まだまだ現役のフィルムカメラのように、僕もメンテしながらいい歳を重ねたい。

人出の少ない早朝に墓参りをゆっくり済ませ、帰り道にF2で数枚スナップも撮れたし、なかなかいい誕生日だ。今日はお盆の真っ只中の8/14だけど、僕は約半世紀前の今日、この世に生んでもらった。お墓の前から久しぶりにお袋に電話をして少し会話したけど、いくつになっても母親の気遣いは偉大だなと思うし、本当にこの世に生んでくれてありがとうといつも思う。ご先祖様にもまさにこの世に生んでもらったことを感謝した。

心は若いつもりなんだけど、体のほうはさすがに約半世紀も酷使して、適度にメンテナンスしてあげないとあちこちが故障したりする。Runをしたり、スイムをしたり、ロードバイクに乗ったりとなかなか忙しいけど、僕にとってはそれらは単なる趣味じゃなくて体のメンテナンスでもあるから、家族のためにもそこはトレーニングを続けなきゃいけない。まあ、楽しいんだけどね笑。

僕は最近、新製品というものにあまり興味が無くなった。今日走らせたセダンももう10年乗ってるし、そういえば先日手に入れたデジイチも同じく2007年製のNikon D300で同じ10年選手だなあと。たぶん、この頃にすでに機械としてはどちらも完成していて、この10年は細部の仕上げだったんじゃないかな。車もカメラも10年選手とは思えない実に豊かな使い心地に関心しているというか、惚れている。僕の所有するフィルムカメラに至っては、Leica M3が1955年製、Konica C35が1968年製、Nikon F2が1971年製、Nikon FEが1978年製だから、それはそれはどれも現役の素晴らしい働きをしていて、古いプロダクトを長きにわたって使い込むよさを今、僕は堪能している。そして、じぶんも半世紀近い年月を生きてきて、なんというかやっとそういう同じ年代を生きたモノの本当のよさみたいなものを感じとれるようになったのかなと考えている。

若い頃はそれこそ仕事が趣味で、それはそれでエキサイティングだったけど、体もノーメンテナンスであの頃のようにいくかといえば、それはやっぱりむずかしいわけで、カメラたちと同様、適度に使って、適度にいたわって、適度にチューニングやメンテナンスをほどこしてあげる。なんだか、僕が愛するプロダクトたちはどれも人間ぽいなあと感じた誕生日の朝だ。と、ノスタルジックな気分にひたってばかりはいられない。心はふりかえっても、時間はひたすら前進あるのみだからね。進もう、人間らしく、僕らしく。

そっと、ライカ。

ライカはカメラをやったことがない人でも一度は聞いたことがあるような有名なブランドである。僕もカメラを始める前はそう思っていたし、実際カメラをやるようになってM3を手にし、その時空を超えてなおオーバークオリティを感じさせる精密さや操作感、機能美の塊のようなデザインを目の当たりにして圧倒された。

でも、このライカというカメラは、それだけの威厳を持っているのに、まったく出しゃばらない。常に平静を保った大人の振る舞いというか、あくまで主役は撮り手であってライカは脇役に徹する、そんな風にさえ見える。よく言われる囁くような小さなシャッター音もこのカメラを静的な存在にしていることは確かだけど、それだけじゃない。カメラにせかされないで撮れるというか、じっくり、ゆっくりとじぶんの無理のないペースで撮ればいい、そんな気分にさせてくれる包容力みたいなものがある。

本当は毎日このライカを鞄に入れて街撮りスナップを撮りたいとも考えたんだけど、僕のライフスタイルだとそれもなかなかままならない。かといって週末も今朝のようにフィルムの残ったF2を持ち出すことになると、M3は出番がない時だってある。でも、そんな時も焦らないんだな、ライカって不思議と。そんな時は部屋の中でライカのボディを手のひらの中で眺めたり、巻き上げレバーや空シャッターを味わったりするだけで、それはそれでよしと思える。無理に持ち出そうと焦ることなく、じっくりと出番をうかがいながら撮り手との呼吸を合わせてくれる、そんなゆっくりと流れる時間がこのライカにはある。

Nikon F2のような”撮ることを強烈に感じさせてくれる”一眼レフと比べると実に対照的で、F2が動なら、このライカは静だけど、それは撮れる写真が静というものとは違う。あくまで、撮り手やまわりの人にとって、その出しゃばらない存在感が静ということなんだ。ライカを手にした人は長きにわたってライカと人生を共にする。それはコレクションという意味合いではなくて、こうして焦らずじっくり、ゆっくりと歩む、その結果としての姿なんだなと最近思うようになった。そう、カメラはあくまで脇役であって、主役は撮り手の人生だからね。

