使わないとカメラじゃない。

Leica M3, Elmar 50/3.5

僕がカメラコレクターならそれは悪いことじゃないんだけど、僕は別にカメラを収集するのが好きなんじゃなくて、カメラで撮る行為が好きなんだよね。Leica M-Pを手に入れたのはその究極で、その時にも手持ちのカメラを整理しようと考えたんだけど、まあしばらくはじぶんがどの程度それだけの数のカメラを使い回せるのかちょっと様子を見てみようと思った。そして、一、二カ月。そろそろ使わない(使えていない)カメラが分かってきた。

ちょうど半分かな、ほぼ使えずにいるカメラたちを中古カメラ屋さんに戻そうかなと思ってる。持っていればまったく使わないわけじゃないだろうけど、この出動頻度の少なさだととても「使ってあげることが最高のメンテナンス」というレベルには満たない。どれもまだまだ現役で元気に撮れるカメラたちだから、僕の部屋で眠ってしまうよりは、誰か若い人たちの手にでもわたり、頻繁に外へ連れ出してもらった方が、きっとカメラも長生きができる。飾り物のカメラとしてではなく、撮影機材としてのカメラとしてね。

どれも思い入れのあるカメラたちだから、ここではどれを残してどれを手放すという具体的なカメラ名は伏せておこうと思う。どれも飽きたとか嫌いになったというわけじゃなくて、単に僕が使いまわせなくなったということだけなんで。幸い、僕の過去のカメラたちの思い出は、このブログの中に詰まってる。カメラを眺める、カメラの思い出に浸るという意味においては、ブログをさかのぼれば時空を共有することができる。その名も「記憶カメラ」だからね。

残そうと思っているカメラはデジタルが3台、フィルムが3台と、ちょうど半分半分。いまの僕のカメラとの向き合い具合を象徴してる割合。デジタルとかフィルムとかじぶんの中に垣根が無くなった証でもあるかな。そのどれもを頻繁に使いまわしたい。意外とありそうで無い、じぶんの時間の相棒としては適度なカメラの数だと思う。これまで出会ってきたカメラは、所有したかったものというより、その写りや性能、手応えを確かめておきたかったものたちだから、そういう意味では人生の中で確かめることができて、ほんとよかった。どれひとつ欠けていても、いまの僕にはたどり着けなかったと思うから。GWが明けたら、一つ一つ中古カメラ屋に里帰りさせようかな。そんなことを考える四月の終わりの夜である。

思い出を残す写真は、フィルムで撮りたくなる。

Leica M3, Summilux 50/1.4, Natura1600

今夜は職場の仲間の送別会ということもあり、飲食店内で撮るためにLeica M3に明るいf1.4のSummilux 50 2ndをつけ、フィルムは高感度のNatura1600をチョイスした。この3つの組み合わせは初じゃないかな。正直、店内で露出計アプリをかざしてみないとシャッタースピードが読めない笑。たぶん、絞りは開放、感度1600ならss1/100以上、つまり手ブレしないくらいのssが稼げるんじゃないかと期待してるんだけど、どうだろう。

そんな風に悩むくらいなら、いつもの平日と同じようにデジタルのLeica M-Pを持ち出せば安心なんじゃないかと思われるかもしれないけど、なんというか、送別会みたいなシチュエーションの時はできればフィルムで思い出を残したいと思うんだよね。気持ちが緩んでグダグダになるかもしれない夜の団体の宴席にM3を持ち込むこと自体も不安ではあるんだけど、それをも勝るのが「思い出=フィルム」という思い。自然とそういう選択になるじぶんがいる。

そういえば昨日、息子と二人で束の間の春休みに出かける時も、バルナックライカを持ち出して、たった一枚だけど息子をフィルムで撮った。物理的にはスマホカメラでもいいんだけど、そこはやはりね、カメラをやる父としてはカメラを選ぶし、フィルムを選ぶんだよね。

