さて、週末だ。撮ろう。

Leica M3, ZEISS Planar T*2/50, Fuji業務用100

長いような短いような一週間が終わり、今週も金曜日の夜を迎えている。ちょっと物欲に惹かれてカメラ屋をのぞいたものの、カメラを買いたいんじゃなくて、カメラで撮りたいことに気がつき、無事手ぶらで店を後にして、週末にカメラに触れられる歓びをかみしめたりしてる。

そういえば今週末は息子がいない。サッカークラブの遠征で家を留守にするんだけど、年に何度かこういう息子のいない日がある。これまでだとポッカリ空白のできる週末だったけど、今は愛犬がいて、カメラがある。子離れと同時に、父も少しだけ青春みたいなことを楽しめる。誰に感謝すればいいのか分からないけど、ありがたいことだなあとか考える。

さて、明日のカメラはどうしよう。まだ暗い時間に愛犬に起こされたら、まずはNikon Dfで愛犬と散歩に出動だな。そうこうしていたら辺りが明るくなるだろうから、一度家に戻ってフィルムカメラに持ち替えて、再び出動かな。そうだな、カメラはたぶん、Leica M3かNikon F2。機械式カメラで撮りたい気分だ。フィルムは…その時の気分だけど、定番のFuji業務用100かILFORD XP2 400。紅葉がずいぶんと落ち着いていたら、モノクロでもいいかなと。

ついでだから日曜日のことも妄想。前日が機械式カメラだったとするなら、この日はオートフォーカスのNikon F6かな。フィルムはFuji業務用100か、曇天ならリバーサル。そうそう、もし雨ならNikon FEに明るめのレンズという手もある。だいたい、そんなところかな、今週のプランは。楽しいよね、そういう撮影プランみたいなこと考えるのってね。で、そんなことを考えてると、カメラはこれ以上増やしても使いきれないなということにも気づく。物欲より写欲がたいせつ。まあつべこべ言わず、撮ろう、じぶん。

高価買取ならカメラのリサマイ

レンジファインダーに魅せられてる人の気持ちは分かるんだよなあ。あの、派手さはないけどジワジワと惹かれていく感じ。

Leica M3, Planar T*2/50

一眼レフのように分かりやすく気持ちを高揚させるのとは少し異なる、なかなか言葉に言い表せない魅せられ方。レンジファインダー機に惹かれるありようのことである。

フィルムカメラにおいても一眼レフがキング・オブ・カメラな空気はやっぱりある。けれど、一定の数だけ根強いレンジファインダーファンがいるのもまた事実である。あのなんとも言えない出しゃばらない感じが、普段着的にさらっと写真を撮る人たちの気持ちを、静かではあるけど強く鷲掴みにする。僕もそういうところに魅せられた一人かもしれない。

一度でもレンジファインダーをのぞいたことがある人なら、あの、アレ?って思う感覚を持ったことがあるに違いない。それは、例えばM3のファインダーのようにあまりにも美しいその様子に心を打たれるものでもあったり、そうではなくフィルムコンパクトのファインダーなんかをのぞいて、そのあまりに普通な光景に驚くというようなことも含めて。

僕はNikonの一眼レフたちは大好きだけど、そこにまったく異質な存在としてこのLeica M3が君臨するんだ。君臨するといったら高圧的か。もっと普段着みたいな、その存在があまりに普通で心地よすぎて、あえて強くは意識しないあの感じに近いかな。うーん、このニュアンスを言葉にするのはやっぱりむずかしいな。もし興味を持ってもらえたなら、ここから先は実物を触ってもらうしかない。あの儚い感じを、その目で、その手で確かめてもらうしか。この時代にあって、なかなかの新鮮さで感動が押し寄せてくるよ。

高価買取ならカメラのリサマイ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ。

そして、リバーサル以上に驚いたのが、Ektar100とEktar現像だった。

Kodak Ektar100, Leica M3, Planar T*2/50

リバーサル“以上”というと言いすぎかな。でも、それくらい驚いたってこと。僕の想像の上をまたいできたって感じかな。Kodakの高級フィルムといわれるEktar100だ。僕にとっては初めてのEktar体験。そして、初めての専用現像であるEktar現像だ。

