息をするように、瞬きするように、曖昧な記憶を撮り続けるよ。

Konica C35, Fuji業務用100

明日は仕事始め。大人の冬休みも今日で終わりだ。夜になってアレもやっとけばよかった、コレもやっとけばよかったと少し物悲しくなるのは、子どもの頃から変わらない。まあだけど、やり残したことがあるのは希望の観点からいえば悪くなくて、鞄の中にRICOH GR digitalとフィルムコンパクトのKonica C35、予備のフィルムを詰め込んだ。大した野望ではないけど、日常を撮る気満々ではある。

Twitterなんかに流れてくる多岐にわたる写真を眺めてると、僕にはとてもじゃないけどカメラを持ってそんなフォトジェニックな場所へ出かけるバイタリティはないけど、日常をカメラという道具で記憶する行動力みたいなものだけはある。上手くはないけど、たくさん撮ることなら僕にもできる。年末休みに今年の撮影のテーマみたいなものを考えたりもしたけど、どうやら僕には日常をひたすらカメラで記憶することしか取り柄はなさそうだ。ただ、撮り続けてるとそれなりに思うことや変化みたいなものもあって、去年はフィルムに出会えたし、デジイチとも再会した。今年も撮り続けた先に何かはある気がする。

そういえば、少しだけ日常をカメラで記憶するうえでぼんやり考えていることはある。僕の日常スナップのメインはRICOH GRとKonica C35のコンパクト二台だけと、今年はLeica M3も平日の鞄の中にたまに忍ばせようかなとかね。街中でカメラを構える時は雑踏に紛れたいというのがあるけど、Leica M3のサイレントシャッターなら十分いける。考えてみると、今のショルダーバッグに変えたのもM3を持ち歩けたらいいなという思いがあった。

Leica M3、この街撮りスナップのために生まれたようなカメラを後生大事に週末の趣味カメラだけにしておくのはもったいない。もちろん、大事にいつまでも使い続けたいけど、だからといって週末に持ち出すかどうかくらいの出動頻度だと、あと何回持ち出せるのだろうと考えたりしてね。週末って実はそれほど回数はない。だったら、M3は平日にも出動させて、週末はNikon F2やNikon F6の出動頻度ももっと増やせたらな、とかね。

あとは、写真の保存の仕方をどうかしないといけないかなと。iCloudの容量がそろそろ一杯になってきた。デジタルもフィルムデータも一応Google Photoにすべて保存はしてるけど、こうしてブログに写真を使ったり、思いついた時にSNSにスナップ写真をポストする時には、常にiCloudに写真を置いておくとなにかと都合がいい。容量増やすかな。しかし、この先ずっと写真が増えていけばどこかで保存の仕方を本格的に考えなきゃなとか。日常をひたすら記憶するのは気持ちいいけれど、増え続ける写真の保管とそのコストは常に僕を少し悩ませる。まあ、うれしい悩みではあるんだけどね。

と、ブログを書いていたら、いい具合に月が部屋の窓から寝転がって見える位置までのぼってきた。今年は生まれて半世紀の年。いい年して何やってんだと思う毎日ではあるけど、ここ数年、わりと新しいことにチャレンジできていて、心はプチ青春みたいな気分でいられている。なんでも「上がり」みたいなものを設定しちゃいけないなあと。幸いこうして尽きない趣味としてのカメラなんかにも出会えたことだし、常に疑問とか課題を持つビギナーでいたいなと思う。あとは健康なカラダかあ。はやくプールの営業、再開しないかな。僕の新年はそこからな気がする。

カメラで写真を撮るのは五感にいいんだ。特にフィルムは。

Konica C35, Hexanon 38/2.8

さて、2018年最初の日も夜になり、いろいろ考えていたことが脳の中で形になりつつある。今夜はやっぱりカメラについて。それもフィルムカメラについて。

僕のフィルムカメラの日常的メンテナンスは、手の体温でカメラをなでてやり、各部ダイヤルなんかをコリコリと動かしてやった後、数回空シャッターを切ってあげること。あたりまえに聞こえるかもしれないけど、デジカメではあまりそういうことはしない。フィルムカメラならではの儀式だ。それは、デジカメが電化製品的であるのに対して、フィルムカメラはとても人間くさい機械に感じるから。なでたりしてやると、歓ぶ感じがするんだよね、いや本当に。

