とにかくひたすらシャッター音が聴きたい。そんな時にデジタルは僕を満たしてくれることを再確認した。

きょうで大人の夏休みも最終日。愛犬のしつけと世話でなにかと忙しい6日間だったけど、やっぱり最終日はカメラと過ごしたいと思い、午前中はLeica M3と、雨宿り後、午後はNikon D300と散歩カメラしまくった。

Leica M3の静かで厳かな撮影体験を楽しむと、その真逆の少々威勢のいいシャッター音が聴きたくなる。しかも、夏休み最終日ともなると、シャッターを切りまくりたい。そうなると、デジタル一眼レフは実に正義だ。デジタルだと撮りすぎるという傾向はたしかにあるけど、僕の場合のデジタル散歩カメラは、そもそも何かを撮りたいというより、ひたすらシャッター音を聴きたいというところに意味があると、きょう思った。

何枚撮ったかも分からないほど、シャッターを切った後の心地よさは、ちょっとしたスポーツのような爽快感がある。そのあたりの感覚は一枚一枚をゆっくりと撮る機械式のフィルムカメラとは趣が異なる。ここのところフィルムカメラにハマって、どこかフィルムに偏りすぎていたじぶんがいたのかもしれないけど、あらためてデジタル一眼レフもやっぱりいいもんだなと。特に僕なんかは写真も好きだけど、それ以上にシャッターを切るという行為が好きだ。そういう人間には、デジタルはぞんぶんに満足感を与えてくれる。

フィルムカメラのサブ機じゃなくて、フィルムとは異なる立ち位置で楽しみを見つけつつあるデジタル。再びデジタル一眼レフに戻ってきてよかったなと、いまあらためて感じている。フィルムにはフィルムの味わい、デジタルにはデジタルならではの爽快感。どちらもそれぞれ異なるよさがある。そして、それを素直にこうしてブログに書けるような意識になったことがうれしいな。カメラの世界がさらに大きく広がった感じ。思い立ったら、直感を信じてやってみる。そういう自然な好奇心の大事さみたいなものを再発見する夏になった。

フィルムの鮮明じゃない感じが、おぼろげな記憶と近いんだ。

この写真は7月の終わりに息子のキャンプファイヤー前の薄暮をFUJI FILM Natura1600で撮ったもの。カメラは絞り優先オートで撮れるNikon FEに50mm/f1.8のレンズで、たぶんのこの写真は暗くなる前だから感度800の絞り開放で撮ったんじゃないかな。この後、夜のキャンプファイヤーも鮮明ではなかったけど炎の薄明かりでちゃんと撮れてたから、やっぱり高感度フィルムのNatura1600はやるなあと思った。

で、その”鮮明ではない”という話なんだけど、Natura1600で撮ったものは特に粒状感があるし、写真として綺麗かと言われれば綺麗ではない。でも、記憶としてはとても綺麗なんだ。鮮明であることは、ある種、記憶とは正反対なのかもしれない。フィルムで撮った写真が好きなのは、よくその風合いという言葉が持ち出されるけど、もう少し正確に言えば「その鮮明でない様子が、おぼろげな記憶とむしろ近い」ということにひとは惹かれるんじゃないかなと。いま目の前の光景を画像としてシェアするなら鮮明な写真(画像)でいいんだけど、少し過去をさかのぼるとなると、それは時間をたどり記憶を呼び起こす行為で、それは鮮明すぎるとちょっと脳とギャップを起こす。そんな気がした。

理詰めで書くとそういうことなんだけど、ふだん僕らはそんな複雑なことを考えて写真を見ていないから、そこは感覚的にフィルム写真のよさを解釈してるんだと思う。そう考えると、フィルム写真のよさというのはあまりデジタルの進化やスマホテクノロジーの未来に取って代わられるような存在ではなくて、別物だなと。今を撮って今をシェアするならデジタル、記憶として残すならフィルム、そんな使われ方が自然なんじゃないかと思ったんだけど、どうだろう。

記憶としては鮮明じゃないほうがいい、とすれば、デジイチで撮った息子の写真なんかも、なんというかフィルム変換したくなるというか、そうそう、誰かがやがて、デジタルをフィルム変換してくれる装置を作ってくれるんじゃないかと少し期待してる。フィルムにするのは後退することじゃなくて、記憶化することだからね。