Kodak Ektar100, LeicaM3, Planar T*2/50

以前フィルムを始めた頃に、リスペクトしていたフィルム使いの人から、いつかはEktar100を体験してみてほしいと。しかも、できればEktar現像で、とアドバイスもらったのが印象的で、実はかなり以前に一本だけ購入してお守りのように保管していた。その一本をようやく撮り、現像に出したのである。Ektar現像で。キタムラで現像をお願いしたんだけど、リバーサルフィルムと同様、外注でフォトDVDにデータ化され、手元に帰ってくるまで2週間ほどかかった。

Kodak Ektar100, LeicaM3, Planar T*2/50

長い時間眠らせていたEktar100を使ってみたのは、もともとは家族を撮ろうと思ったから。最初の数枚はそうして家族を撮ったんだけど、息子もいい年になってなかなか写真を撮られることを嫌がる笑。で、結局残りのフィルムは父の散歩カメラ用になったというわけ。でも、おかけでらこうしてブログに写真を紹介できたからね。

Kodak Ektar100, LeicaM3, Planar T*2/50

僕は写真を語る知識も、カメラの設定に関する知恵もない。だから、言葉でEktar100に感じた驚きを表現するのはむずかしいんだけど、そんな僕にもこのフィルムが明らかにふだんのFuji業務用100やPRO400hと写真の質感が違うことは分かる。まず、見た瞬間にハッとしたからね。

Kodak Ektar100, LeicaM3, Planar T*2/50

最初に目に飛び込んできたのが、この鬱蒼としたピンクとグリーンの絡み合う秋桜の一枚なんだけど、なんだこれ?と思った。いわゆる評判で聞くEktar100らしい色の美しさを想像しつつも、そこに描かれた描写はワイルドというか野性みたいなものも感じる。この微妙にアンバランスな感じにまず驚いた。

Kodak Ektar100, LeicaM3, Planar T*2/50

で、36枚すべてを見て思うのは、なんというか一枚一枚ですごく表情を変えるな、ということ。もちろん他のフィルムでも同じように多彩な表情を見せる振り幅はあるんだけど、このEktar100はまるでレンズやカメラも変えて撮ったかのように撮るシーンによって表情を微妙に変えてくる。なんか、そういういくつもの表情を七変化する魔性の女みたいなものとでもいえばいいだろうか。

Kodak Ektar100, LeicaM3, Planar T*2/50

今回はLeica M3に入れて撮ってみたけど、これは別のカメラでも確かめたくなる、そんな風にザワザワとする気持ちがわいてきた。時期を同じくしてリバーサルフィルムにも魅せられてるところなんだけど、ネガよりポジのほうがドラマティックなだなどと気持ちが傾いていたところに、このEktar100がいい意味で期待を裏切るネガの世界を見せてくれて、そういう意味でリバーサル以上にちょっと驚いている。本当に思ったんだけど、ボディやレンズにお金を投じるのをしばらくやめて、フィルム代に投じたい。いろんなフィルムのいろんな味をこの目で確かめたいと、今強く思っている。ありきたりな言葉だけど、ほんと素晴らしいよ、フィルム。

高価買取ならカメラのリサマイ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ。

朝の光と影が好きだから、僕のカメラは朝活になる。

Leica M3, Konica C35, Nikon F2

写真は今朝、散歩カメラに連れ出したフィルムカメラたちである。左からLeica M3、Konica C35、Nikon F2。M3とC35がレンジファインダーで、F2が一眼レフ。M3とF2が電気を一切使わないフルメカニカルシャッター(いわゆる機械式カメラ)で、C35はピントを合わせるだけのプログラムEE(ファインダー内に露出計もあり電池を使う)だ。もともときょうは機械式の二台を持ち出してまったり癒し撮影としようと思ってたんだけど、C35にフィルムが入りっぱなしだったことを思い出し、一緒に連れ出すことにした。

僕の朝は早い。今朝は特に午前4時すぎに愛犬のトイレ掃除で起こされ、だったらと五時台に愛犬の散歩を終了。そうして朝の低い太陽光のうちに散歩カメラに出かけていた。朝晩はいわゆるマジックアワーで太陽光が美しく辺りを照らし、僕なんかでも少し雰囲気のある写真が撮れる。僕は特に朝の光が好き。夕方の陽射しも柔らかく好みだけど、だんだん日が暮れると感度の低いフィルムカメラでは撮影できなくなる。それに比べると朝の光はおいしい時間帯が終わっても、ひとまず明るいからそのまま撮ろうと思えば撮れる。その余裕がなんか焦らなくていいんだよね。

