つまるところ、レンズの性能より僕の性能がどうかってことなんだろうな。

Leica M-P, Planar T*2/50

出張に出かける合間を見て、少しだけレンズを見てた。Leica M-PにはM3につけていたPlanar T*2/50ZMをひとまず装着して撮ってるんだけど、そろそろM-Pの癖みたいなものも見えてきて、もう少し現代的じゃないオールドレンズで撮ってみたいと思い始めたので。

でも一方で、レンズが撮ってるわけじゃなくて僕が撮っている、みたいに思うところもあって、このままPlanarで撮り続けてみると僕のスナップにどういう変化が起こるんだろうという興味もあったりする。なにせ、僕の写真はあまりに自己流すぎる。写真の知識もカメラやレンズの知識もない、ただひたすら感覚で撮ってる。撮った写真を眺めてはPDCAしてる感覚だから、そんな僕がレンズのことをあれこれ言う以前に、僕の性能を上げるほうが先なんじゃないかと。いや、先とかいうより、それこそが写真のすべてかもしれないし。

きょうはそんな僕の現状に、お二人の方からアドバイスのようなものもいただいた。そう、まわりの人にはすぐ分かることも、じぶんはまだまだ何にもわかっていない。わかっていないことはネガティブではないけど、ポジティブでもない。まだゼロ地点にいるじぶん。どこへ向かおうとしてるのか、そんなことを考える木曜日の夜である。

カメラがあれば、目の前の光景が少しだけシーンになる。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

日常は実はそれほど平凡ではないけど、だからといってそれほど劇的なことばかりでもない。いつもの道、いつもの人、いつもの看板。仕事で通り慣れたルートとかならなおさらだ。でも、カメラがあれば少し様子が違ってくる。いつもの道にも、その季節、その時刻、その時偶然に通りかかる人や車、そして微妙に変化する光と影。ファインダー越しに息を止めて切り取る風景は、意外といつもの道にも新鮮な表情があることを教えてくれる。スナップはそこがいい。何も絶景ポイントまで遠出する必要はないし、インスタ映えするようなフォトジェニックな場所に無理して出陣する必要もない。ただ目の前のいつもの光景を、少しだけ視線をずらしたり足を止めて写真に収めるだけだ。もちろんいい写真があがれば言うことないけど、いい写真かどうかは誰かに判断してもらうことじゃない。判断してもらってもいいけど、判断してほしい写真と、思わずシャッターを切るスナップの気持ちよさはイコールじゃない。スナップはそういう写真本来のよろこびみたいなものをあらためて考えさせてくれる。写真とは論理的じゃないものの塊のようなところがある。僕はそういうふわっとした写真の有り様のようなものが好きだ。そして、そこへ見る人のイマジネーションがのっかって画像は写真になると思っている。考えすぎるくらいなら、一枚でも多く撮りに出かける。スナップはいつもの光景を少しだけ、いつもと違う光景に現像してくれる装置なんだ。

電池の持ちが素晴らしいのも、スナップシューターとしての証。Leica M-P typ240

Leica M-P typ240

ライカというカメラはある意味不思議なカメラで、単純に高価=高機能/多機能ではない。手ぶれ補正はついていないし、シャッタースピードも1/4000まで、画素数も2400でフルサイズとしては驚く数値ではない。メニューボタンを開いても間違いなく最新のデジイチなんかと比べると簡素だ。たしかに「のれん代」としての価格というのも一理あると思うけど、本質はそういうところではないと思った。なんというか、カメラで写真を撮るということの本質的価値のところだけに異常にこだわったカメラというか、肝心なところでまったく手を抜いていない生真面目さを感じる。

例えば、この電池。写真の底蓋を開けた左端の四角い一角が電池なんだけど、Nikonの一眼レフなんかと比べるとかなりでかい。この電池の持ちが異様にいいということにこの数日間の試し撮りで気がついた。初日は訳もわからずライブビューをオンにしたまま撮ってたんだけど、それでも一日で電池がなくなることはなかった。僕は基本はライブビューはいらないんでオフにして撮ったら、一日目を撮り終えてもまだ70%ほど電池が残ってた。この計算でいけば3日間は充電なしで撮り続けられる。いや、電池が大きく重くなるくらいなら、他のカメラでも毎日充電すればいいだけじゃないか、とも言われそうだけど、ことスナップシューターということでいえば、電池の持ちは何より重要な要素になる。