フィルムを入れる儀式もそう。あの独特のフィルムの匂いが、僕の人間らしさみたいなものを目覚めさせてくれる。そう考えると、フィルムカメラとはにんげんの五感に訴える塊のようなものだと思えてくる。視覚でいえば、あのなんとも愛おしいフォルム。ヴィンテージカーと一緒で、あの当時の技術だから生まれた直線と曲線の混ざり具合は、現代のハイテク機器にはない美意識を感じずにはいられない。

そして触覚。そのフォルムと絶妙の材質で作られたカメラたちの手触りは、もう二度と再現できないような高揚感を現代を生きる僕らに感じさせる。本当のヴィンテージとは、見た目だけじゃない、この手触りを言うんだと思う。

さらに嗅覚。フィルムの匂いもそうだけど、クラシカルなカメラたちは独特の香りを放つ。鉄の香りのような、皮の香りのような、手垢のようでもあり、その時代に染み付いたような匂いであり。半世紀も前に作られたカメラたちは、ボディに傷をため込むのと同じように、さまざまな匂いを身につけてきてるんだろうと思う。とにかく、たまらない。本能を刺激する匂いといっていいだろう。

そして、聴覚。もしかしたら、これがいちばん僕らを刺激する時代感かもしれない。巻き上げレバーの音、シャッター音、ダイヤル操作の音、レンズ交換の部品がこすれあう音、フィルムカバーを閉じる音。どれをとっても現代の最新式カメラでは決して奏でることのできない音を聴かせてくれる。この音が聴きたくてフィルムで撮ってるところもあるくらいだ。決して上品な音ではないけど、感性に訴える熱みたいなものがある。もし音をデザインするディレクターがいたとするなら素晴らしい仕事だというほかない。

と、ここまてきて、後は味覚だけど、カメラに味覚なんてないじゃん、ということだけど、僕にはそれがあると思っていて、それこそが現像上がりのネガであり、ポジであり、プリントだと思う。つまり、フィルムカメラだから味わえるあの収穫のような産物だ。これだけハイテクでデジタルなものがあふれる時代に、なにもわざわざフィルムを現像して写真を楽しむ必要なんかないんじゃないかと思うけど、あのフィルムの「味」だけは逆立ちしたってデジカメには真似できない。だからこそ、フィルムから離れられず、今なおフィルムで撮り続ける人たちがいる。僕もその一人だ。

きょう、フィルムカメラたちをメンテナンスがてらさわりながらそんなことを随所に再確認して、それはつまりにんげんの五感すべてに訴えてくる魅力なんだとあらためて気づいた。で、こればっかりは、実は言葉で説明するのはむずかしい。五感に訴えるモノだから、やはり手にして、さわって、動かして、撮って、現像してみないと分からない歓びでもある。今年あたり、フィルムに挑戦してみようかなと考えてる人は、休みが明けたら、ぜひ中古カメラ店をのぞいてその五感でフィルムカメラの味を確かめてほしい。決して少なくない人々がフィルムカメラに魅せられるのは、何もフィルム写真の味だけじゃないんだ。それを写すフィルムカメラというモノたちに魅せられてることが伝わってくると思う。僕もそれが伝えたくて、こうしてブログを書いているところもある。

デジタルよりフィルムがいいというわけじゃないけど、今しか撮れないという儚さはやっぱりある。

Konica C35, 38/2.8, Fuji業務用100

僕は今となってはフィルム派というわけじゃない。デジイチでも撮るし、撮影頻度でいえばNikon Dfで撮ることの方が多いかもしれない。でも、なるべくフィルムで撮ろうとしてるし、こうしてブログやSNSを通じてフィルムのおもしろさをひとりでも多くの人に伝えようと思うのは、