昼間の光で見ると少し退屈に見える風景も、朝の斜めからの太陽光でちょっと立体的に見える。そして、良くも悪くもカメラで撮ると想像を裏切る感じの、少し独特の色を放つ写真が撮れたりする。それが期待を裏切ってくれるようで、心地いいんだよね。きょうもそんなおもしろさを堪能しながら、36枚撮りのFUJI  PRO 400Hを途中から20枚程度、あとFUJI 業務用100を2本ほど撮った。撮ったものもいつもとあまり変わりばえしない散歩風景写真だけど、朝の光が体を少し温め、斜めからさす光が穏やかながらも抑揚のある世界を散歩道に浮かび上がらせる。

フィルム2本半といえばフィルムカメラでいえばけっこうな枚数だけど、朝の刻々と変わる光を背景に写真を撮っていると、機械式カメラでもあっという間に撮り終える。時計を見るとまだ10:00すぎで、日曜日をほぼ一日最初から使うことができる。いわば朝活ってやつだね。あと、なんといっても静かな中でカメラ撮影をたのしめる。人を撮りたいと思う反面、人混みはあまり得意ではないから、人っ気のない時間帯の撮影は心安まる。僕にとってカメラで写真を撮るという行為は、パッションというよりはヒーリング、癒しだからありがたい。そうして家族がまだ寝ているうちに家を出て、家族が始動し始めた頃に撮影を終えて家に帰ってくる。このペースも家族想いだ笑。今週もなんだかんだで6本のフィルムを楽しんだ。明日はリバーサルとかEktarの現像受け取りも4本あるから、なかなか財布が悲鳴をあげつつあるけど、まあこれだけ癒してもらってるんだからしょうがない。世の中にはいろんな朝活があると思うけど、この朝の光で写真を撮るという朝活もなかなかクリエイティブでおすすめである。

高価買取ならカメラのリサマイ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ。

フィルムライカとは気取っていない。

Leica M3, Planar T*2/50 ZM

僕のライカはフィルムライカで、いわゆるM型の一号機であるLeica M3。うまく言えないけど、このM3ほど手にする以前と今とでは印象が違うカメラはそうない。ライカといえば多くの人が高価でどこか気取ったカメラだという印象を持ってるんじゃないかな。僕も手にするまではそうだった。正確にいえば今でもそのオーバークオリティといえる作り込みの凄さは流石M3だと唸るものがある。でも撮ってる時間や撮れる写真はごくごく普通で自然体、むしろ気取ってるというよりは気さくなカメラといったほうが近い気がする。

辺りの人々にカメラで撮ってることを感じさせない存在感はその最たるものだし、ファインダーの中の世界も一眼レフの劇場感に比べると、目の前の光景がガラス越しに見えているに過ぎない。とにかくその撮影する心持ちとしては、特別感というよりは日常感、いい意味で普通なのである。僕はM3しか所有したことがないからデジタルライカのことはよく分からない。なによりデジタルライカは途方もなく高価で、それを普通と呼ぶにはいささか無理がある。でもM3はそんなことはない。1955年に登場した頃は日本でいうと家が一軒買えるような値段だったかもしれないけど、それから60年超、いまではデジタルカメラのいいものを手にするより安く入手できるくらい身近になった。もちろん、60年前のカメラにそれほどのお金を費やすなら、新品の最新デジタルカメラを手にした方が安心感もある。でも、とにかくそこまで身近になったフィルムライカは決して気取った存在ではないんだ。

正確にいえばフィルムライカはそのボディよりもレンズが高価になりやすい。田中長徳さんに言わせれば真の優れたレンズはElmarだと言うが、それだとあまりにスタンダード過ぎて通な人たちにはなかなか理解してもらえないらしい。そうすると、どんどんレアで高価なものへと志向が飛んでしまう。でも、ここにも気取らないライカの包容力はあって、フィルムライカに装着可能な手頃なレンズは実にたくさん存在するのである。そう、要は所有する人のライカを崇める度合いの違いだけ。奉るんじゃなくて、フレンドリーに接すればそれに応えてくれるのが現代に生きるフィルムライカなんだ。僕はそう思うようになった。