スナップシューター用のカメラは、例えば僕の場合だとほぼ毎日持ち出すものだから、カメラケースに収まっている時間より仕事鞄に入りっぱなしのことのほうが多い。毎日取り出しては充電するのはなかなか面倒だろう。あと街中でスナップする時はデジタルならある程度まとまった量を撮る。電池の残量を気にしながら撮るのは何よりストレスだ。そして街中でスナップする時には電源スイッチをオンにしたままシャッターチャンスを狙い続けることも日常茶飯事だ。スナップシューターという資質を考えた時、電池の持ちがいいというのは何より重要な最高性能になる。ライカはこういうところに手を抜かないんだなと思った。

デジイチだと必ず予備の電池を買って交互に充電しては、常に予備電池を持ち歩いていたけど、M-Pではそれが必要なくなった。これは実は相当ありがたかった。僕はNikonとLeicaのカメラのことしか分からないから、他にも電池の持ちがいいデジカメは存在するかもしれないけど、あの比較的コンパクトなボディとのバランスにおいてこれだけ電池の持ちを重視したカメラは他に無いんじゃないかと思うけどどうだろう。デジタルのライカ、もっと使いこなしていくと、さりげなくもっと深い頼もしさがいろいろ発見できるんじゃないかと思えてきた。

デジカメもモニター見るのやめたら、軽快だった。

Leica M-P typ240

少し前のポストに「撮った直後にモニターを見ない、フィルムカメラの潔さ」みたいなことを書いたけど、その後、僕は街中のスナップをデジカメで撮る時もモニターを見るのをやめてみた。その感想を言うと、想像した以上に撮影がリズミカルで軽快になった。

どうせ街中でスナップを撮る分にはモニターはおろかファインダーもじっくり眺めてる余裕はない。だったらいっそ見なくても大して影響はないんじゃないかと思ったんだ。フィルムカメラをやってるとモニターを見るという行為はもちろんない。でも、だからといってストレスはないし、むしろ次の行動にすぐ移せて、そのテンポはとても心地いい。あのリズムとか気分をデジカメでも味わいたかったんだな、僕は。

最近使い始めたLeica M-Pは、僕がフィルムのような感覚でスナップを撮りたくて迎え入れた一台。Nikon Dfもそうだけど、そもそもデジカメとして欲しかった道具じゃなくて、フィルムライクに撮れるデジタルとして選んだカメラだから、撮った直後にモニターを見ないことは、僕にとっては極々普通のことだった。もちろん、撮った直後にモニターを確認しながら撮るほうが精度は上がるかもしれないけど、僕が写真に求めてるのは精度ではなく、もっと感覚的なもの。だから、すんなりモニター確認をカットできた。

それによって撮れる写真がよくなったかどうかは正直分からない。でも、少なくともスナップ撮影のリズムはすこぶるよくなった。最初からモニターのない孤高のデジカメLeica M-Dの潔さにはさすがに及ばないけど、失敗カットをその都度モニターで確認して撮りたい時は、ただモニターを見ればいい、それだけ。モニターがついているカメラでも、見なきゃいいと思えばすぐにできることだよね。

僕は面倒くさがりなのでレタッチは一切しない。その上モニターを見なければ、まあ失敗写真をそれなりに量産してしまうわけだけど、それよりもスナップ撮影している時のあの独特のテンポを優先するとするならば、モニターを確認しないことはさして大勢に影響のないこと。フィルムに比べれば、ラボに現像に出さなくてもMacBookなつなぎさえすれば瞬時に現像できちゃうようなものだから、そこで写真を確認すれば十分。というか、そこで初めて確認する写真は、現像あがりのあの独特のワクワク感に通じるものもあって、その感覚もなかなか楽しいもんだと僕は思った。

まあこれはあくまで僕が好む撮影リズムの話だから、特に強くおすすめする話でもないし、やってみたらなかなか新鮮だったよ、という一人のアマチュア写真愛好家の参考までの話です。というわけで、日に日にスナップの撮り方にじぶん流の作法みたいなものが芽生えてきた。カメラや写真は10人いれば10通りの撮り方があって当たり前。密かにじぶんらしい撮り方を模索しているところである。

