィルムとデジタルのどちらかがメインでサブというのも無い。両方ともメインなんだ。

考えてみると、カメラを始めた時にもし時代がフィルムカメラの時代だったら、フィルムカメラからスタートしていたんだろうと思う。ただ、僕の場合は歳をとってからカメラに出会ったんで、最初のスタートはデジタル一眼レフからのスタートだったということ。この時点ではフィルムとかデジタルという区別も特になく、カメラとはデジタルのことだった。

けれど、その後、フィルムに出会ったことで「フィルムとデジタルの違い」みたいなことを強烈に意識するようになる。フィルムを始めた頃のブログを読み返すと「フィルムを知ると、デジタルに戻れなくないですか」なんて書いてるから、それはもう強烈にフィルムに心奪われ、デジタルをなにか真逆で相容れないものとさえ捉えていた節がある。フィルムをやってるほうが本物で、デジタルは妥協ないし偽りのような感情があったかな。いま考えるとずいぶん極端だったなと思うわけだけど。

まあでもそのくらい、フィルムにはずっぽりハマったわけです。毎週24枚撮りフィルムを5〜6本は現像に出してたんじゃないかな。一日でもはやくフィルムに慣れたいという技術的な向上への思いもあったし、何よりフィルムカメラで撮ることがとにかく新鮮で楽しかった。知らず知らずのうちにカメラがほぼオートで撮ってくれていたデジカメの写真と比べて、じぶんで露出を計って撮るフィルムカメラの所作は「写真とは、僕とカメラの共同作業」という意識になれたし、現像のたびにカメラ屋へ立ち寄る生活サイクルは僕とカメラの関係を日増しに濃くさせた。「そうだ、僕はフィルムの人だったんだ」みたいな悟りもあったしね。

実際、フィルムとデジタルは凄く別物だと思った。一見「カメラ」と一括りに語られるけど、形こそ似ているけど撮れる写真の質感もまったく違うし、オート主流とマニュアル主流の差は然り、撮れた写真がその場で見れる見れないの差は、フィルムとデジタルを同じ土俵で語ってはいけない、それくらい別物で、僕はフィルム側の人間で、デジタル側のことはもう一生、縁のないことだろうと思ってた。

ところが日増しにフィルムのいくつかの銘柄が販売終了となってフィルム価格がジワジワ上がり、僕のフィルム現像費用もジワジワ財布に効いてくるようになり、このままいくとフィルム終了=僕のカメラ人生終了か、みたいなことが脳裏によぎるようになった。フィルムのことは溺愛してるけど、フィルムがいつ終わってもおかしくない空気が充満している時代の中で、僕は現行カメラであるデジカメに背を向けたままで本当にいいのか? デジカメを否定する前に、そもそも僕はデジカメのことをどこまで理解しているのか?。そんなことをふと考えるようになったんだ。

フィルムで撮ることは異常にワクワクするけど、デジカメだと本当にワクワクできないのだろうか?。機械式カメラじゃないと味わい深さは本当に得られないのだろうか?。そうしてふと思ったのが「記憶メディアの違いは明確だけど、フィルムカメラのようにデジカメをじぶんの手で動かして撮れば、実はカメラの本質としてはもっと味わい深く楽しめるんじゃないか?」、そんなことを仮説として考え始めた。当時、唯一所有していたデジカメはRICOH GRだけだったんで、フィルムカメラのMFレンズを装着したり露出を決めるなどマニュアルライクに撮影できるデジタル一眼レフを、もう一度手にして試してみようじゃないか、そう考えた。そうして再び手にしたデジカメがオールドデジカメのNikon D300だった。

オールドとはいえ、電磁部品の塊で可能な限りオートで撮れるように開発されたデジタル一眼レフを、わざわざMFのオールドレンズをつけてカメラを退化させるかのように撮るのも如何なものかとも思ったけど、とにかくフィルムがこの世から消える不安や焦燥感から逃れたい気持ちもあって、デジカメをマニュアルライクに撮ることから始めてみた。するとね、これが想像を超えて実に楽しかったんだ。「あれ?過去の僕はデジカメの何がわかったつもりで、デジカメとはなんて語ってたんだろう」と。フィルムでしか撮れない世界があるのも事実だけど、デジカメでしか撮れない高感度の世界もあればハイスピードの世界もある。フィルムとデジタルは別物だけど似た者同士でもあり、それは相反するものじゃなくて、お互いを補ったり、高めあったり、認めあったりしてこの世に共存し続ける関係のもの、と思うようになったんだ。

これ、何かに似てるぞと。そう、「この世に男と女が自然と存在するような姿」といっしょなんじゃないかと。男も女も同じ人間だけど、明らかに異なる部分もある。けれど、どちらかとかそういう次元の話ではなくて、どちらも必要。必要とかそういう理屈的な話を超越して、普通に男女は存在している。何やらこの世の根源的な話とカメラの話を一括りに語るのも如何なものかとは思うけど、決して大袈裟に話をこじつけたいんじゃなくて、自然体でそう思ったんだよね。フィルムとデジタルは、男と女のような、異なるけどそこに普通に存在し合ってお互いを高め合う関係なんじゃないかなって。

そうしたフィルムとデジタルの自然な関係を理解し始めてからというもの、僕の手元には数台のデジカメが再び戻ってきて、今はすっかりフィルムとデジタルを自然体で使い分け、必要以上に両者を区別することなく両方を楽しめている。男女の違いが興味深いように、フィルムとデジタルの違いも実に興味深くてクリエイティブなものだからね。なんだか、ものすごく前書きが長くなったけど、要はフィルムとデジタルはお互いを高め合う存在として、両方必要だよねという話。こんな何十行も書かずともタイトルだけで言えちゃうんだけど笑、僕の頭の中の整理として少し書き連ねてみた。もしも、ここまで読んでくれた人がいたら、それはもうほんと付き合ってくれてありがとうという感謝しかない。さて週末の朝、この休みはどんなフィルムとどんなデジタルで撮って過ごそうか。

関連記事