僕なんかはフィルムすらいちばん安いFUJI業務用100をM3に入れている。たまに感度が欲しい時はFUJI PRO400Hを使ったりもするけど、大抵は業務用100。それでもライカは実に寛大に受け止めてくれる。かしこまらず、ラフに使おうとする僕にしっかりとラフに応えてくれる。僕の写真のベースは週末の近所の散歩カメラで、街中のかっこいいスナップを撮るわけでもなんでもないけど、少なくとも僕にはライカはそれはそれでありふれた日常の記憶にちゃんと付き合ってくれるんだ。M3を使い続けて思ういちばんの驚きは、このフィルムライカの普通の日常に寄り添ってくれる包容力かもしれない。まあ、それでもまだ僕はライカのラの字くらいしかかじっていないから、真の気取ったライカのポテンシャルを引き出せていないだけかもしれない。もう何度かはいい意味で想像を裏切られそうな深さを持ち合わせていそうだけど、現時点での僕のフィルムライカに対する向き合い方の感想として、ブログに記しておこうと思った。

なにより、カメラは使い手次第だ。僕はそういう日常使いだけど、別の人であればまた違ったシチュエーションでフィルムライカを謳歌するだろう。でも、いかなるシチュエーションであれ、このフィルムライカは気負うことなくしなやかに順応するんじゃないかな。そんな気がする。気取ってるというよりは、実に気さくなんだ。きょうはフィルムで撮らなかったから、明日はLeica M3かNikon F2で1〜2本フィルムで撮ってみたいと思っている。ともに電池を一切使わないフルメカニカルシャッターのカメラだ。当時は機械式カメラの中で最高峰だったフラッグシップカメラが、デジタル時代の現代ではひと息つける癒しのカメラになった。僕らはつくづく幸福な時代を生きてるんだなと思う。さて、そろそろ眠りにつこう。明日の散歩カメラを想像などしながら。

高価買取ならカメラのリサマイ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ。

ライカとの休日。気持ちよすぎて酸欠になった。

Leica M3のフィルムチェンジの様子

連休最終日、朝の地区清掃を終えて息子が遊びに出かけたんで、父もじぶんの時間を過ごそうかなと、カメラを持って自転車ポタリングへ行って来た。カメラはライカのM3。フィルムは昨日入れておいたFUJI FILM PRO400hと交換用に業務用100を一本。昨日はフィルムを使わなかったから、きょうはまとめて2日分のフィルム2本。なかなか適度なペースだ。

自宅から自転車で少し走らせた所にある公園は、緑豊かで特にこの時期は紅葉がいい感じに木々を染める。昨日はデジイチNikon D300で撮ったんだけど、きょうはフィルムライカでもっとゆっくり撮りたい気分だった。小さな子どもたちと親の姿がちらほらあったけど、郊外の住宅地の中にある広々とした自然共存型の公園はとにかく静かだ。僕にはこの静かな環境が何より心地いい。そして、その静かさを邪魔しないライカM3のささやくような音もまたいい。

このブログには何度も書いてきたことだけど、M3のダブルストロークのシャッター巻き上げレバーの感触、そしてコトッと厳かに切れるシャッター、広く美しいファインダーの中に見える世界は、ふだん見慣れた光景を少しドラマチックにしてくれる。紅葉の季節はなおさら、心地いい世界を覗く時間を提供してくれる。途中、お約束のベンチの上でのフィルム交換もして、それがひと息つくタイミングにもなり、他のカメラにはない独特の時間がこのカメラにはある。僕はそれを「ライカ時間」と呼んでいる。ちょっと普段とは時間の流れ方が違うひととき。僕にとってライカとはM3のこと。これしか所有したことがないからなんだけど、最初に手にしたライカがM3でよかったのかもしれない。ひとまず他のライカが欲しいとは思わなくなったという一点において。

高価買取ならカメラのリサマイ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ。

休みの最後はライカと決めている。

今週末は三連休だから、明日もう一日休みがある。はやく世の中が週休3日制になればなとつくづく思う。やっぱり土日二日間と三連休では全然リフレッシュ感が違うし、物理的にできるコトも増やせる。例えば出動するカメラの話。