なぜ、行き着くところ”機械式シャッター機”なのか。

僕はフィルムカメラに詳しい人間ではない。でもそんなビギナーが数台カメラを手にして経験していった結果、機械式シャッターのフラッグシップ機ともいえる二台のカメラを最も愛おしく思うようになる。Leica M3とNikon F2、それぞれ言わずと知れたフィルム時代のレンジファインダーと一眼レフの名機だ。とはいえ、どちらも半世紀も前の製品で、フラッグシップ機とはいえそんな古い機械が果たしてカメラとして本当に実用に値するのかということだけど、これが恐ろしく値する。それは、まさに壊れにくいということや、電気を使わない信頼性だ。もちろん、フォルムやその手ごたえみたいなものもある。でも、道具として、愛するカメラとしていちばんにこだわるのは、この機械としての信頼性なんだ。

現代社会の製品はほとんどと言っていいほど電気や電子部品なくては動かない。一方でエレクトロニクスのおかげで得られる利便性もまた計り知れない。それでも、気に入って最高性能の製品を手にしても、いわゆる電子部品の寿命というものはそう遠くなくやってくるし、比較的値段の安い電子製品は現代ではほぼ使い捨てのような使われ方をする。いわゆる”直すより新品に買い替えたほうが安い”というやつだ。それでいいものもある。けれど、愛するカメラではそうはあって欲しくないと思い始めるんだ、カメラを愛し始めるとね。僕もそうだった。もちろん機械式カメラだって壊れはするだろう。けれど、触りようのない電子部品が寿命を迎えて機械が使えなくなるということはない。これは、フォルムカメラ好きの人たちが機械式カメラを語る時によく言うことだけど、たしかにその通りだなと思う。

カメラに愛着がわけばわくほど”壊れずにずっと使い続けたい”と思い始める。そうしてたどり着くのが、機械式シャッターのフラッグシップ機なんじゃないかと思う。Leica M3とNikon F2、僕の手元にある二台は実用品としても実に頼もしく動く。縁あって手に入れたこの信頼性の塊のようなカメラを、真の寿命が来るまで末長く使い込んでみようと考えている。寿命なんて来るのかなとも思えるけど。そして、やがて息子に渡してあげたい。いつまでも使い続けられる信頼のプロダクトとして。

なぜ、F2とM3に集中しようと思い至ったのか。

理由はいくつかあるのだけど、ひと言でいえば「時間がないから」。僕は不器用なのでたくさんのことを器用にこなすことはむずかしい。カメラをこれ以上増やすと、きっとどれも使い込むことができないじぶんが見える。デジタルカメラの時にそれを経験し、増やしすぎたカメラやレンズをすべて手放した経験もある。考えてみると、人生は長いようで短い。週末の回数ともなると冷静に考えると実はゾッとするくらい少ない。そんな限りのある時間を、この二つのフルメカニカルシャッター機と濃密に過ごしたいと思ったんだ。Nikon F2とLeica M3。機械式一眼レフと機械式レンジファインダーの、共にカメラの歴史に名を刻む名機。縁あって手に入れたこの二つのカメラと、大袈裟に言えば残りの人生を濃く太く駆け抜けたいなと。昨夜、ふと思った。もうカメラは増やさず、このF2とM3との時間を増やそうと。この夏の僕のささやかな決心である。

フィルムを変えるより、僕が変わったほうが早いや。

初めてFUJI PRO 400Hで撮った。いつもいちばん安いフィルム FUJI業務用100で撮っている僕の初めてのプロ用フィルムだ。いやあ流石だ、とか言いたいところだけど、率直な感想として業務用100で撮った写真とさして変わらないなあと。正確にいうと、見る人が見ればPRO 400Hらしい描写の差異があるのかもしれないけど、撮った僕の心象というか狙い的にはさして変わらないのである。

考えてみると、フィルムを変えたことだけで何かいい写真が撮れるんじゃないかと思ってパシャパシャ撮ってしまったじぶんがいるようにも思う。写真のトーンがどうのこうの言う前に、撮り手の僕がフィルム頼みみたいになってしまったのかも、とかふと思った。写真は簡単に撮れるけど、だからといって簡単に思ったような写真が撮れるわけじゃない。プロ用フィルムを使ってみて、さして変わらないじぶんの写真を見て、そんなことを思った。