10年前の製品とは思えないD300の上質さは、当時のNikonの凄みを感じる。

きょうは雨だったこともあり、日中は部屋の中で先週手に入れたデジイチNikon D300を眺めたり触ったりしていた。近ごろの僕にとってのメインカメラはフィルムカメラで、デジカメはサブ。このD300もフィルムカメラ用のMFレンズをマニュアル撮影で楽しんだり、たまに息子のスポーツシーンを望遠で撮れればいいなくらいの気持ちで、手頃な価格でお店のショーケースに並べられていたD300を選んだ。発売から10年、いくら当時のDXフォーマット(APS-C)のフラッグシップ機とはいえ、さすがに10年の年月は古さは否めないだろうと思っていたんだけど、それはいい意味で大きく裏切られた。とても、いいのである。というか、その上質感や威厳のような佇まいでいえば、以前僕が使用していた現行フルサイズ機のNikon D750よりもいいかもしれない。触れば触るほど日に日にそう思い始めた。もちろん、スペックだけを見れば、D750の圧勝だろう。特に感度でいえばD300は実用でISO1600くらいが限度だろう。軽さでいってもD750のほうがフルサイズでありながらずいぶんと軽い。でも、それくらいの違いしか感じないのである。実際、D300を手にしてみて本当に驚いている。これが当時のNikonの凄みなのかと。

昨日たまたま家電量販店に寄ることがあったんで、あらためてD750にふれ、操作性やシャッター音なんかをしぶんなりにD300と比較してみたんだけど、やっぱりシャッター音もD300のほうがソソるものがある。連写の動作やその感触もD300はなんというか大人の余裕があるというか、実に仕事人的な趣のあるいい動きをするのである。考えてみると、昨年D500が登場するまではD300やD300sが実質的なDXフォーマットのフラッグシップ機だったともいえるわけで、そこにはNikonの意地というかプライドが込められていたのかなと。最新のD500はもはや化け物のようなハイテクの塊のような高次元スペックだけど、写真を撮るという基本性能に関していえば10年前のD300でNikonはすでに成熟の域に達していたのかもしれない。それくらい、D300はその存在感が完成の域にある気がする。僕が今回、再びデジタル一眼レフを手にした理由は、もっとライトで肩の力を抜いたものだったんだけど、このD300がなんというかカメラの本物感みたいなものを僕に感じさせてくれた。

なんかこういういい意味で期待を裏切られる感じっていいよね。しかも、それが年代物であればあるほど、感動は大きくなる。半世紀前の機械式シャッター機てあるNikon F2やLeica M3のそのオーバークオリティな質感もそうだし、当時の作り手の人たちの思いとか迫力みたいなものを時空を超えて体感できているようで、なんともいえない高揚感がそこにはある。現代のプロダクトはとかくハイテク競争に重きを置きがちだけど、こうした道具としての基本性能を磨きあげた職人芸的製品のよさこそ、プロダクトのよさをフィジカルに堪能する最高性能かもしれない。ひょんなことから巡り会ったD300だけど、単なるサブカメラにしておくのはもったいない。Nikon社の修理対象期間は終了しているようなのでそこだけは残念ではあるけど、フィルムカメラたちと同様に、それこそ壊れ果てるまでじっくり使い込んでみたいなと考え始めている。

愛犬とF2と散歩へ。今朝も甲高いシャッター音で脳が目覚める。

静かな朝、静かに撮りたいとLeica M3を持ちかけたけど、Nikon F2の中にまだ使いかけのフィルムが残っていることを思い出し、F2を連れて家を出る。うちの子犬の愛犬は昨日最後のワクチン注射を打ち終わったばかりだから、まだ本格的に散歩はできない。それでもストレス発散にと近くの公園のグラウンドで辺りに人や犬がいないのを確認して、少し土の上を歩かせてやるようにしている。

忙しく動き回る子犬と一緒だとゆっくり写真が撮れるわけじゃないから、愛犬を数枚撮るだけなんだけど、それでもこうしてカメラと出かけるのは心落ち着くから不思議だ。二、三枚だけ愛犬を撮ったけど、あいかわらず甲高いシャッター音が脳と頭蓋骨に響いて、否応無しに目が覚める。この音は、いかにも機械式シャッターを切っているということを撮り手に強く意識させる。F2開発者たちは何を思って、Fよりも強烈なシャッター音をF2に宿したのか、聞けるものなら開発者の人に聞いてみたいところだが。