フィルムのNatura1600もふだんは感度400〜800あたりを想定して撮るんだけど、今夜は手ブレしたくないから1600想定で、少しだけssを早めにして撮ってみようかと思う。これで失敗したら身もふたもないじゃんというのはあるんだけど、まあブレたとしてもそれも含めて思い出ということで。それにしても、M3に始めてズミルックスを装着してみたけど、なかなか精悍でカッコいいな笑。僕のズミルックスはいわゆる第2世代と呼ばれるオールドレンズ だから、フォルムデザイン的にもM3にはよく似合うと思う。フィルムが余ったら夜のストリートも数枚撮って帰ろう。僕の手持ちのレンズの中では、他と明らかに光のすくい取り方が違うズミルックス。M3がどう料理してくれるのかもすごく楽しみである。

フィルムと桜の記憶。Leica M3+Elmar M 50/3.5

Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100

2018年もそろそろ桜が散り始めたけど、フィルムゆえの現像時差ということで、まだまだ僕の桜は終わらない。週末に家のそばで散歩がてら撮り歩いた写真を、2018年のフィルムと桜の記憶ということで、ブログにポストしておく。

Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100
Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100

Elmar M、このレンズはほんとしっかりシャープに辺りを写しながら、どこか優しい。それはデジタルでも感じられたことなんだけど、フィルムで撮るとさらに柔らかくいい表情になる。人柄、みたいなものかな。

Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100

露出も勘なんだけど、それを大らかに受け止めてくれるネガフィルムというのは、ほんと度量があるというか器の大きな人を思わせる。特にこのLomography100というフィルムはなんとも言えない色で日常を描いてくれる。

Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100
Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100
Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100

誰かがTwitterで言ってたけど、桜という花はみんなが飽きる前の絶妙のタイミングで散り始める。いちばん美しい姿だけを強烈に記憶に残すための桜流の演出なのかもしれない。いちばん華やかな時に引退するシンガーやスポーツ選手のような散り方というかね。

Leica M3, Elmar M 50/3.5, Lomography100

色が乏しかった冬の大地に鮮やかなさし色をサッと描く春の桜たち。ズルい美しさだよなあなどと考えながら、心の中で「また来年!」とさよならを告げる。撮っても撮っても飽きない桜という花。この光景を見ると幼い頃に見た光景をいろいろ思い出す。

そしていつもエルマーに帰りたくなる。もうひとつのElmar 50/3.5を迎えて。

Leica Elmar 50/3.5 M-mount

この三日間は雨の中の出張だったこともあり、ひたすら持参したFujifilm X-E2とJupiter-8とでスナップを撮る日々だった。明るめのレンズで撮り続けて発散した後にやってくるのが「無性にエルマーで撮りたい」という思いである。

ズミルックス、プラナー、ロッコール、ジュピター、どれもそれぞれの持ち味があって僕のスナップ心をくすぐってくれるんだけど、それらとは少し異なる場所にいるのがエルマーかもしれない。絞りf3.5という開放値はいたずらにボケで遊ぶことを無くしてくれる。開放値付近のボケ味が好きな僕にしては、なんだか美味しいところを封印されたようなところなんだけど、不思議とエルマーで撮る時はそんなことを微塵も感じない。自然とエルマー流に撮り始めるじぶんがいるのである。決して大袈裟ではなく、そこにはエルマーだけの世界があるんだ。

そんなエルマーに魅せられて、僕の手元にもうひとつのエルマーがやってきた。Mマウント最初期のエルマー Elmar 50/3.5。その後に登場したf2.8よりも内面反射防止を施したといわれるモデル。バルナックライカIIIaと共に手に入れた赤エルマー50/3.5で撮るうちに、そのエルマーならではの世界に僕は魅了され、Mマウントのエルマーもずっと気になる存在だった。願えば叶うというものだろうか、東京でこのスクリューマウントのエルマーと同じ開放値のElmar M 50/3.5と巡り会うことができた。

Elmar M 50/3.5, Leica M3

家に持ち帰って、まずM3に装着してみる。いやあ、シビれた。スクリューマウントのエルマーをアダプターを介してつけた時もシビれたけど、やはりM3登場時に作られたMマウントのエルマーはそれを凌駕する、これぞMの美学というような美しさを放つ。フードITOOYもそれに拍車をかける。撮りたくなってきた、たまらなく。

