休みの最後はライカと決めている。

今週末は三連休だから、明日もう一日休みがある。はやく世の中が週休3日制になればなとつくづく思う。やっぱり土日二日間と三連休では全然リフレッシュ感が違うし、物理的にできるコトも増やせる。例えば出動するカメラの話。

僕はこの二日間で4台のカメラを持ち出した。使った順に、Nikon F6、Nikon Df、RICOH GR、Nikon FEかな。F6とDfは二日間とも出動しているから、いいペースだ。GRとKonica C35は基本平日用、Nikon D300は望遠の時用ということでいえば、週末用カメラは残りNikon F2、そしてLeica M3だ。ちなみにD300は先週息子の運動会で丸一日堪能したし、F2はそれこそ現像があがってきたばかり。つまり、僕の三連休の残り一日は、確実にM3を連れ出してやろうということになる。週休3日制となると、ここまでカメラを連れ出す範囲が広がるから、それはやっぱり素晴らしい。

と、ここまでは三連休の話だけど、そもそも僕の場合は、休みの最後の日はLeica M3を連れ出すことが多い。それは、所有するカメラの多くがNikonの一眼レフで、休みともなるといかにも撮った!という感触のある一眼レフをまず触りたくなる。で、そうこう一眼レフばかり触っていると、やってくるんだなあ、ライカに触れたいという反動みたいな衝動が。で、休みも最後のほうになるとほぼ毎回M3を連れ出して”仕上げ”みたいなことになる。

いま僕のM3の中にはコダックのEktar100が入っている。たしかまだ数枚しか撮っていない。後生大事にというわけではないんだけど初めてのEktarだから、やたらめったらはシャッターを切らずに、家族の写真とか大事な一枚をゆっくり撮っている状態。だから、明日もきっと数枚しか撮らないと思うけど、それでも外の空気の中に連れ出すとカメラを適度に日光にあてて乾燥させられるし、各部の機械の動きをほぐすことにもなる。なにより、連れ出してあのファインダーの中をのぞくことに意味がある。慌ただしい愛犬との散歩カメラで距離計だのみで撮るか、それとも家族または一人で出かけ直してゆっくり撮るか、それは明朝の気分で決めたいと思うけど、とにかくM3を休みの最終日にわずかでも連れ出すことだけは前夜のこの時間に決まっている。ライカというカメラは、飾り奉るカメラじゃなくて、ラフに連れ出してやってこそ生きる、ある意味アバウト(ファインダーの中のフレーム枠の曖昧さも、距離計を細かくはこだわらないところも)なスナップ用カメラ、少なくとも僕はそう思ってるから、まさしくラフに連れ出してナンボ。フルメカニカルシャッターのレンジファインダーは、僕にカメラはラフでいいんだよと毎回教えてくれる。さて、そろそろ眠るとするか。明日のライカの出番などをうとうと考えながら。

一眼レフとレンジファインダー、どっちも必要な理由みたいなもの。

僕の場合は所有台数の比重からいって、一眼レフを使うことのほうが多い。でも、だからといってレンジファインダーはいらないかというと必要なんだな。それは物理的に必要というより、恋しくなる感じ。というのも、一眼レフばかりで撮り続けてると、ふと疲れる時があるんだよね。ファインダーの中を凝視して、獲物を捕まえるようにシューティングするそれは、いかにも撮影しているという高揚感があるわけだけど、世の中のあらゆることと一緒で、そらばかりだと少々刺激が強くて疲れる。そんな時にレンジファインダーに持ち替えるんだ。そこには高揚感とは少し異なる、癒しというかほどよい軽快感というか、時間がゆっくり流れ始めるようなリセット感がある。写真の質やシチュエーションによってカメラを物理的に持ち替えることももちろんあるけど、僕の場合はこうして気分のチューニングをするのに一眼レフとレンジファインダーを使い分けてるところがある。使い分けてるというより、補い合ってるというほうが近いかな。カメラに機能や利便性だけじゃなく、心のよりどころみたいなものを求めてるほど、このカメラチェンジは重要なんじゃないかな。

撮られてることを意識させないことこそ、ライカの最高性能だと思う。

きょうはライカM3に初めてEktar 100を入れて、外へ連れ出してみた。といっても、わざわざ撮影に出かけたんじゃなくて、家族とのお出かけに同行させた、というライトな外出なんだけどね。撮ったのは、ほんの5枚だけ。妻と息子の写真だ。