僕はこの二日間で4台のカメラを持ち出した。使った順に、Nikon F6、Nikon Df、RICOH GR、Nikon FEかな。F6とDfは二日間とも出動しているから、いいペースだ。GRとKonica C35は基本平日用、Nikon D300は望遠の時用ということでいえば、週末用カメラは残りNikon F2、そしてLeica M3だ。ちなみにD300は先週息子の運動会で丸一日堪能したし、F2はそれこそ現像があがってきたばかり。つまり、僕の三連休の残り一日は、確実にM3を連れ出してやろうということになる。週休3日制となると、ここまでカメラを連れ出す範囲が広がるから、それはやっぱり素晴らしい。

と、ここまでは三連休の話だけど、そもそも僕の場合は、休みの最後の日はLeica M3を連れ出すことが多い。それは、所有するカメラの多くがNikonの一眼レフで、休みともなるといかにも撮った!という感触のある一眼レフをまず触りたくなる。で、そうこう一眼レフばかり触っていると、やってくるんだなあ、ライカに触れたいという反動みたいな衝動が。で、休みも最後のほうになるとほぼ毎回M3を連れ出して”仕上げ”みたいなことになる。

いま僕のM3の中にはコダックのEktar100が入っている。たしかまだ数枚しか撮っていない。後生大事にというわけではないんだけど初めてのEktarだから、やたらめったらはシャッターを切らずに、家族の写真とか大事な一枚をゆっくり撮っている状態。だから、明日もきっと数枚しか撮らないと思うけど、それでも外の空気の中に連れ出すとカメラを適度に日光にあてて乾燥させられるし、各部の機械の動きをほぐすことにもなる。なにより、連れ出してあのファインダーの中をのぞくことに意味がある。慌ただしい愛犬との散歩カメラで距離計だのみで撮るか、それとも家族または一人で出かけ直してゆっくり撮るか、それは明朝の気分で決めたいと思うけど、とにかくM3を休みの最終日にわずかでも連れ出すことだけは前夜のこの時間に決まっている。ライカというカメラは、飾り奉るカメラじゃなくて、ラフに連れ出してやってこそ生きる、ある意味アバウト(ファインダーの中のフレーム枠の曖昧さも、距離計を細かくはこだわらないところも)なスナップ用カメラ、少なくとも僕はそう思ってるから、まさしくラフに連れ出してナンボ。フルメカニカルシャッターのレンジファインダーは、僕にカメラはラフでいいんだよと毎回教えてくれる。さて、そろそろ眠るとするか。明日のライカの出番などをうとうと考えながら。

一眼レフとレンジファインダー、どっちも必要な理由みたいなもの。

僕の場合は所有台数の比重からいって、一眼レフを使うことのほうが多い。でも、だからといってレンジファインダーはいらないかというと必要なんだな。それは物理的に必要というより、恋しくなる感じ。というのも、一眼レフばかりで撮り続けてると、ふと疲れる時があるんだよね。ファインダーの中を凝視して、獲物を捕まえるようにシューティングするそれは、いかにも撮影しているという高揚感があるわけだけど、世の中のあらゆることと一緒で、そらばかりだと少々刺激が強くて疲れる。そんな時にレンジファインダーに持ち替えるんだ。そこには高揚感とは少し異なる、癒しというかほどよい軽快感というか、時間がゆっくり流れ始めるようなリセット感がある。写真の質やシチュエーションによってカメラを物理的に持ち替えることももちろんあるけど、僕の場合はこうして気分のチューニングをするのに一眼レフとレンジファインダーを使い分けてるところがある。使い分けてるというより、補い合ってるというほうが近いかな。カメラに機能や利便性だけじゃなく、心のよりどころみたいなものを求めてるほど、このカメラチェンジは重要なんじゃないかな。

撮られてることを意識させないことこそ、ライカの最高性能だと思う。

きょうはライカM3に初めてEktar 100を入れて、外へ連れ出してみた。といっても、わざわざ撮影に出かけたんじゃなくて、家族とのお出かけに同行させた、というライトな外出なんだけどね。撮ったのは、ほんの5枚だけ。妻と息子の写真だ。

僕が撮る写真はほんとになんの変哲もない日常のスナップで、人を撮るのはほぼ妻と息子だけ。息子が小さい頃はNokiaやiPhoneのカメラで息子の成長を撮り、三年ほど前からはカメラで撮るようになった。カメラで撮るようになって変わったことといえば、息子も自我が芽生えて写真を撮られることを嫌がるようになったことかな。正確にいうと本気で嫌というよりは照れ臭いんだと思う。だから、息子をカメラで撮る時は、遠目から望遠で撮ることが多かった。でも、近ごろはもうひとつ息子の撮り方が増えた。それは、ライカで撮るということ。