Elmar M 50/3.5, Leica M-P

そして、M型デジタルのM-Pにも装着してみた。ブラックペイントのM-Pのボディとブラックの先端を持つフードITOOYに挟まれて妖しい光を放つエルマーの姿がなんとも言えず美しい、いやセクシーな感じさえする。ライカというブランドは、こういうプロダクトととしての美しさにもまったく手を抜かない。それも時代を超越して完璧なまでにフィットさせてくる。

絞り値/焦点距離ともに同じ50/f3.5のふたつのエルマーだけど、やはりM型ライカにはMマウントエルマーが映える。そろそろエルマーで撮りたいという気持ちに、このもうひとつのエルマーがさらに火をつける。まずはデジタルのM-Pで試し撮りをしたみたい。そして、週末には満を持してフィルムライカM3で。ただただ無邪気に心が弾む。エルマーとはやっぱり別格なんだ。どんなに他のレンズで撮りまくろうとも、やがてエルマーに帰ってくる。“エルマーに始まり、エルマーに終わる”というあの言葉はダテじゃないんだ。

LMリングで、エルマーをM3とM-Pに装着してみた。ヤバかった。

Elmar 50/3.5, Leica LM Ring

LMリングが届いた夜、ひとまず自室でスクリューマウントのエルマーと並べてその造形美に惚れ惚れする。単なる道具を超えた何かが、このライカ社の製品たちにはある。ここまで一般的プロダクトに機能美を造り込むのはライカ社とアップル社ぐらいではないだろうか。で、パーツとして眺めるだけでは当然おさまらず、M3に装着してみることにした。

Leica M3, Elmar 50/3.5

ヤバかった…なんだ、このとんでもなく美しいフォルムは。ごめん、語彙が乏しいけど、もう軽い衝撃を受けていて、あまり適切な言葉が出てこない。クールすぎる。この造形美は何にも似ていない、M3とスクリューマウントのElmarならではの美としか言いようがないんじゃないだろうか。バルナックとElmarの原点としての美しさとはまたひと味違った主張がこの組み合わせにはある。僕が脳内でイメージトレーニングしていた姿より遥かに美しい。いや、まいったよ、まったく。まだ一枚も撮っていないけど、このプロダクトとしての素晴らしさだけでも存在する価値がある。そう思わずにはいられなかった。だったらと、M-Pにも装着してみようと思った。

Leica M-P, Elmar 50/3.5

もう、何なんだ、僕を窒息させる気か。素晴らしすぎるじゃないか、エルマー。ブラックペイントのモダンなM-Pにはさすがに多少ミスマッチになるかなと想像していたんだけど、そんな僕の浅はかな想像を打ち破るように、M-Pとエルマーは時空を超えて“これぞライカ!”と言わんばかりに堂々とした姿を見せつけてきた。その威風堂々とした風貌は、D IIIのブラックペイントにニッケルエルマーを装着したあの姿に見えなくもない。まさに、ライカそのものだった。いやあ、ほんとごめん。もう陳腐な言葉しか出てこないや。すごいよ、ライカ。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5

ライカは「エルマーに始まり、エルマーに終わる」と言われるけど、それは優れたその写りだけを言うのではなく、プロダクトとしてもライカユーザーたちにそう言わしめるチカラがこのレンズにはある。そして、バルナックライカからM3などフィルムライカ、そして現代のデジタルライカまでどのボディを選ぼうとも、エルマーはこれでもかというくらい平然と機能美、造形美を放ってくる。計算された美しさなのか、それともあまりに込められた思いが強くて、もはや何かを超越した美しさなのか。ともかく、これは只者ではない気配。撮りたくなった、無性に。作例はまた後日に。今夜は興奮して眠れなさそうだ。

カメラにとって存在感の希薄さは最大のメリットになる。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

カメラとは不思議な道具で、所有者にしてみれば思い入れはとても強く、そのデザインやヒストリーに並々ならぬ想いを馳せる。でも、撮られるヒトやシーンにとってみれば、むしろその存在は希薄であればあるほどいい。家族を撮るにしても、街中でスナップを撮るにしても、ポートレートを撮る時もそうなのかな。カメラなんて相手に気づかれないほど存在を無かったことにするくらいのほうがいい。そこには所有者と撮られるシーンの間に驚くほどのギャップが存在する。そこがまたおもしろかったりするんだけどね。