フィルムが今しか撮れないものだから。

正確に言うと、フィルムはなんだかんだで未来まで生き残るかもしれない。それはそれで嬉しいけど、年々シュリンクしていく様子を考えると、このままいけばどうだろう、あと数年、いや十数年くらいの命かもしれない。僕が期待するのはライカの存在で、フィルムライカがあるかぎり、この世からフィルムが無くなることはライカが許さないというか、そういう淡い期待もあるわけだけど、普通に考えたらフィルムの命はそう長くないと考えるほうが無難だろう。

ということは、つまり、この時代を生きている僕らは、デジタルの恩恵を最大限享受しながら、同時にフィルムを体験できる貴重な世代というか、フィルムが使える最後の数十年を生きているのかもしれない。であるなら、このフィルムという写真のルーツをやっぱり体験しておいたほうがいい、そう思うところがどこかあるんだ。フィルムカメラも然り。カメラがこれだけエレクトロニクスでハイテク化しても、その原型はフィルムカメラの構造から。カメラというプロダクトのポテンシャルをはかる意味でも、まだ使えるうちはフィルムカメラも体験しておいたほうがいいと。

フィルムで撮った写真には独特の風合いや趣があると言われるけど、僕はあれ、命が短いものに感じる儚さみたいなところもあると思う。ノスタルジックさは、単に質感の話ではなく、過ぎ去るものへの郷愁でもあるよね、やはり。僕はこれからデジタルの可能性みたいなものもすごく期待してるけど、同時にフィルムがなんとかして撮れる間は、フィルムカメラでも撮り続けたいなと考えている。今後、なんらかのかたちでフィルムが生き延びていけばそれはそれで儲けもん。でも、無くなることを前提というか覚悟して、意を決して撮るというのもどこかある。あいかわらずフィルムコストとのせめぎ合いは続くけど、そこのところはフィルムが無くなるのが先か、僕がフィルムについていけなくなるのが先か、根比べだね。でも、デジタルで撮りつつも、たまにフィルムで渇きを癒す、そんな日々がこれからも続くといいな。

みんな、予想を裏切られたくて、生きてるんだ。

Konica C35, 38/2.8

仕事でもスポーツでも経験を積むといろんなことに予測がついていいと言われる。それは年月を重ねることでもあり、たから年を取るとざまざまなことの成り行きがある程度予想できるようになるとも言える。

でも、それが諸手を挙げていいことかといえばノーだ。にんげん、みんな、予測がつかないことに惹かれるから、新しいことに挑戦しようと思うし、そこに努力とか苦労をともなってもいいと少し頑張ったりする。

例えばスポーツの大番狂わせにみんな酔いしれるし、意外な苦労人のシンデレラストーリーにワクワクする。カメラもそうかな。こんな風に撮れるかなとおぼろげながら予想してシャッターを押すんだけど、時々じぶんの予想を大きく超えて意外性のある写真が撮れたりする。すべて、じぶんの思うまま、つまりこれまでのじぶんの経験値でしか予想できない写真だけ撮れてもおもしろくはない。だから、人は新しいカメラを欲するし、新しいレンズを欲する。まだ見たことのない世界が撮れる、見られるんじゃないかと思ってね。

僕は最近、光に向かってカメラを構えることが多い。それはやっぱり撮れる写真の予測がつかないのと、そのカメラ、そのレンズの意外を求めてだ。失敗も当然多い。フィルムだと失敗写真はコストに直結する感じがしてなかなか躊躇してしまうところもあるけど、でも意外性を求めて時にシャッターをきる。他人からみたらどうでもいい葛藤というか行動だけど、じぶんの中ではこの小さな葛藤は大事なんだよね。もう一歩前に進むためにね。僕はまだまだじぶんのカメラやレンズたちの意外性を引き出し切れていない。来年は手持ちのカメラやレンズたちと、もっと見たことのない写真を探りたいし、何度も何度も裏切られたいなと考えている。

KONICA C35で撮ると、日常は意外と平凡じゃない。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, FUJI 業務用100