第二次ライカ恋愛期。

Leica M-P typ240

正直いまライカにゾッコンである。平日のスナップも、週末の散歩カメラもほぼライカ一色。これほどまでにライカに心奪われるとは、ライカを選んだじぶんですら想像できなかった。

僕にとってライカは初めてではない。もともとフィルム機としてLeica M3は所有していた。買う気もなかった時、たまたまお店で実機にふれて、その恐ろしいまでの精密さに一目惚れして手に入れた。その後、いろんなカメラを購入するも、常にその中心にはM3がいた。浮気をしても必ず戻ってくる場所。いわゆる別格の存在である。これがつまり第一次ライカ恋愛期だ。

以来、M3を超えるライカは想像できず、特にライカを買い足す気持ちは無かったんだけど、ある日バルナックライカを手にしたことから自体は一変する。バルナックIIIaがたちまち日々のスナップ用カメラに躍り出るのである。小型軽量、控えめなシャッター音、ライカ機が生粋のスナップシューターであることをあらためて認識することになる。それも、かなり強烈なレベルで。

IIIaを街に持ち出すと同時に、フィルムで夜の街を撮ることも覚えた。そして四六時中ライカと過ごすイメージは増幅し、M3を街に連れ出す行為へと熱は飛び火する。二台のフィルムライカを取っ替え引っ替えスナップに連れ出す日々。それだけレンジファインダーと濃密に時間を過ごすと、レンジファインダーで撮るスナップの軽快さに頭と体が濃密に適応していく。そして、本当の意味でレンジファインダー機の魅力に気づくじぶんがいた。

バルナックIIIaを購入してからそれほど日数は経っていなかったが、そこから次の行動に出るのに時間はかからなかった。M型デジタル機のLeica M-P typ240ブラックペイントを迎え入れることになる。そして、直感で手にしたM-Pとの出会いだったけど、それがじぶんの想像すら超えて、じぶんのスナップライフにドンピシャでフィットすることに、また軽い衝撃を覚えた。この行動、何かに似てるなと思ったんだけど、間違いなくこれは恋愛の時の行動だ。これが再び到来した第二次ライカ恋愛期というわけである。

Leica M3, Leica IIIa

バルナックIIIa、M型の原点M3、そしてその延長線上でデジタル的に躾けられたM-P。この3台のライカがあればもはやカメラボディは十分なんじゃないかと思えてくる。軽快に持ち歩くならIIIa、フィルムでも精密に撮りたい時はM3、そしてフィルムではないシチュエーションの時にはデジタルのM-P。僕のすべての日常は、この3台のライカたちが役割や質感を変えながらカバーしてくれる。そんな実感をとても濃いレベルでいま体験している。

この3台のライカだって、それぞれをしっかり使い込むのはなかなか至難の技だ。毎日カメラを入れ替えたとしても、一週間のうちにそれぞれ二回、多くても三回しかスナップに連れ出すことはできない。決して多くない数字だ。僕の残りの人生を考えても、3台のライカと深く向き合うには時間が少なすぎる。少し決心が固まってきた。手元にはこの3台のライカだけを残して、その他のカメラは手放そうと思う。僕にとってカメラは撮るものであって、部屋に飾りコレクションするものではない。いつのまにか多くのカメラがそうならないために、次の使い手の人たちへバトンタッチしていけたらそれが何よりだと思う。

第三次ライカ恋愛期があるのか、それとも異なる恋愛が今後待っているか、それは分からない。でも、恋愛というものはそもそも今しか見えないもの。いま、この時点の熱みたいなものに身を委ねて、流されてみたいと思う。それほどまでにライカたちは僕の心と日常の多くを占めていった。いくつものカメラを経てたどり着いたものなのか、それとももっと早く出会っていたら同じく恋に落ちていたのか、それは誰にも分からないけど、それってまさに恋愛そのものだなと。他のものを手放し、潔く恋する感じ、僕は悪くない気がしている。

雨だから、少しLeica M-Pのことについて。

Leica M-P typ240 & Leica IIIa

雨の日曜日、愛犬との散歩をすませて、少しボーっとしている。忙しかった先週の仕事と昨夜の1kmスイムの疲れがまだ少し残っていて少し気だるいのかな。こんな時はブログを書くのにかぎる。文章を書くことは意外と癒しになるから。