僕がスナップで使うカメラはレンジファインダー。撮られるヒトからすれば、いわゆる報道カメラのようなゴツい一眼レフじゃなくて、どうかしたらコンデジみたいなものだから、一瞬目を向けられてもいい感じで無視してもらえる存在感の希薄さがある。撮ってる僕にしてみれば、ファインダーの中にちらりと見えるまぶしい光景にハッとしたり、その操作性の精密さに心の中で唸ってたりするんだけど、そんなことは相手にしてみれば知ったこっちゃない。その知らない、興味もない関係性が街の素顔を切り取るにはとても都合がいいんだ。

カメラも僕もまるでこの世に存在していないように、街の雑踏の中に紛れ込み、溶け込んで、もっと言えば透明人間であるくらいの消え方がいい。決してこっそり撮るわけじゃなくて、こちらも撮るヒトたちの存在が希薄になるように街の空気をつかむことに神経をそそぐ。存在感の希薄さはお互い様のような関係性。そういうところがスナップのおもしろさなんだろうなと最近感じるようになった。

明日からしばらくまた出張に出る。もちろんカメラも一緒だ。これまでならGRとKonica C35の出番だけど、今夜はLeica IIIaにILFORD XP2 400をフィルムカットして詰めている。バルナックでモノクロ、初めての体験だ。いつもC35とカラーネガで撮り慣れた街が、どんな風に姿を変えるのか。そして、バルナックに少し慣れてきた僕はフィルムコンパクトのように存在を消せるのか。そんなことを考えながらそろそろ眠りにつこうとしている。カメラのこと、写真のことを考えるのは、実に人間くさいプロセスだ。だから終わりがないし、答えもない。ただ撮ることでしか気づけない。だから、おもしろい、無限にね。

レンジファインダーが僕の写真観を変えてくれたことは間違いない。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

この場合、レンジファインダーとはLeica M3とLeica IIIaのことであり、写真観とはスナップシューティング観ということである。変化の大きなきっかけになったのは、バルナックライカIIIaと沈胴式Elmar50/3.5を手に入れたことだと思う。そのあまりにも薄くコンパクトなボディに軽く衝撃を受け、平日の仕事鞄の中の相棒がKonica C35からIIIaへと変わった。

IIIaを日々持ち出して街の雑踏の中のスナップを撮り始めると、そのミラーショックのないレンジファインダーなら息を止めさえすれば夕刻や夜間のネオンライトでもシャッターが切れることを知る。そして、50mmという難しい焦点距離が僕の足を前後にもう数歩だけ前後させる。そして、その感覚をもう一台のレンジファインダーでも確かめたくて、Leica M3も平日の街スナップに連れ出すようになった。つまり、一週間の7日間のうち実に5日間もレンジファインダーと過ごすようになったんだ。これだけ時間の過ごし方が変われば、スナップのある日常の写真観も変わって当然だった。

思えばカメラを始めた当初はデジイチで週末に自然を撮ることが楽しみだった。そこにRICOH GRが加わり、スナップというものを撮ることの楽しみを覚えた。フィルムカメラを始めた時も一眼レフだったから、週末は一眼レフで撮ることが多く、所有カメラの割合も一眼レフが多かった。レンジファインダーはその合間に撮るような割合でしか無かった。それが、ほぼレンジファインダーとの時間へと変わったのである。じぶんの中に少し、いや割と鮮明に、これからの残りの人生におけるカメラとスナップとの向き合い方が見えてきた気がした。

ライカというカメラはとかく高価さやブランド感、使い倒すカメラというより骨董品のように飾り眺めるカメラと見られがちかもしれないけど、僕の中ではライカこそ日々外へ持ち出して何気ない街の光景を撮り倒すカメラだと知った。僕にはそう思えた、それもかなり強烈に。このじぶんが受けた本能的で官能的な感覚を頼りに、もう少しこの道を掘っていきたい、いや人生の残り時間はそこを可能なかぎり掘り探る時間に当てたい、そう思えるようになった。たかがスナップだけど、人生はそのスナップの縮図であり、されどスナップだ。ライカとスナップ、羅針盤がそこにはあった。