気分転換という意味ではフィルムを変えるのはいい方法だけど、僕はまだまだその前にじぶんを変える必要があるなと思った。写真を撮る意識とか技術とか気分とか。もっとそのあたりをあたためていったほうが写真の変化を楽しめるってね。業務用100でまだまだ勉強だ。というか、業務用100でフィルム写真を好きになったから、僕にとってのいい写真とはその延長線上にある気がしている。

YouTubeでみつけた早田カメラさんの「M3をばらす」。

YouTubeで「名機の肖像 -M3篇-」を見ていて、何気なく見つけた動画「M3をばらす」というのがとても興味深くておもしろかった。ばらしを担当したのはおなじみの浅草の早田カメラさん。ライカの精密さも凄いけど、それを知りつくした早田さんの言葉や手さばきも凄い。その、かつての職人と現代の職人との対話みたいなものが、見ていてとてもそそられるんだよね。

僕はカメラの知識はほとんどないし、機械に強いほうでもないけど、こうしてじぶんの所有するカメラのルーツとか内部構造を知ることはやはり興味深い。ライカのM3はたしかに絹のような滑らかな動き、それでいて確かな手ごたえ、それを感じさせない静かな動作音など、どうしたらこんな構造が半世紀以上前に作れたんだ?というのは気になるところ。そういう時空を超えた感激みたいなものが、この動画を見ると静かに込み上げてくる。

“機械はドイツ”とよく言うけど、日本も世界を席巻したMADE IN JAPANの匠の国。カメラがこのドイツと日本で発展し、世界をリードしているのはいかにもな感じがするし、そのうちの日本に暮らし、こうして世界をリードするカメラたちを手軽に手にすることができるのは幸福なことだと思う。それにしてもM3、エレクトロニクスを一切使わずにここまで確かでスムーズなものを作り出したその驚異のオーバークオリティを目の当たりにすると、もう半世紀後もきっと実用で動いている気がするな。100年動き続ける実用的機械製品って、後にも先にも機械式カメラしか存在し得ないんじゃないかな。凄いよね、まったく。

ライカの静かなシャッター音は、古い町の営みにもやさしい。

夏休みの初日、平日なら空いてるだろうと、少し車で駆けぬけて古い町並みを撮りに来た。到着してみると案の定、ほとんど人通りはなく、いかにも僕好みのシチュエーションだ。

前回来た時は、Nikon F2に35mmをつけて町並みを撮り歩いた。サクサク撮れる35mmの画角も気持ちよかったけど、きょうはLeica M3だけ持ってきた。レンズは50mm、少し狭くて撮りづらいかなと思ったけど、なんというか前回より町に目を凝らす感覚があって、50mmはアリだなと思った。というか、機械式カメラでじっくり撮る時は50mmの”じっくり見つめる”感じがいいとも思った。

フィルムは感度400、フィルターなしだったから絞りは常にf16かf22で固定、ピントも無限遠、被写界深度目盛りも試しながら、あっという間の36枚数はだった。それにしても、ライカの静かなシャッター音はスナップにはほんとうにいいなと感じる。ひと気のない静かな町並み、その空気や営みを壊さず、町に配慮するような静かなシャッター音は、ライカの開発者たちの心意気みたいなものを感じる。そこには、町とそこに暮らす人々たちの生活があって、それが主役。それを撮りに来た僕とライカはあくまで脇役。そんなことを感じさせる意思みたいなものが、このカメラにはある。Nikon F2の派手な甲高いシャッター音もスカッとするけど、こうしてライカを使うと、あゝやっぱりライカはたまらないなといつも思う。

ひとまず、心はチューニングできた。午後早くには終業式を終えた息子が帰ってくるから、そろそろ帰路へ。僕の夏はこうして幕を開けた。

Leica M3との撮影はとにかく静かだ。

今にも降りそうなグレーの空と生暖かい空気。数枚撮り終えてベンチで愛機とひと休みする。初めてのフィルムFUJI PRO 400Hの感度は400。いつものフィルム感度100で覚えた露出も頭の中でこんがらがる。光景を見ただけではすぐには露出が思い浮かばず、久しぶりに露出計アプリの世話になる。

それにしてもライカはあいかわらず静かだ。フィルムを巻き上げるレバーの音も、ささやくようなシャッター音も、僕に週末らしい静寂の時を提供してくれる。ライカの魅力とはいろいろあるだろうけど、僕にはこの静かさが最高品質のひとつだ。精密な機械が隙なく組み立てられると、こうもしなやかな動きと静かな駆動音を発するのかと思うと、ハイテクとはデジタルの進化のことだけをいうのではないと思える。