僕が撮る写真はほんとになんの変哲もない日常のスナップで、人を撮るのはほぼ妻と息子だけ。息子が小さい頃はNokiaやiPhoneのカメラで息子の成長を撮り、三年ほど前からはカメラで撮るようになった。カメラで撮るようになって変わったことといえば、息子も自我が芽生えて写真を撮られることを嫌がるようになったことかな。正確にいうと本気で嫌というよりは照れ臭いんだと思う。だから、息子をカメラで撮る時は、遠目から望遠で撮ることが多かった。でも、近ごろはもうひとつ息子の撮り方が増えた。それは、ライカで撮るということ。

僕のライカはM3。ほかのライカのことは正直よく分からないけど、M3について言えば、とにかくシャッター音が静かだ。それは単に音の音量ということだけじゃなくて、その振動というか、撮ってる佇まいからして静かといえばいいだろうか。ふだん一眼レフを使っている人がM3で撮ると、ちょっと驚嘆するレベルだと思う。実際、僕が初めてM3のフィルム巻き上げからシャッターを切ってみた時は、そのあまりの滑らかさと静けさに思わずため息が出るほどだったから。

カメラで撮られることを嫌がる息子も、じぶんがカメラで撮られているとは気づかないのであれば、もちろん嫌がられることもない。さすがに正面から撮る時は撮られることを意識させるけど、横顔とか斜めから撮るようなシチュエーションだと、どうかしたら息子は撮られていることは気づかない。本屋で立ち読みに夢中になっている息子の姿を何度となく斜めとか横からそっと撮ってきたりしたけど、M3で撮る時はまず息子は撮られていることに気がつかない。だから、僕は家族と出かける時に持ち出すカメラとしては、フィルムカメラならM3であることが多い。

まあ、息子にしてみれば、いつの間にか撮られているのもどうかと思うかもしれないけど、父としては一枚でも多くの息子の普通の姿を撮り残してあげたくてね。息子が撮られること自体を嫌がるんじゃなくて、照れ臭いのであれば、せめて撮られていることを感じさせずに撮っておいてあげようと思って、お節介だけどそんな日々を送っている。ライカM3、やれオーバークオリティな機械の手ごたえとか、美しく優れたファインダーとか賛美されるわけだけど、僕はこのカメラの最高性能はこの驚異的な静かさだと思っている。無音じゃなくて、撮り手にはシャッターを切っていることをしっかり感じさせるのに、撮られている人にはそのことを意識させないカメラ。これこそがM3の真骨頂だと。それはつまり、街中でスナップを撮る時の最大のメリットとも言える。ライカとはその価格から言えば何やらたいそうなものを撮るためのカメラと思いがちだけど、この何気ない日常をそっと撮ることこそに真価を発揮するカメラなんじゃないかな。少なくとも僕にとってはそういう意味での最高のカメラだったりする。

ライカM3と50mmにいつも立ち返る。

28mmや35mmで撮り始めると”50mmはちょっと狭いかな”と思ったりする時がある。といっても一眼レフの話でね。そんな時にライカM3に持ち替えると、すんなり50mmを受け入れられるというか、あゝ50mmはやっぱり原点的何かがあるかもと思うんだよね。

同じ50mmでもファインダーの外側が見えない一眼レフと、50mmの外側もファインダーの中に見える世界の違いなのかもしれない。だから、いろんなカメラや画角で撮ったら、このM3で感覚を常にニュートラルにしようとしているじぶんがいる。数あるカメラの中でライカM3が特別だと言われる所以があるとするなら、そういうところなんじゃないかと思う。

ライカM3はご存知の通り、50mmのために作られたようなカメラで、35mmだとブライトフレームが使えない。ファインダーの外枠いっぱいが35mmの目安とも言われるけど、そうするとブライトフレームの外側の世界が見えず、レンジファインダーのよさであるフレームの外が見える恩恵は味わえない。35mm用の外付けファインダーを装着する手もあるけど、僕はどうもあの外付けファインダーの佇まいが苦手だ。つまり、あのM3のファインダーは50mmのために作られている。なぜ50mmなのか、それは分からないけど、ライカは50mmを標準にした。その奥深さはたぶんこのファインダーをのぞいて撮るしか分からないし、言葉にしようがない。