僕の平日のスナップ用カメラは二台、デジタルのRICOH GRとフィルムのKonica C35だ。どちらもじぶんの第2の目のようなカメラで欠かせないんだけど、できればフィルムで撮りたい、つまりできればKonica C35で撮りたいというのが、まずある。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, FUJI 業務用100

それは、C35で撮ると、世界が少し平凡じゃなく見える感覚があるから。理由は、そうだな、まずフィルムの風合いというのがあるんだろうけど、そんな簡単じゃないというのもある。上手く言えないけど、焦点距離38mmというのも大きいのかな。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, FUJI 業務用100

僕がそもそも好んで使うレンズはどれも焦点距離50mmのものだ。Nikon FEも、F2も、F6も、そしてLeica M3も、すべて常用レンズは50mmの明るいレンズ。といっても50mmが楽だからというのではない。むしろ50mmはむずかしいと思いながらいつも撮っている。それに対して38mmはもっと自然体なんだ。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, FUJI 業務用100

無心というか無欲というか、カメラを構えてることを意識しないで撮れるというか。このKonica C35というカメラは昭和の大衆的カメラで、誰もがほぼオートで簡単に撮れるように開発されたカメラ。そこで選ばれた焦点距離が38mm。それはやっぱり関係があると思うんだ。カメラを難しくしない焦点距離とでもいうのかな。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, FUJI 業務用100

狭すぎない、かといって広すぎもしない、スナップとしては実に絶妙で自然体な画角なんだろうね。あとはテッサー型レンズHexanonの存在も大きい。Konica C35を見たことがある人は分かると思うけど、あのどちらかというと可愛らしいフォルムからは想像がつかないくらい、実力派のレンズが搭載されてるんだ。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, FUJI 業務用100

Konica C35の愛称は“ジャーニーコニカ”なんだけど、よく言ったもんだなあと。たしかに旅に持ち出しやすい手軽なカメラだけど、それは扱いやすさだけじゃなくて、撮れる写真の質にも言えることで、C35で撮ると毎日が旅のように撮れる。それはこのカメラを所有する最大の歓びと言っていい。僕はそれほど多くのカメラを知ってるわけじゃないけど、カメラビギナーの人におすすめのカメラを聞かれたら、このKonica C35を筆頭にあげるかもしれない。いや、カメラクラスタの人にもおすすめするか。それくらい“やるカメラ”なんだ。

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フィルムで撮ると失敗写真が少ないと思うのは、気のせいだろうか。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, Fuji PRO400h

この場合の失敗写真とは僕の中の失敗だと思う写真であって、万人から見た時の失敗写真かどうかは別の話なんだけとね。でもなんとなく思うのは、僕の甘々な基準とはいえ、僕がデジタルで撮るよりフィルムで撮る時の方が失敗と思える写真の割合は少ないんだ。24枚撮り、36枚撮りの中でもこれは絶対駄目だと思う写真は数枚な感じ。でもこれ、デジタルだと枚数をたくさん撮ることもあるけど、いいと思えるものが数枚な感じじゃないだろうか。

よく言われることとしては、フィルムだと一枚一枚慎重に撮るから、結果として失敗写真も少なくなるということなんだろうけど。いやね、誤解を恐れずにいえば僕はフィルムでも大量に撮るんだな、これが笑。だからきっとフィルムで100枚撮って、同じくデジタルでも100枚撮ったら、きっと圧倒的に失敗と思える写真はデジタルが多いと思う。フィルムは、あくまでじぶんの中のものさしだけど、失敗写真も失敗写真ならではの味があるという解釈で、失敗じゃないほうの写真になる気がするんだ。

その点、デジタルはリアルで正直というか、失敗をどこか許してくれないところがある。失敗写真はあくまで失敗であって、そこに味わいという余地を見出すのは僕には少しむずかしい。そういう意味でもね、ビギナーこそフィルム写真をやったほうがいいと思うんだ。そうそう、写ルンですで撮るあの感覚で。写ルンですも考えてみると撮ったすべての写真がどこか愛おしくて、失敗写真って感覚はないよね。そうだ、その感覚がこの記事で言いたかったことかもしれない。ふつうの日常を撮る時こそフィルムがいい。それがフィルムが生まれてきた必要性であり使命なのかもしれないね。