Leica M-P typ240

きのう少しM-Pブラックペイントのことについて書いたけど、その加筆ということで。M-Pの「P」はプロフェッショナル仕様を意味するんだけど、外見上のMとの違いは前面上部に赤丸のLeicaロゴがないこと。その代わりにブラックのネジが見えると思うけど、僕はまずこの控えめな佇まいに惹かれた。ストリートで目立たないからね。

Leica M-P typ240

その赤丸ロゴがない代わりに、M-Pには上面にフィルムライカたちと同じような筆記体の刻印ロゴが刻まれている。バルナックライカやM3と同じ意匠に僕はどこかホッとする。WETZLARの文字を懐かしく思う人も多いだろう。Leica Mだとシルバークロームであるホットシューやその他パーツもM-Pはブラックにペイントされている。徹底して装飾を排除している感じが、ストリートスナップには向いている。

Leica M-P typ240

あと機能的なことでいえば、Mに比べてバッファが2倍に高められているので、連写性能があがっている。といっても連写するカメラでもないのだけど、実際スナップで使ってみるとたしかに起動やシャッターを切るまでの動作が多少俊敏な気がする。とはいえ、それ以外は今時の最新テクノロジーのカメラと比べると驚くほどシンプルだ。

Leica M-P typ240

SSは1/4000までだし、ISO感度も6400まで。その他は僕の感覚的にいえば、M3で写真を撮ることと何ら変わりはない。絞り優先モードこそあるけど、基本は感度を決め、絞りを決め、SSを決めて、ピントを合わせ、シャッターを切る。そのフィルムライカと変わらない撮影プロセスに必要なもの以外は用意されていないシンプルさといえばいいだろうか。僕なんかはそこにとても安心する。

Leica M-P typ240

あとは背面のモニターがサファイヤガラスに強化されてるんで、僕は傷ガード用フィルムも貼っていない。それはクリアなモニターが見れるのと貼り替えの面倒さもなく、意外とありがたいなと思う。そして、デジタルだけどかつてのフィルムライカと同様に底蓋が開く仕様が継承されていて、そこに充電池やSDカードが収まる。この底蓋を開ける行為もフィルムライカユーザーには趣きがありどこかホッとする。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

と、いろいろ加筆してはみたものの、僕にとって大事なのは機能的なことではなくて、フィルムライカと同じような所作で、同じような質感の写真が撮れること。あくまで個人的な感覚だけど、僕はそこが想像した通りだったので、それが何よりうれしい。ライカという企業は21世紀になってもそこを捨てなかった、バルナック博士が目指したスナップシューターとしての本質的な良さを忘れない精神に敬意を表したい。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

撮れる写真については、これはもうごめん、完全に僕の、僕がいいと思うスナップ写真の世界の話だから、ほんとささやかな参考程度にしてもらえたらなと思う。僕は写真、好きだけど、上手くないので。そういえば、M-Pを手に入れようか迷ってる時に革ケース製作でおなじみの昨日カメラさんに少し相談したんだけど、その時に昨日カメラさんが言ってたのが「Leica M-Pは使っていると、もっとフィルムライカが好きになるカメラ」ということ。5日間ほど試し撮りをしてみて、それ分かるなあといま実感してる。

そうか、最近は街を撮ってるというより、人々を撮ってる感覚があるかも。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

人を撮ると言ってもポートレートを撮る度胸はないので、街行く人々を切り取るという感覚。これはじぶんでも自覚があるんだけど、これまでRICOH GRやKonica C35で街を撮る時は極力人が写り込まないものを撮ってきた。だからスナップだけど風景写真。でも、最近は街も撮るわけだけど、どちらかというとそこに生きる人々の影を撮る、そんなイメージのほうが近いかもしれない。変化をもたらしたものがあるとするなら、Leica IIIaを街撮りスナップに持ち出し始めたこと。その軽快で街にほどよく埋もれることのできる生粋のスナップシューターは、僕のスナップに「街の風景よりも、街に流れる空気」を撮ることを意識させてくれたかもしれない。街はもちろん無人の時間帯や場所もあるけど、大抵はそこに暮らしたり働いたりしている人々が存在している。その人々までが写り込んで街を形成してるなら、それも撮りたいなと、そう思った。最近の写真を見比べてみると街のスナップはほぼすべて人々が写り込んでいる。どこの誰を撮ることが目的ではまったくないから、あくまで気配が写り込む感じ。このバランスが今の僕には心地いい。これをスナップと言うのかどうかも分からないけど、これがね、僕のスナップ、うん。

