息をするように、瞬きをするように、撮る、撮る、撮る。

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これは今そうできているということではなくて、そうありたい、そうしなきゃという意味でね。誰かがTwitterで言ってたけど、写真とカラオケは似ていてそう簡単にカラオケが上手くならないのと同じように写真が上手くなるのは簡単なことじゃない、みたいなことをつぶやかれてた。あ、なんかその感じ分かる、と思った。越えられないセンスというわけでもないのだけど、だからといってテクニックを学んでさあ明日からいい写真が撮れるかというと、そういうわけでもない。ジワジワと、ほんとにゆっくりと写真の腕みたいなのは磨かれていくものなんじゃないかと。しかも正解はない。どこまでもこれでよしとするゴールのない、そんな上達の道のり。うん、カラオケみたいだ笑。

で、僕はというと良くも悪くも昔とは(といっても一、二年前だけど)撮る写真、選ぶ写真が変わってきた。一眼レフを持ち始めた時は、赤城さんが言うところのゆるふわ写真に憧れて?単焦点絞り開放のかなりハイキーで撮ってたし、そういう写真をチョイスしてたと思うけど、過去ブログを見るに一年前くらいからだんだんとローキー気味な写真が多くなる。そして、たぶん今たどり着いたのがモノクロなんじゃないかと思うけど、何かを見たり調べたり学んだりしてそうなったというよりは、たくさん撮り続けてじぶんなりに何度も何度も気づきを得て、そうしてここまで来た感がある。写真の上手さでいうととても誰かに誇れるレベルではないんだけど、自分のなかではなんだかめざすべき世界観に僅かずつだけど近づいている気がするんだ。そして、近づきつつもその都度方向性を見いだす感じ、それがまた悪くないというか発見の連続で実に楽しい。

そうだと。やっぱり、とにかく、たくさん撮ることが最良の教科書なんだと。片時もカメラを放さず、常にGR、週末はFEを持って、カメラをからだの一部のようにして生きてみる。そうすると、被写体は山のようにある。道端の草花も、頭上の鉄塔や電線も、チャリンコのベルも、鍵も、路地裏も、そして二台のカメラも、ぜんぶ撮りようによっては物語にして切り取れる。なにも遠征しなくても僕の身の回りにはまだまだ撮り足りないものたちがたくさんあると少し気がつきつつある。照れ屋だからなかなか人は撮れないのだけど、人を撮るというフィールドまで含めれば僕はまだ世界のほんの0.0001%くらいしか撮ってないぞと。そうだ、とにかくたかさん撮ろう。そして、たくさん失敗して、1ミリずつでも前進する、そういう楽しみ方をしたいなと。カメラってすごいな。そんなこと考えさせるんだから。

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