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写ルンですを一年中持ち歩くような軽快さ。街角スナップシューター、Konica C35。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, Fuji PRO400h

僕は街角を撮る時はコンパクトカメラだ。まあ、照れ臭くて街角でライカや一眼レフは構えられないからね笑。その点、RICOH GRやKonica C35は街の雑踏に紛れることができる。これは大きいんだ、僕には。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, Fuji PRO400h

まさに、サッとさりげなく構えてサクッと撮る、何事もなかったようにね。音もチッとかすかな音しかしないから、まず誰も振り返ったりしない。そう、僕の感覚的には、あの写ルンですを一年中持ち歩いてるような手軽さなんだ。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, Fuji PRO400h

僕はフィルムを始めようとする人にカメラは何がいいか聞かれたら、まず写ルンですを買ってフィルムとの相性みたいなのを確認してみたら?と答えることが多い。でね、写ルンですが気に入ったら、毎回写ルンです買うのもコストがかかるから、じゃあ次は写ルンです的コンパクトカメラを、と。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, Fuji PRO400h

で、おススメするのが、このKonica C35。もう何十年も前のフィルムコンパクトカメラだけど、往年の小西六コニカが世に送り出したこのほぼオートのボディとテッサー型の名玉ヘキサノンレンズの写りは、なかなかシビれるものがある。なんといってもほぼシャッター押すだけだからね笑。写ルンです的でしょ?

Konica C35, Hexanon 38/2.8, Fuji PRO400h

写ルンです的というのは、ほんとシャッター押すだけだから、その分咄嗟にサッと撮れるし、構図選びに集中したりできるということ。街角ではとても重要な要素。カメラのセッティングでグズグズしてると、あっという間に思い描いていたスナップ像は消え去るからね。

Konica C35

昭和の時代の大衆的カメラがこんな高性能だったと思うと、なんて日本は凄い技術立国だったんだと思うし、そんなカメラが今も使えて、しかも一回飲みに行くのを我慢すれば買えるような状況には感謝しかないし、ぜひフィルムカメラビギナーの人に、また近ごろむずかしいカメラに困惑してる人に?笑、おすすめなのである。絶対、期待を裏切らないと思うよ。

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朝の光と影が好きだから、僕のカメラは朝活になる。

Leica M3, Konica C35, Nikon F2

写真は今朝、散歩カメラに連れ出したフィルムカメラたちである。左からLeica M3、Konica C35、Nikon F2。M3とC35がレンジファインダーで、F2が一眼レフ。M3とF2が電気を一切使わないフルメカニカルシャッター(いわゆる機械式カメラ)で、C35はピントを合わせるだけのプログラムEE(ファインダー内に露出計もあり電池を使う)だ。もともときょうは機械式の二台を持ち出してまったり癒し撮影としようと思ってたんだけど、C35にフィルムが入りっぱなしだったことを思い出し、一緒に連れ出すことにした。

僕の朝は早い。今朝は特に午前4時すぎに愛犬のトイレ掃除で起こされ、だったらと五時台に愛犬の散歩を終了。そうして朝の低い太陽光のうちに散歩カメラに出かけていた。朝晩はいわゆるマジックアワーで太陽光が美しく辺りを照らし、僕なんかでも少し雰囲気のある写真が撮れる。僕は特に朝の光が好き。夕方の陽射しも柔らかく好みだけど、だんだん日が暮れると感度の低いフィルムカメラでは撮影できなくなる。それに比べると朝の光はおいしい時間帯が終わっても、ひとまず明るいからそのまま撮ろうと思えば撮れる。その余裕がなんか焦らなくていいんだよね。

昼間の光で見ると少し退屈に見える風景も、朝の斜めからの太陽光でちょっと立体的に見える。そして、良くも悪くもカメラで撮ると想像を裏切る感じの、少し独特の色を放つ写真が撮れたりする。それが期待を裏切ってくれるようで、心地いいんだよね。きょうもそんなおもしろさを堪能しながら、36枚撮りのFUJI  PRO 400Hを途中から20枚程度、あとFUJI 業務用100を2本ほど撮った。撮ったものもいつもとあまり変わりばえしない散歩風景写真だけど、朝の光が体を少し温め、斜めからさす光が穏やかながらも抑揚のある世界を散歩道に浮かび上がらせる。