カメラも使い続けるとオーバーホールが必要なように、にんげんも脳やからだを使い続けるとリフレッシュがいる。特にからだは肉体の内側から。まだ朝も早いから近くの温泉へいって久しぶりにサウナでからだの毒素を出してこようかな。F2みたいに長生きしたいからね笑。

デジイチとMFレンズで散歩カメラ。

蝉の鳴き声がとにかく激しい。屋根付きのベンチに避難して、しばしの休憩中にブログを書いている。外で風にあたりながらブログを書くのはけっこう好きで、にんげんはやっぱり自然の中にいるのがいちばんリラックスできて癒されるんだろうなと思う。

今朝はNikon D300にMF単焦点レンズ50mmをつけて連れ出した。フィルムカメラを経て、ふたたびデジイチを再開して思うのは、カメラはマニュアルが楽しいなということ。もちろん、息子のスポーツ大会なんかを撮る時はオートフォーカスの恩恵を最大限に受けて撮りたいんだけど、こうして一人散歩カメラに出かけている時は、ゆっくりとマニュアルで露出を決めながら、カメラをじぶんで操って撮るというのが僕には心地いい。

撮る時は、まさにフィルムカメラと同じ要領で、ISO感度を決める。フィルムをイメージして、100か400を選ぶ。100はいつも使い慣れているフィルムの感度だから、露出は体感でだいたい分かる。絞りとシャッタースピードをマニュアルで決めたらピントを合わせてシャッターを切る。すると、当たり前だけどデジタルだから、その場で写真の出来が確認できる。絞りを前後に変えながら数枚撮って見比べると、露出の勉強になって実におもしろい。そう、僕はこれがしたくてデジイチを再度購入し直したんだ。

体感露出としては感度100ならだいたいいけるようになっているじぶんを再確認する。あとは、まだまだ経験不足の感度400の時の露出をからだに覚えさせること。100から二段調整するんだっけかな、頭ではなんとなく理解できても、こうして実際にマニュアル撮影しながら撮ってみないとなかなか体感露出として身に付かない。こうして何枚も何枚も撮り直して露出を学ぶには、ほんとデジイチはフィルム代も現像代もかからずコストを気にせず撮れるから、あらためてデジタルならではの良さも再認識する。

あとね、Nikon機はデジタルも実にいいシャッター音を奏でるよね。僕は以前所有していたD750の乾いたシャッター音も大好きだったけど、D300もやっぱり惚れ惚れするようなシャッター音を聴かせてくれる。マニュアルのよさと、デジタルのよさ。このハイブリッドなおもしろさは、僕にとってはまたひとつ新たな気づきの世界。そして、このおもしろさがまたフィルムカメラで撮るおもしろさをひろげてくれる気がしている。

さて、今年はフィルム色の夏休みへ。

といっても、どこか遠くへ旅立つわけではないんだけどね。わりと毎年のことだけど休める日がなかなか確定しないから、結局特にどこかに出かける計画も立てられず、少しいつもの週末よりは長めの休みだけがやってくる感じ。それでも夏休みというのはどこか感慨深いというか、こころがあの頃に帰っていくところがある。

今年の夏が去年の夏と違うのは、フィルムカメラを始めたということ。あと、手放していたデジタル一眼レフも数日前にまた僕の手元にかたちを変えて帰ってきたから、特別どこかへ行かなくても僕にとっては少し賑やかな夏休みになるかもしれない。

それにしても今年の夏は暑い。あまりに猛烈に暑くて、暑さだけ考えると夏が少し嫌いになりそうだけど、そんな暑らをよそにフィルムの色はどこか涼しげで夏とは相性がいいなと思う。明日から6日間の夏休み、フィルムで撮るもよし、デジイチで撮るもよし、いずれにしてもこころがほぐれる時間がやってくる。おだやかにシャッターを押すんだ。