僕のライカはM3。ほかのライカのことは正直よく分からないけど、M3について言えば、とにかくシャッター音が静かだ。それは単に音の音量ということだけじゃなくて、その振動というか、撮ってる佇まいからして静かといえばいいだろうか。ふだん一眼レフを使っている人がM3で撮ると、ちょっと驚嘆するレベルだと思う。実際、僕が初めてM3のフィルム巻き上げからシャッターを切ってみた時は、そのあまりの滑らかさと静けさに思わずため息が出るほどだったから。

カメラで撮られることを嫌がる息子も、じぶんがカメラで撮られているとは気づかないのであれば、もちろん嫌がられることもない。さすがに正面から撮る時は撮られることを意識させるけど、横顔とか斜めから撮るようなシチュエーションだと、どうかしたら息子は撮られていることは気づかない。本屋で立ち読みに夢中になっている息子の姿を何度となく斜めとか横からそっと撮ってきたりしたけど、M3で撮る時はまず息子は撮られていることに気がつかない。だから、僕は家族と出かける時に持ち出すカメラとしては、フィルムカメラならM3であることが多い。

まあ、息子にしてみれば、いつの間にか撮られているのもどうかと思うかもしれないけど、父としては一枚でも多くの息子の普通の姿を撮り残してあげたくてね。息子が撮られること自体を嫌がるんじゃなくて、照れ臭いのであれば、せめて撮られていることを感じさせずに撮っておいてあげようと思って、お節介だけどそんな日々を送っている。ライカM3、やれオーバークオリティな機械の手ごたえとか、美しく優れたファインダーとか賛美されるわけだけど、僕はこのカメラの最高性能はこの驚異的な静かさだと思っている。無音じゃなくて、撮り手にはシャッターを切っていることをしっかり感じさせるのに、撮られている人にはそのことを意識させないカメラ。これこそがM3の真骨頂だと。それはつまり、街中でスナップを撮る時の最大のメリットとも言える。ライカとはその価格から言えば何やらたいそうなものを撮るためのカメラと思いがちだけど、この何気ない日常をそっと撮ることこそに真価を発揮するカメラなんじゃないかな。少なくとも僕にとってはそういう意味での最高のカメラだったりする。

ライカM3と50mmにいつも立ち返る。

28mmや35mmで撮り始めると”50mmはちょっと狭いかな”と思ったりする時がある。といっても一眼レフの話でね。そんな時にライカM3に持ち替えると、すんなり50mmを受け入れられるというか、あゝ50mmはやっぱり原点的何かがあるかもと思うんだよね。

同じ50mmでもファインダーの外側が見えない一眼レフと、50mmの外側もファインダーの中に見える世界の違いなのかもしれない。だから、いろんなカメラや画角で撮ったら、このM3で感覚を常にニュートラルにしようとしているじぶんがいる。数あるカメラの中でライカM3が特別だと言われる所以があるとするなら、そういうところなんじゃないかと思う。

ライカM3はご存知の通り、50mmのために作られたようなカメラで、35mmだとブライトフレームが使えない。ファインダーの外枠いっぱいが35mmの目安とも言われるけど、そうするとブライトフレームの外側の世界が見えず、レンジファインダーのよさであるフレームの外が見える恩恵は味わえない。35mm用の外付けファインダーを装着する手もあるけど、僕はどうもあの外付けファインダーの佇まいが苦手だ。つまり、あのM3のファインダーは50mmのために作られている。なぜ50mmなのか、それは分からないけど、ライカは50mmを標準にした。その奥深さはたぶんこのファインダーをのぞいて撮るしか分からないし、言葉にしようがない。

仕上がる写真は同じ50mmなら一眼レフとレンジファインダーに差はないはずだけど、僕の中ではやっぱり異なるというか、M3で撮る50mmはなんというか別物だし、すべてのカメラのハブみたいな存在といえばいいだろうか。ほんと不思議で魔力を持つカメラだと思う。僕がつけている50mmはライカ製ではなくてカール・ツァイス プラナーだけど、このマッチングもとても気に入っている。M3には新たにレンズを買い足すつもりはまったくなくて、ライカで撮ること=プラナー50mmで撮るということで、いろんなカメラを使っても、ここが僕の帰る場所、そんな思いがある。