仕上がる写真は同じ50mmなら一眼レフとレンジファインダーに差はないはずだけど、僕の中ではやっぱり異なるというか、M3で撮る50mmはなんというか別物だし、すべてのカメラのハブみたいな存在といえばいいだろうか。ほんと不思議で魔力を持つカメラだと思う。僕がつけている50mmはライカ製ではなくてカール・ツァイス プラナーだけど、このマッチングもとても気に入っている。M3には新たにレンズを買い足すつもりはまったくなくて、ライカで撮ること=プラナー50mmで撮るということで、いろんなカメラを使っても、ここが僕の帰る場所、そんな思いがある。

アナログでつくって、デジタルで届ける。

世はまさにデジタル時代だ。それは疑いようのない事実で、ありとあらゆるものがデジタル化されて、僕らの日常はたしかに20世紀には想像もしなかったほど便利になった。インターネットしかり、スマートフォンしかり、毎年進化する家電製品、AIを積んだ自動運転車しかり。それでも、それを使う僕ら生身の人間は変わらない。五感で感じ、意志で動き、疲れたり癒されたり、気分で元気になったりする。考えてみると、時代の大きな変わり目である今は、変えてはならないもの、変わらないものも少し鮮明に見えてくる。手段としてはデジタルは計り知れない威力を持っているし、この先の可能性の大きさもとんでもないものがあるけと、そのデジタルにのせるコト・モノは僕らの喜怒哀楽を揺らす限りなくアナログなものでこしらえる必要があり、それはほぼ永遠に変わらないであろうこともしっかり認識しておく必要がある。そんなことをふと思う朝。

ILFORD XP2の赤みを、iOSで簡単にグレースケール化してみた。

カラー現像機でOKなモノクロフィルムILFORD XP2 400だけど、純粋なモノクロフィルムと比べると赤みというか青みというか独特の色が出る。これはこれで味があるんだけど、ネットで調べてみると多くの人がLightroomでグレースケール化してるのを見て、そっか、それいいなと。でも面倒くさがりで普段からレタッチしない僕には少し面倒なことでもある。もっと手軽にグレースケール化してみたいなと思ってたところ、iOSの写真の編集で簡単にできることがわかり、やってみた。

上の写真がそのグレースケール化したもの。下の写真がキタムラで特に注文せずに現像データ化してもらったもの。本格的なレタッチソフトじゃないから細かな調整はできないけど、こうしてグレースケール化できるのは分かったから、これから使ってみようかなと。キタムラの店員さんにも以前、この赤みを消す方法を相談したことがあり、その時は普通に現像からデータ化をお願いするとカラーネガと同じように補正をかけるから、モノクロにするなら補正をかけないか、もしくは現像を出す時に店員にできるだけモノクロにしたい旨を伝えて試してみましょうか、とか話したんだけどね。

こうやってみると結構緻密に写ってるなとも思う。普段よく使う業務用100よりなんというかみっちり写り込んでる感覚。モノクロだからかな、そのへんは僕にはまだまだ写真を見る目がないからよく分からない。

ただ、僕の撮る写真程度ならこのiOSのグレースケール化で十分いけるなと。たしかキタムラでILFORD XP2は24枚撮りで700円台、36枚撮りで900円台だったから、安くはないけど他のプロ用フィルムと比べても高いわけじゃない。それでいて、いつものカラー現像機で一時間後には現像があがるのはやっぱりありがたい。

というわけで、しばらくXP2でフィルムでもモノクロ撮影を楽しんでみようかなと少しフィルムを買い貯めた。リクエストに応じてキタムラさんがXP2の取り扱いを復活してくれたしね。リクエストした一人としてはそれに応えたいところもある。そして、何よりモノクロが好きだしね。GRで撮ってる頃はもうほとんどモノクロ写真ばかりだったから。カメラやってるとほんとその時々でいろんな発見がある。レンズやボディの沼が深いんじゃなくて、写真の奥が深いんだよね。