フィルムカメラと出会えてよかった。写真の初心に帰れたからね。

僕の愉快なカメラたちは7台になった。正確に言うと一台は壊れちゃったから6台か。フィルムカメラが4台と、デジタルカメラが2台。フィルムカメラは購入した順に、Nikon FE、Konica C35、Leica M3、Nikon F2。そして、デジタルカメラのほうはRICOH GR、Nikon D300だ。一年前にはRICOH GRだけだったことを考えると少々”沼”にハマった感は否めないけど笑、でももう一度カメラとじっくり暮らしてみようと思わせてくれたのはフィルムカメラたちとの出会いなんだよね。でなかったら、一度はすべて手放したデジタル一眼レフをもう一度買い直すなんてことはきっとしなかっただろうから。

フィルムカメラと出会うまでの僕は、なんというかカメラの歴史や写真を撮る仕組みみたいなものをまったく知らなかった。もちろん、そんなこと知らなくたって最新のカメラでシャッターを押せば、搭載された最新性能のおかげもあって悪くない写真が撮れるわけだけど、それは僕にとってはいい絵を撮ろうという作画みたいなもので、”写真”を撮るということとは異なる行為だったんじゃないかと、今は思う。うまく言えないけど、写真の中に体温みたいなものが欠けていたんじゃないかなと思う。今も体温みたいなものを封じ込めた写真が撮れているかというと怪しいけど、それでもそういうことを意識してカメラや写真と向き合っている実感はある。

誤解を恐れずにいえば、撮影テクニックやかっこよさみたいなものをあまり気にしなくなった。むしろ作為的なかっこよさよりも、いまリアルにじぶんの目の前にある世界の普通さとか温もりとか秒針の経過みたいなものを気負わず素直に切り取りたいと思うんだ。そして、そういう人間味みたいなものが封じ込められたものこそ”画像じゃなくて写真”であり、古くはフィルムを開発した人、それを写すカメラという道具を考えた人、そうした意図にすごく共感して魅せられた人たちの手によって、写真という文化は形成されたんじゃないのかなって。実際はどうかは分からないけど、僕はそう解釈したし、フィルムカメラに出会った時にそういう衝撃というか気づきをもらった。フィルムに凝り始めると、そうした写真の文化とか、それをより豊かにしようと進化を重ねてきたカメラ関係者の人たちの熱さみたいなものを自然と感じ始めるようになるんだよね。で、それを当時のカメラを実際に手にすることで確かめたくなる。フィルムカメラに出会うとハマるのは、写真の原点や初心みたいなものに自然と立ち返っていくプロセスなんじゃないかと思うんだ。

フィルムが再現しようとしている色や風合い、それを作り出す露出の仕組み、その息吹が今も継承され続けたカメラたちの進化の歴史。そういうものに触れると、写真を撮ることがものすごく厳かなものに思えてくるんだよね。僕の場合は、もう一度フィルム色で家族の記憶を撮りためたいと思った。いま、ふたたび、家族とどこへ出かけるにも必ずカメラは一緒だ。そしてそれは単なる記録写真じゃなくて、記憶の写真として僕らシャッターを切っている。そんな意識になると、もう上手い写真とか下手な写真とかそういうテクニック的なことはゼロとは言わないけどどうでもよくなるようなところがある。少なくともプロではない僕の写真は、僕や家族が見て心がほっこりする写真であれは”いい写真”なんだと考えるようになったんだよね。

他の人たちが撮った写真なんかを見ても、上手く言えないけど”そういう気配”のあるものに惹かれるようになった。だから、ちょっと作為的な写真は苦手だったりする。むしろ、”キメていない写真”に心惹かれるんだなあ、フィルムを始めて以来の僕の写真を眺める意識としてね。キメるんだったら、もう圧倒的にキメてくれ、みたいなね。写真を始めてまだ3年程度の僕がなんか知ったようなことを言うのは恥ずかしいけど、でもそれが今の僕の心情だし、そうした本音がさらりと書けるのがじぶんのブログのよさでもあるかなって。

家族の写真は他人に見せるものではないので、このブログにすら披露はしないけど、僕は家族の写真がいちばん好きかな。そして、その感情こそが写真文化をここまで温めてきた何かだと思っている。フィムルカメラというのは始めてみるまではなかなか敷居が高かったりするのだけど、デジタルカメラをやっていてなんか写真を撮ることに意味を見失ったりした時、なんか人間の温もりみたいなものが欠けていると感じた時には、フィムルカメラを始めてみるといいと思う。なんというか、「写真の初心」みたいなものにきっと立ち帰れる何かに遭遇すると思う。