僕の写真にテーマはない。強いてあげれば「片隅の記憶」。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

InstagramやTwitterで他の人の写真なんか見てると、ほんとみんな上手いなあと思うし、ちょっとゾクっとする写真を撮る人たちは何かしらテーマみたいなものの存在を感じる。それからすると、僕の写真は控えめに言っても失敗写真が混ざり合ってまさに雑多、テーマらしいテーマも実際無い。でも、ちょっと考えてみた。探せばなんかあるんじゃないかと。テーマらしきものが。で、ふと思ったのが

「片隅の記憶」

まあ記憶の片隅にあるもの、でもいいんだけど、要は記憶のメインのものではない写真たち、ということ。考えてみると、僕が写真を撮っている時というのは、ふと空いた時間なんだ。空いていない時間、つまり記憶のメインになるような瞬間はその場の空気を楽しんでるから、カメラなんて構えていない。カメラを構えるのは、メインではない時間なんだ。だから、じぶんの写真のことを強いてあげれば「ほんの片隅の記憶」ということになるなと。

でも、それはメインじゃないから寂しい話かというと、そういうわけでもなくて、放っておいたら数日後にはすっかり忘れて消えてなくなりそうな記憶の片隅の事象を、こうやってスナップにおさめておけば、後から写真を見た時に記憶として思い返すことはできる。その時の天気とか気温、音や風、フレームの外の光景なんかをじんわりと思い返すことができる。それは凄くはないけど、意外と素晴らしいことなんじゃないかと思ってる。

まあ強いてあげればという話であって、実際はシャッターを切るのが好きだからもっと無意識にスナップしてるんだけどね。でも、じぶんを客観視した時にそういう気分みたいなものはどこかあるな、という話。最近、Leica IIIaを手に入れてから、夜の街もフィルムでスナップするようになった。夜の街なんてフィルムの感度で撮れるはずがないという先入観があって、これまではほとんど夜間はコンデジのRICOH GRで主にモノクロで撮ったきたんだけど、カラーネガフィルムで撮る街は僕の想像を超えて美しかったし、人間っぽかった。

息を止めさえすれば、ミラーショックのないレンジファインダーなら夜もシャッターが切れる。このことが週末用になっていたLeica M3までも平日のスナップ用カメラとして持ち出すに至った。夜のカラー写真が増えてますます雑多でノンテーマ感が増してるようにも思うけど、これが僕のその時々の片隅の記憶だから、そこは少々ボケていようが、構図が不安定であろうが、どんどんブログやSNSにポストしていこうと考えている。IIIaとM3を持って街の中へ埋もれ、それこそ街の片隅でじぶんの片隅の記憶を撮る。その先に何かあるわけでもなんでもないけど、僕のリズムとしては今、とても気持ちがいいんだ。

Leica M3を惚れ直した夜。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

ここ二週間ほどは手に入れたばかりのバルナックライカIIIaの試し撮りに集中していたんだけど、そうするとレンジファインダーで街撮りする魅力を再認識して、だったらLeica M3も連れ出したいと無性に思うようになった。で、金曜日の夜、仕事鞄の中に忍ばせていたM3を取り出して、夜の街を徘徊してみた。結論から言うと、めちゃくちゃ気持ちよかった。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

何が気持ちいいって、世界がまぶしいんだ、素晴らしく。バルナックとM3の最大の違いはファインダー。ふたつ窓がひとつになり、大きく、明るく、クリアになったファインダー越しの世界は、ほんとキラキラと輝いてた。この世界を見たら、どんなカメラも霞んでしまう、そんな至宝のファインダーがM3の最大のポイントだ。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

M3のファインダーはほぼ等倍の大きさで実像をとらえる。なので、両目を開けてファインダーをのぞくことができ、そのガラスの中に美しい50mmブライトフレームと二重像が折り重なった景色がまさに浮かび上がる。夜のネオンに照らされた街でこのファインダーの中の世界を見てしまうと、もうなんと言うか映画の世界の中にでもいるような気分になる。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