フィルムだけど、そろそろ使い方をアレンジし始めようかなと考えている。フィルムを始めて4ヶ月、これまではずっとフィルムに慣れるためにどのカメラでも業務用100で撮り続けてきた。なかでも平日用のスナップカメラにしているKonica C35との相性はとてもいい(僕のInstagramの街撮りスナップはたいていC35で撮ったもの)。なので、これからもKonica C35には業務用100をつめて、週末のカメラたちのフィルムをアレンジしていこうかなと。主にはLeica M3とNikon F2、この機械式カメラたちで撮る時は、いくつかのフィルムを毎回替えて試し撮りしていこうかなと。いま手元にあるフィルムは、FUJI PRO 400H、Ekrat 100、ILFORD XP2 400、あとFUJIの400とモノクロフィルムらがある。

フィルムカメラのおもしろさは、こうしてフィルムを替えるおもしろさもあるよね。ボディやレンズだけじゃなくて、フィルム、そして現像やプリントの仕方まで実に表現の組み合わせは多彩だ。フィルムファンの人たちはその多彩な奥深さに魅了され、それを突き詰めたり解き明かしていこうとすることが大きなエネルギーになっているように思う。そろそろ雨になりそうだ。36枚撮りのフィルム、ゆっくり味わいながら撮っていこう。

曇り空の朝、ライカにPRO 400Hをつめて。

おはよう。土曜日の朝、今朝はライカにするとなんとなく昨夜から思っていた。数回空シャッターを切ってから底蓋をあけてフィルムをつめる。雨は降っていないけど、どんよりした空を見てフィルムはFUJI PRO 400Hにしようとふと思う。三本ほど買いためておいたものだけど、使用するのは今日が初めてだ。

フィルムをスプールに刺す時に気がついたんだけど、PRO 400Hは手触りが柔らかいね。業務用100よりふにゃっとしている分、少しスプールに差込みづらい。いつもよりゆっくりと丁寧にフィルムの先端をスプールの差し込み口まで押し込んでゆく。何も散歩カメラにPRO 400Hを使う必要もないけど、気分がそうしろというのだからしょうがないというか、素直に従ってみる。

感度400だから、いつもの体内露出はあてにならない。2段ほど絞ればいいのかなと思うけど、最初は露出計アプリを頼りに撮ることとする。さて、太陽が出る前に出かけよう。

デジカメはレンズを替えたけど、フィルムはカメラを替える。

これは僕だけかな、どうかな。以前、デジカメを使ってた時はボディは数台持ってたけど、常用していたのはNikon D750で、週末ごとに替えていたのはレンズだった。ある時は50mm単焦点、ある時は標準ズーム、ある時は望遠ズーム、ある時はマクロ。そうやってレンズを交換することで写真の違いや気分転換を楽しんでた。

それと比べると、フィルムカメラを始めてからは、レンズを替えるんじゃなくて、ボディを替えて楽しんでるじぶんがいる。そういえば、ひとつのボディに基本、レンズはひとつだけ装着したままにしていて、あまり交換用のレンズが欲しいとも思わない。近いうちにNikon F3を迎え入れようとしているんだけど、そうすると僕のボディバリエーションの使い方はたぶんこうなる。

平日の慌ただしい中での街撮りスナップはKonica C35/38mm。週末ゆっくりかまえてダイナミックに撮りたい時はNikon F2/50mm。ゆっくりかまえて、でも静かにしっかりと写真に収めたい時はLeica M3/50mm。しっかり撮りたいんだけど、家族旅行とか俊敏に撮ることもある時はNikon F3/35mm。あと、Runとかロードバイクに乗せてガシガシ使う時はNikon FEシルバーボディ/50mm。望遠ズームを連れ出す時はNikon FEブラックボディ/70-210。すべてのサブ機に、おさえとしてデジタルのRICOH GRだ。

どうだろう、これなら複数台カメラがあっても満遍なくすべてのボディを使ってあげられそうな気がする。まあでも、その時々の気分によってもっと自由度高くボディを持ち替えるんだろうけど、これ以上増やすとカメラケースにお飾りのボディが出てきそうだから、適度に使いまわせるボディ種類と数をイメージし始めているじぶんがいる。でも、レンズを替えるんじゃなくてボディを持ち替えたいという欲求が強いのは、やっぱりフィルムカメラにはボディそれぞれに個性と味があるからだろうね。そういう意味ではデジカメ時代のレンズ沼とは違ってボディ沼であって、いや沼ではなくてボディ愛なんだろうね。