久しぶりに撮ってみたデジイチは、機能が複雑でクラクラした笑。

それでも僕が買い直したデジイチD300は最新のものと比べればずいぶんと機能がシンプルなはずなんだけど、フィルムカメラに慣れっこになり、一年以上ぶりにデジイチに触った僕にはすべてが複雑に思えた。逆にいえば、いかにフルメカニカルシャッターのフィルムカメラたちがシンプルかってことなんだけどね。

取説嫌いの僕は、まずもってあの数百ページに及ぶ説明書を見るのが苦痛なんで、過去のD750時代の操作ロジックなんかを思い出しながら触り始めるわけだけど、あらためて思うにこんな多機能なカメラをフルに操れる人はいないんじゃないかと思うし、もっと言えば写真を撮るのにこんな複雑な機能は必要ないなと。感度を決めて、絞りを決めて、シャッタースピードを合わせれば、あとはピントを合わせてシャッターを押せば写真は撮れる。そんな写真本来の露出を決めて撮るシンプルな撮影に慣れた僕には、デジイチの多すぎるボタンと横文字機能に頭がクラクラしたんだ、本当に笑。

まあでも気を取り直して、マニュアルモードにしてみる。そうすると、フィルムカメラのように少し落ち着いてきて、感度、絞り、シャッタースピードを決めて、あとはピントをマニュアルで合わせてシャッターを切ってみる。そうすると、体感露出でシャッターを切った写真がその場でモニターで確かめられるわけで、これはおもしろいなと思った。感度400のフィルムをイメージして、絞りとシャッタースピードを微調整しながら数枚撮り比べると、露出を一段、二段切り替えることで写真のあがりが変わっていく様子が手に取るようにわかって、これはたしかに勉強になる。しかも、コストはかからない。今回はAFズームレンズで試してみたけど、次回はMF単焦点レンズでまさにフィルムライクにマニュアルで撮ってみようと思う。

もちろん、デジイチのハイテクさはそれはそれで便利で頼もしいから、息子のスポーツシーンの撮影なんかはAF、AEで望遠ズームも使っていきたい。今回の僕のデジイチ再購入は、以前とは違って、肩の力を抜いてデジイチを楽しみたいと考えたから、レンズは広角から万能タイプのNIKKOR AF-S 18-200 VR IIを一本買い足したのみ。単焦点はフィルムカメラで使っているAiレンズをつけて、フィルムカメラと共に楽しんでみたいなと考えている。そう考えると、フィルムのおかげでこうしてまた新たなデジイチの楽しみ方を発見したり。本当に写真は深いなあと思う今日この頃である。

デジタルからフィルムを経て、もう一度、肩のチカラを抜いてデジタル一眼レフへ。

今夜、僕はNikon D300を連れて家に帰ってきた。型番はFではなくてD、フィルムカメラではなくて実に一年ぶりのデジタル一眼レフの購入だ。思えば去年のゴールデンウィーク後に、当時使っていたNikon D750やコンデジ、レンズなんかをほぼすべて手放して以来、手持ちのカメラといえばRICOH GRとこの春から始めたフィルムカメラたちで、特にフィルムカメラにハマってからはデジタル一眼レフを再開するイメージはじぶんでもまったく持っていなかった。そんな僕が今夜、再びNikonのデジタル一眼レフを手にして家へ帰ってきたのである。

なぜか?。これはもうフィルムを始めたおかげとしか言いようがない。デジタルからフィルムへ移行した人間が、しかもフィルムにハマっている人間が、なぜ今になって再びデジタルへ帰ってくるのか不思議に思われる人も多いと思う。僕だって予想もしていなかったじぶんの意外な行動だから。でも、フィルムをやると、露出のことやレンズのこと、マニュアルでカメラを操ることなど、カメラの本質的おもしろさを知ることになる。そうすると以前は何かとカメラ任せだったデジタル一眼レフだけど、今ならMFレンズをつけてマニュアルでフィルムライクに写真を楽しむことができるんじゃないかと考えるようになったんだ。