使い続けると、この落ち着きのある撮影感覚がたまらなくなる。レンジファインダーという存在。

今朝はフィルム一眼レフを持ち出したんだけど、朝のどちらかといえば静かに撮り歩きたい時は、やっぱりレンジファインダーのほうが心穏やかになれて心地いいなと思った。僕は、だけどね。

一眼レフはその佇まいやシャッター音、ミラーショック、ブラックアウトなど、ひとつひとつのダイナミックともいえる操作感が「俺は今、撮ってる」という点でとても満たされるカメラ。僕のカメラライフの原点だから、それはそれで譲れない魅力があることには変わりないんだけど、カメラが主張し過ぎるんだろうね。いい意味でね。

それと比べると、レンジファインダーは主張しない。どちらかというと存在を消そうとするような要素ばかりだ。小ぶりなボディも、操作音も、シャッター音も、とにかく控えめだ。ファインダーの中の世界も、目の前にある普通の世界そのまま。現像した写真があがってくるまでは、その場の空気を特に劇的にするものはない。いい意味で脇役に徹してるように見える。これが、静かに写真を撮りたい僕には、性に合っているというのもあるかもしれない。

平凡な毎日に刺激を与えてくれるカメラとしては一眼レフはたまらない魅力があるけど、欲しいのは刺激だけじゃない。静寂であり、奥ゆかしさであり、余韻みたいなものにまず包まれていたいという、人間のベースにある欲求といえばいいだろうか。そういうものを満たす、もしくは埋めてくれる存在として、レンジファインダーはこの世に存在し続けているんだろうなと、ふと思った。一眼レフは好きだけど、最も心地いい存在としては、レンジファインダーに僕はたどり着いたようだ。

まだまだ現役のフィルムカメラのように、僕もメンテしながらいい歳を重ねたい。

人出の少ない早朝に墓参りをゆっくり済ませ、帰り道にF2で数枚スナップも撮れたし、なかなかいい誕生日だ。今日はお盆の真っ只中の8/14だけど、僕は約半世紀前の今日、この世に生んでもらった。お墓の前から久しぶりにお袋に電話をして少し会話したけど、いくつになっても母親の気遣いは偉大だなと思うし、本当にこの世に生んでくれてありがとうといつも思う。ご先祖様にもまさにこの世に生んでもらったことを感謝した。

心は若いつもりなんだけど、体のほうはさすがに約半世紀も酷使して、適度にメンテナンスしてあげないとあちこちが故障したりする。Runをしたり、スイムをしたり、ロードバイクに乗ったりとなかなか忙しいけど、僕にとってはそれらは単なる趣味じゃなくて体のメンテナンスでもあるから、家族のためにもそこはトレーニングを続けなきゃいけない。まあ、楽しいんだけどね笑。

僕は最近、新製品というものにあまり興味が無くなった。今日走らせたセダンももう10年乗ってるし、そういえば先日手に入れたデジイチも同じく2007年製のNikon D300で同じ10年選手だなあと。たぶん、この頃にすでに機械としてはどちらも完成していて、この10年は細部の仕上げだったんじゃないかな。車もカメラも10年選手とは思えない実に豊かな使い心地に関心しているというか、惚れている。僕の所有するフィルムカメラに至っては、Leica M3が1955年製、Konica C35が1968年製、Nikon F2が1971年製、Nikon FEが1978年製だから、それはそれはどれも現役の素晴らしい働きをしていて、古いプロダクトを長きにわたって使い込むよさを今、僕は堪能している。そして、じぶんも半世紀近い年月を生きてきて、なんというかやっとそういう同じ年代を生きたモノの本当のよさみたいなものを感じとれるようになったのかなと考えている。

若い頃はそれこそ仕事が趣味で、それはそれでエキサイティングだったけど、体もノーメンテナンスであの頃のようにいくかといえば、それはやっぱりむずかしいわけで、カメラたちと同様、適度に使って、適度にいたわって、適度にチューニングやメンテナンスをほどこしてあげる。なんだか、僕が愛するプロダクトたちはどれも人間ぽいなあと感じた誕生日の朝だ。と、ノスタルジックな気分にひたってばかりはいられない。心はふりかえっても、時間はひたすら前進あるのみだからね。進もう、人間らしく、僕らしく。