この世界を知ってしまうと、もうM3からは離れられない。いくつかのカメラを所有したとしても、必ずかのカメラに舞い戻ってくる。そんなカメラレパートリーの中の要のような存在なんだ。にゅるりと絶妙な感触のダブルストロークを巻き上げ、雑踏のガヤに打ち消されてほぼ無音のシャッター音は、まさに夜の街に潜むハンターのような気分を堪能させてくれる。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

こんな素晴らしいカメラが1954年に世に生まれたとはにわかに信じがたいけど、だからこそM3は今もライカのカメラの王様とも言わんばかりに君臨するのである。フォルムを含めたコンパクトさやチャーミングさでいえばバルナックライカの存在感が際立つけど、カメラと写真の精密性でいえばM3がその何倍も上を行く。まさに本質を追求する玄人好みのカメラと言えるだろう。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

この至宝のM3とファインダーが使えるかぎり、僕はデジタルライカには行かないだろうな。そんなことを再確認する夜にもなった。世の中には時を重ねて圧倒的に性能が高くなっていく進化ばかりではない。このM型ライカのように、最初に登場したM3を超えられずにいる進化というのもある、そんなことを証明するかのように今も輝き続ける生きた伝説、それがLeica M3という唯一無二のカメラなんだ。

バルナックの対比としてのライカM3。

Leica M3, Planar T*2/50

バルナックライカIIIaの試し撮りもフィルム4〜5本になった。そうして連日バルナックばかり使っていると、ある衝動が沸き起こることもちょっと分かってきた。それは、M3も使いたくなるということだ。もちろん、バルナックがなくてもM3で写真を撮っていたわけなんだけど、その時のM3をチョイスする気持ちとは少し異なる。単にM3が使いたいというよりは「バルナックの対比としてのM3」を確かめたくなるんだ。

バルナックを使い始めると、いくつかM3との違いに気づく。まず、フィルムカットの有無、スプールのフィルム差し込みの深さ、シャッタースピードダイヤルの感触、シャッター巻き上げからシャッターを切るまでの所作、シャッター音の違い、そのショックの違い、そして二つの窓と一つの窓の違い、フィルムを巻き上げる時にかかるストレスの違いetc. 実にいろんなところが似ているようで異なる。バルナックを使っていると、そうした違いが脳裏や手に蘇り、思わずM3に持ち替えたくなるんだ。

それは進化の差なのか、それとも製品コンセプトの差なのか、製造技術の差なのか、時代のトレンドの差なのか、そういうことをバルナックとM3の対比として確かめたくなるんだよね。あと、単純にバルナックを使い続けてると、その後継であるM3がとんでもなく進化して登場したであろうことが如実に分かる。バルナックが良くも悪くも懐古的機械の挙動を見せるとするならば、M3はいくつか時代を飛び越えたんじゃないかというくらい、精密で、静かで、滑らかで、まるで現代のカメラのようにまったく破綻のない挙動を示す。こんな完璧な機械が1954年には誕生していたと思うと、ドイツの、ライカの機械工学の高度さを嫌というほど感じずにはいられないのである。

バルナック時代には日本のカメラメーカーからもコピー的製品がいくつも生まれていたが、このM3が登場した瞬間に白旗をあげ、違う土俵である一眼レフで勝負に出たというのも頷ける話だなと思える。その当のライカでさえ、M3を超えるクオリティの製品をその後は出せていないとも言われるくらいだから、それはもうカメラ好きじゃなくても手に持った瞬間に分かる超オーバークオリティの凄みなんだろうね。以前にも書いたけど、僕はお店でたまたまM3をさわってしまい、ファインダーをのぞきダブルストロークを巻き上げた後、シャッターをそっと切った瞬間、それまで味わったことのない本能的な衝撃を受け、思わず連れて帰ってしまった人間だ。

小型で洒落たフォルムを持つバルナックの佇まいと比べると、少し大きくなり無機質なデザインとなったM3は、質実剛健で一見面白みに欠けるように見えるかもしれないけど、これはこれで僕にはとてもクールだ。バルナックに入っているフィルムを現像に出したら、今度はM3にフィルムを入れて、仕事用の鞄に入れて連れ出したいなと思っている。今度はたぶん、M3で撮りながらバルナックのことが頭によぎるんだろうけどね。この二台はどちらかではなく、セットなのかもしれない。