以前D750で撮っていた頃の僕はといえば、絞り優先で撮っていたんだけど、露出のことは理屈として分かっていなかったし、ピントをはじめありとあらゆることをハイテクカメラ任せにしてしまっていたと思う。それなりには楽しめていたけど、カメラ本来の醍醐味である、露出を考えながら一枚一枚マニュアル操作でたいせつに操るというおもしろさをほとんど引き出せていなかったんだよね、きっと。そんな僕に写真を撮ること、カメラで撮ることの本当のおもしろさを教えてくれたのはフィルムカメラだった。良くも悪くもフィルムカメラは何も自動ではしてくれない。絞り、シャッタースピード、ISO感度、ピント合わせ、すべては撮り手がじぶんですべてやらなくてはいけない。でも、これがすごく楽しいと思えたんだよね、フィルムカメラのおかげで。そして、MFレンズをつけたり、露出を計ってマニュアルで撮れば、デジタル一眼レフだってフィルムライクに味わい深く撮影を楽しめるんじゃないかと思えるようになってきたんだ。

今回購入したD300は、2007年に発売された十年選手の一眼レフだ。画素数や感度こそ現代のデジタルカメラと比べると見劣りするスペックばかりだけど、フィルムライクに撮りたい僕にはむしろフィルムカメラの流れを汲むいい時代のデジタル一眼レフ。とはいえ当時のNikon APS-Cのフラッグシップ機だから、その操作感はとても上質なプロダクトであることを手に伝えてくる。そして、なんといってもフィルムカメラ時代のMFレンズを装着して楽しむことができる。いまのフィルムカメラで使っている手持ちのAiレンズをつけてデジタル一眼レフを楽しむことができる。それは不変のNikon Fマウントならではの楽しみ方でもある。このブログの写真は、中古カメラ店で装着してみたAi 単焦点50mm、自宅に持って帰ってからもAi 単焦点35mmを装着してみたけど、なかなかレトロでいい味わいのフォルムになる。試し撮りはこの週末までのお楽しみだけど、この週末といえば夏休みでちょっとした長めの休みをとることができる。早速、35mm(APS-Cだから35mm換算で約50mmの画角)のMFオールドレンズをつけて散歩カメラを楽しみたいと思う。そして、機械式フィルムカメラのNikon F2やLeica M3と撮り比べをしながら、フィルムとデジタルの両方の写真の楽しさを存分に楽しみたいと考えている。

なぜ、行き着くところ”機械式シャッター機”なのか。

僕はフィルムカメラに詳しい人間ではない。でもそんなビギナーが数台カメラを手にして経験していった結果、機械式シャッターのフラッグシップ機ともいえる二台のカメラを最も愛おしく思うようになる。Leica M3とNikon F2、それぞれ言わずと知れたフィルム時代のレンジファインダーと一眼レフの名機だ。とはいえ、どちらも半世紀も前の製品で、フラッグシップ機とはいえそんな古い機械が果たしてカメラとして本当に実用に値するのかということだけど、これが恐ろしく値する。それは、まさに壊れにくいということや、電気を使わない信頼性だ。もちろん、フォルムやその手ごたえみたいなものもある。でも、道具として、愛するカメラとしていちばんにこだわるのは、この機械としての信頼性なんだ。

現代社会の製品はほとんどと言っていいほど電気や電子部品なくては動かない。一方でエレクトロニクスのおかげで得られる利便性もまた計り知れない。それでも、気に入って最高性能の製品を手にしても、いわゆる電子部品の寿命というものはそう遠くなくやってくるし、比較的値段の安い電子製品は現代ではほぼ使い捨てのような使われ方をする。いわゆる”直すより新品に買い替えたほうが安い”というやつだ。それでいいものもある。けれど、愛するカメラではそうはあって欲しくないと思い始めるんだ、カメラを愛し始めるとね。僕もそうだった。もちろん機械式カメラだって壊れはするだろう。けれど、触りようのない電子部品が寿命を迎えて機械が使えなくなるということはない。これは、フォルムカメラ好きの人たちが機械式カメラを語る時によく言うことだけど、たしかにその通りだなと思う。

カメラに愛着がわけばわくほど”壊れずにずっと使い続けたい”と思い始める。そうしてたどり着くのが、機械式シャッターのフラッグシップ機なんじゃないかと思う。Leica M3とNikon F2、僕の手元にある二台は実用品としても実に頼もしく動く。縁あって手に入れたこの信頼性の塊のようなカメラを、真の寿命が来るまで末長く使い込んでみようと考えている。寿命なんて来るのかなとも思えるけど。そして、やがて息子に渡してあげたい。いつまでも使い続けられる信頼のプロダクトとして。