そして、50mmのスナップに魅せられてゆく。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

いま僕は焦点距離50mmでしか撮っていない。Leica IIIaもM3も、そしてこの写真のM-Pもすべて50mmのレンズだ。ついでに言うと、その他のカメラたちもすべてそう。Nikon F2、F6、FEもつけっぱなしのレンズはすべて50mmだ。これだけ50mmに固執し、50mmで撮り続けていると、さすがに少しだけ50mmの奥深さみたいなものが分かってくる。いや、分かってはいないけど、感じ始めてくる。

50mmは標準レンズとも言われるけど、それは初心者向けの焦点距離ということではなくて、50mmが基本ということ。ここから始まり、広角や中望遠、マクロや超望遠と世界が広がっていくけど、やがてまたここに帰ってくる、そういうレンズの核であり縮図のようなレンズが50mmのレンズなんじゃないかと思う。僕が感じ始めてるのは、この50mmの揺らぎのおもしろさ。引いて撮れば広角的になるし、寄って撮れば中望遠的になる。ほどよい距離で撮ればちょっと油断すると平凡すぎる写真しか撮れない。もう何というか、そのつかみどころのない揺らぎ感は、生身の人間と向き合っているようなところがある。

僕はこれまでスナップといえば多くは28mmのRICOH GRと38mmのKonica C35で撮ってきた。つまり広角寄りのレンズでスパンスパン撮ってきたわけだけど、これがLeica IIIaと50mmのElmarに持ち替えたあたりがら、50mmのむずかしさとおもしろさに翻弄されていくことになる。50mmの素の顔はどれだ?、50mmは広角になり得ないのか?、50mmで寄りのような視線は作れるのか?、まさにいろんなことが撮るたびに次の好奇心を増幅させる。その未知なる50mmの深さや広さを想像すると、もうこの先焦点距離は50mmだけでいい、いや50mmに集中しまくってもきっと正解にはたどり着けないであろうという果てしなさを感じる。

特にブライトフレームのあるレンジファインダーで50mmを撮ると、50mmの外側までファインダーの中に写り込むから、全体の広角の景色の中から50mmで世界を切り取ることの感覚を否応なしに感じさせられる。そして僕の足がズームとなって前後に画角を調整し、動く、撮る、そしてまた動く。誰かが言ってたけど、「50mmに始まり、50mmに終わる」「50mmを制する者が、カメラを制する」、まあ、言い方はともかくとして、50mmから始まるカメラの世界はその後広角や望遠の大海原を彷徨うわけだけど、やがて成長して再び50mmへと戻り、そしてそこでまた50mmの摩訶不思議さに気づき、さらにまた探求の旅に出る。カメラとはその繰り返しなんじゃないかと思う。僕はいま50mmに首ったけだ。こんな難しくて愉快な焦点距離はそうないと思う。世紀の発明だよ、まったく:)

ストリートを撮り続けた先にいたのは、Leica M-P typ240だった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50 ZM

マッハのようなスピードで駆け抜けていった一週間だった。金曜の夜、ようやくひと息つける時間が訪れたので、少しブログを書いてみる。今週、僕のもとへやってきたLeica M-P typ240 ブラックペイントのことについてだ。

購入したのは3日ほど前だから、試し撮りはすでに数百枚ほど撮ることができた。試し撮り数百枚なんて、デジタルだからできる芸当なわけだけど。結論から言うと、M-Pは僕がイメージしたストリートスナップに適した一台だったと言っていいと思う。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

ひと言でいえば、Leica M3で撮るイメージで操れ、フィルムで撮るような写真に余韻がある。しかも、ストリートスナップにおいてシンプルさを要求する僕のカメラ像に、このデジタルのレンジファインダーはしっかりと応えてくれた。つまり、外へ持ち出したくなるスナップシューターなのである。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

詳しい機能や性能は他のレビューサイトに任せるとして、このM-Pを僕的な視点で紐解くと、まず全身をブラックペイントで纏っているのがいい。M-PはLeica MにProfessionalのPが加えられたモデルだけど、それは性能面以上に意匠に好影響をもたらしてくれた。赤い丸のLeicaロゴ排除されたいわゆるステルスモデル。ストリートでまず目立たないのである。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