フィルム2本半といえばフィルムカメラでいえばけっこうな枚数だけど、朝の刻々と変わる光を背景に写真を撮っていると、機械式カメラでもあっという間に撮り終える。時計を見るとまだ10:00すぎで、日曜日をほぼ一日最初から使うことができる。いわば朝活ってやつだね。あと、なんといっても静かな中でカメラ撮影をたのしめる。人を撮りたいと思う反面、人混みはあまり得意ではないから、人っ気のない時間帯の撮影は心安まる。僕にとってカメラで写真を撮るという行為は、パッションというよりはヒーリング、癒しだからありがたい。そうして家族がまだ寝ているうちに家を出て、家族が始動し始めた頃に撮影を終えて家に帰ってくる。このペースも家族想いだ笑。今週もなんだかんだで6本のフィルムを楽しんだ。明日はリバーサルとかEktarの現像受け取りも4本あるから、なかなか財布が悲鳴をあげつつあるけど、まあこれだけ癒してもらってるんだからしょうがない。世の中にはいろんな朝活があると思うけど、この朝の光で写真を撮るという朝活もなかなかクリエイティブでおすすめである。

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街中はフィルムコンパクトにかぎる。

Konica C35, Hexanon 38/2.8, FUJI業務用100

これは逆に言えば、街中で一眼レフや中判カメラを構えられる人は凄い、という意味でもあるんだけどね。僕はそこまで大きなカメラを街中で構えることはイメージしづらいから、いつもコンパクトなカメラと一緒だ。デジタルならRICOH GR、フィルムならこの写真のようにKonica C35が定番。このいずれかのカメラであれば、少々人がいる通りでもさりげなくカメラを構えることができる。そういう気分にさせるのもカメラの性能のひとつだと思う。

あと、光について言えば、朝夕がいい。この写真も早朝だけど、テクニック的なことは分からないけど、朝の光やいわゆる夕刻のマジックアワーだと、フィルムコンパクトでもなんというか迫力ある描写を楽しめる気がする。斜めから注ぐ光、反射、そして影が絶妙の空気感を作り出す。なんてことない光景も、どこか体温をはらむから不思議だ。僕の写真なんかはまだまだ甘いから構図なんかも単調になってしまうわけだけど、それでも斜めからの光はそれを補い、フィルムはちょっと湿りっけのある抑揚を描いてくれる。どうだろう、僕はそんな風に思うわけだけど。

こういうスナップだと、一眼レフなんかは写りすぎるのかもしれない。中判は撮ったことないからちょっと感覚は分からないけど、街中でリラックスしてカメラを構えることがまず先決であるとしたら、僕なんかがおすすめするのはやっぱりフィルムコンパクトだなあ。写ルンですをラフに持ち歩いて撮る、あの延長線上の軽快な感じ。どうかしたら数千円でこんな目が持てるなんてちょっと幸福ではないだろうか。

カメラは日常の空白を埋めてくれる。

Konica C35, Hexanon 28/2.8, FUJI業務用100

日常は忙しい。でもそれは充実して濃密かといえば、どこかぽっかり空白が散乱してるようでもある。空想する、本を読む、風景を眺める、いろんな空白の埋め方があると思うけど、カメラはそこにとてもいい。一眼レフでもいい、レンジファインダーでもいい、できればファインダーのあるカメラがいい。その中をのぞけば普段見えない景色まで見えてくる。そして、それらがどこか足りないと感じていた空白たちを埋めてくれる。理屈はよく分からない。でも埋めてくれるんだ。カメラを持って歩き始めた時から何かが始動する。シャッターを切る時はもちろん、撮った後に眺める写真もピースのひとつだ。日常に何か足りないもの、空白みたいなものを感じたら、カメラを持って出かけよう。けっこう劇的だから。