そっと、ライカ。

ライカはカメラをやったことがない人でも一度は聞いたことがあるような有名なブランドである。僕もカメラを始める前はそう思っていたし、実際カメラをやるようになってM3を手にし、その時空を超えてなおオーバークオリティを感じさせる精密さや操作感、機能美の塊のようなデザインを目の当たりにして圧倒された。

でも、このライカというカメラは、それだけの威厳を持っているのに、まったく出しゃばらない。常に平静を保った大人の振る舞いというか、あくまで主役は撮り手であってライカは脇役に徹する、そんな風にさえ見える。よく言われる囁くような小さなシャッター音もこのカメラを静的な存在にしていることは確かだけど、それだけじゃない。カメラにせかされないで撮れるというか、じっくり、ゆっくりとじぶんの無理のないペースで撮ればいい、そんな気分にさせてくれる包容力みたいなものがある。

本当は毎日このライカを鞄に入れて街撮りスナップを撮りたいとも考えたんだけど、僕のライフスタイルだとそれもなかなかままならない。かといって週末も今朝のようにフィルムの残ったF2を持ち出すことになると、M3は出番がない時だってある。でも、そんな時も焦らないんだな、ライカって不思議と。そんな時は部屋の中でライカのボディを手のひらの中で眺めたり、巻き上げレバーや空シャッターを味わったりするだけで、それはそれでよしと思える。無理に持ち出そうと焦ることなく、じっくりと出番をうかがいながら撮り手との呼吸を合わせてくれる、そんなゆっくりと流れる時間がこのライカにはある。

Nikon F2のような”撮ることを強烈に感じさせてくれる”一眼レフと比べると実に対照的で、F2が動なら、このライカは静だけど、それは撮れる写真が静というものとは違う。あくまで、撮り手やまわりの人にとって、その出しゃばらない存在感が静ということなんだ。ライカを手にした人は長きにわたってライカと人生を共にする。それはコレクションという意味合いではなくて、こうして焦らずじっくり、ゆっくりと歩む、その結果としての姿なんだなと最近思うようになった。そう、カメラはあくまで脇役であって、主役は撮り手の人生だからね。

なぜ、行き着くところ”機械式シャッター機”なのか。

僕はフィルムカメラに詳しい人間ではない。でもそんなビギナーが数台カメラを手にして経験していった結果、機械式シャッターのフラッグシップ機ともいえる二台のカメラを最も愛おしく思うようになる。Leica M3とNikon F2、それぞれ言わずと知れたフィルム時代のレンジファインダーと一眼レフの名機だ。とはいえ、どちらも半世紀も前の製品で、フラッグシップ機とはいえそんな古い機械が果たしてカメラとして本当に実用に値するのかということだけど、これが恐ろしく値する。それは、まさに壊れにくいということや、電気を使わない信頼性だ。もちろん、フォルムやその手ごたえみたいなものもある。でも、道具として、愛するカメラとしていちばんにこだわるのは、この機械としての信頼性なんだ。

現代社会の製品はほとんどと言っていいほど電気や電子部品なくては動かない。一方でエレクトロニクスのおかげで得られる利便性もまた計り知れない。それでも、気に入って最高性能の製品を手にしても、いわゆる電子部品の寿命というものはそう遠くなくやってくるし、比較的値段の安い電子製品は現代ではほぼ使い捨てのような使われ方をする。いわゆる”直すより新品に買い替えたほうが安い”というやつだ。それでいいものもある。けれど、愛するカメラではそうはあって欲しくないと思い始めるんだ、カメラを愛し始めるとね。僕もそうだった。もちろん機械式カメラだって壊れはするだろう。けれど、触りようのない電子部品が寿命を迎えて機械が使えなくなるということはない。これは、フォルムカメラ好きの人たちが機械式カメラを語る時によく言うことだけど、たしかにその通りだなと思う。

カメラに愛着がわけばわくほど”壊れずにずっと使い続けたい”と思い始める。そうしてたどり着くのが、機械式シャッターのフラッグシップ機なんじゃないかと思う。Leica M3とNikon F2、僕の手元にある二台は実用品としても実に頼もしく動く。縁あって手に入れたこの信頼性の塊のようなカメラを、真の寿命が来るまで末長く使い込んでみようと考えている。寿命なんて来るのかなとも思えるけど。そして、やがて息子に渡してあげたい。いつまでも使い続けられる信頼のプロダクトとして。