実際に街中でM-Pをかまえても、特に誰も必要にこちらを見たりはしなかった。ストリートでスナップを撮ることにおいて、これ以上の最高性能はない。とにかく目立たないんだ。そして、部屋の中で聞いた時はM3よりも少々大きく感じたシャッター音も、街中ではマットな低音に抑えられ、これも周囲の人を振り返らせることは一度もなかった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

決して大げさな言い方ではなく、フルサイズのカメラを持ちながら、街中で存在を消せるのである。この三日間でそれが確認できただけで十分だった。正直、機械式カメラのように半世紀、一世紀と生き残り続けることはないデジカメにここまでお金をかける価値があるのかと少し葛藤もあったけど、そう言う疑念が吹っ飛んだ三日間でもあった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

最新のM10と比べると太い、大きいと言われるボディも、僕はそうは感じなかった。それよりも漆黒の存在を消せるボディのほうが僕の撮り方においては何倍も手の中にしっくりくる。ありとあらゆるパーツがブラックアウトされたボディは、何もプロだけじゃなく、僕のような街中でカメラをかまえることに勇気を必要とする人間にも実に心強い仕様なんだ。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

写真のほうは、気がついたらモノクロばかりで撮っていた。そう、フィルムでは現像機の減少でなかなか撮れずにいたモノクロを撮りたいじぶんがいたんだと思う。バルナックライカIIIaやライカM3のあのフィルムで撮るストリートスナップの感覚をしてモノクロを撮ってみたい。そういうじぶんが色濃く存在していたんだと思う。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

モノクロ写真のなかでセピア的な温か味を持つのが、M-Pのモノクロ「ウォーム」ポジションで撮ったもの。その他のいわゆる白黒は「ナチュラル」ポジションだ。モノクロはこれに数種類の「カラーフィルター」をのせて撮ることもできる。カラーもビビッドやスムーズというポジションがあるけど、このモノクロの多様さはJPEG撮りに向いたカメラでもあり、そこも僕がM-Pを選択した理由だった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

夜も撮ってみたけど、まだまだ僕の腕と露出、感度感覚があまい。フィルムのIIIaやM3で夜間撮ったもののほうがどうかしたらちゃんと撮れてるとすら思えるレベルだけど、そこはカメラ任せにせず、僕がM-Pのクセをもっと掴むこと、腕があがっていくことが必要だし、それはとても伸びしろがあることも意味する。そう、僕の場合、カメラや写真は一生試し撮りだから。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

レンズはひとまずM3につけていたZeiss Planarをつけて使い始めた。これでしばらく撮り続けてみて、M3のレンズも含めて、交換レンズをじっくり探していきたいと思ってる。ただ、今のところPlanarが描き出してくれる写真にはまったく不満はないから、むしろM3用に1950年代当時のレンズを新たに探してみようかとも考えている。いっそ、バルナックIIIaでも使えるLマウントのものでもおもしろい。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

レビューや作例というにはあまりにシンプルな内容で恐縮なんたけど、実際、僕がM-Pを手にしようと思ったのはまさにそんなシンプルな理由からなんだ。一眼レフではストリートに出ずにいたじぶんが、バルナックを手にしてからレンジファインダーとストリートに出る軽快さ、気持ちよさに気づいた。そして、それがM-Pへとつながっていった。これもまた必然なのである。

さすがにカメラとレンズが増えすぎたところは感じていて、カメラはIIIa、M3、そしてM-Pのライカ3台だけにしようかと思うところもある。僕は器用じゃないんで、そんなにたくさんのカメラたちを満足いくレベルで使いまわせる自信はない。僕の部屋でカメラが眠るよりも、もっと若い人たちに使ってもらったほうが手持ちのカメラたちも幸福かもしれないしね。しばらく様子をみて、徐々に断捨離していければいいなと考えている。

Leica M-P、このカメラには間違いなくバルナックからM3へと受け継がれていったライカらしい血が脈々と流れている。最先端の性能だけなら、ほかに素晴らしい性能のカメラはたくさんあると思うけど、僕はこのM-Pにストリートスナップの原点へのライカの思いを見た。大した理由に聞こえないかもしれないけど、それが僕にはM-Pと残りの人生を生きていこうと考えた決め手だ。後はそう、ひたすら撮るだけだ、真の意味で手に馴染むまで。