ブログはその時々の興味の軌跡。

このブログは2年前の夏から書き始めた。タイトルは意外とすぐ思いついて、好きな言葉の「記憶」と当時始めたばかりの「カメラ」という言葉をくっつけて「記憶カメラ」とした。すごく普通の言葉の足し算なんだけど、検索してみるとそんな言葉は誰も使っていないし、URLドメインも誰も使用していなかった。で、ブログ開設と同時にTwitterとInstagramにも同タイトルのアカウントを開設した。当時はたしか説明文に”ファインダーを通したもうひとつの目で、日々遭遇するモノとかコトを記憶したいと思った”、そんな風に書いていたと思う。

ブログを始めた頃に使っていたカメラは、Nikon D5300から買い換えたばかりのフルサイズ機Nikon D750とコンデジNikon Coolpix P340、そしてRICOH GR。レンズは50mm/f1.8、70-300mm、24-120mm/f4ナノクリだったかな。その後、レンズはMicro 60mm/F2.8ナノクリが加わり、ボディは超望遠のNikon Coolpix P900が加わる。平日はGR、週末は一眼レフなどNikon機を使い分けながら、どんどんカメラにハマっていき、そんなカメラたちとの日常をなんとなくブログに記していった。その後、最初の転機がやってくる。GRを一台残して、その他すべてのカメラとレンズを手放すのである。

理由は、端的にいえばロードバイクとの時間を増やしたかったのと、増えすぎたカメラやレンズとで、じぶんの時間がどれにもフォーカスできず散漫になっていたこと。いま考えると断捨離というやつだったのかな。そこから一年ほどRICOH GRだけを持ち歩き、ひたすら広角28mmの世界を追求することになる。苦手だった広角が好きになったこと、苦手だった縦構図が苦じゃなくなったこと、そしてモノクロ撮影に魅せられていったのもこの時期だ。いま思うとこの時期は僕にはとても必要なプロセスだった。その頃かな、首のあたりにヘルニアの傾向が見られたのと高血圧の症状があったから何か改善生活を始めなきゃというのと、ロードバイクとRunの興味がさらに発展してトライアスロンを意識し始め、カナヅチだったにも関わらず水泳を始めた。

そしてカメラはGRだけでこのまま過ごしていくんだろうなとじぶんでも思っていたんだけど、ある日、なぜか立ち寄ったカメラのキタムラの中古カメラコーナーで、フィルム一眼レフのNikon FEと目が合う。ここが、次なる転機になるのかな。FEと目が合うといっても、正確にいうと、用がないとその中古コーナーには立ち寄るはずがないので、心のどこかでフィルムカメラへの興味があったんだと思う。僕の身の回りにはフィルムをやってる人はいないから、その興味はきっとTwitterのフォロワーの人たちのフィルム写真やカメラだったんだろう。目があったFEはその日のうちに買って帰り、その週末恐る恐る試し撮りを行う。使い方なんてまったく分からないからキタムラの店員さんに簡単に教えてもらった手順とYouTubeの説明動画なんかを頼りに撮り始める。そして初めての現像体験。そして、現像があがってきた時の軽い衝撃。いや、軽くなかったな、かなりの衝撃を受けたといっていい。少々ぎこちないクラシックカメラで、普通に憧れたフィルム色の写真がじぶんにも撮れたことに本当に驚いた。あと、撮った写真をその場で確認できない不便なワクワクさなんかも衝撃的だった。それ以来、すっかりフィルムカメラの魅力にハマり、Leica M3、Nikon F2、もう一台のFEに、Konica C35とフィルムカメラが増えてゆく。そして、僕の興味は単にフィルム写真ではなくて、フィルムカメラならではのマニュアル撮影やオールドレンズへと移ってゆく。

そうして再びデジタル一眼レフに帰ってきた。中古でNikon D300を手に入れ、初めてデジイチをマニュアルで撮り、その感触を確かめる。その感触は間違いなかった。デジタルでもマニュアル撮影なら、フィルムカメラと同じように以前とは異なるデジカメ体験が楽しめる、そう確信したんだ。そして満を持して現行フルサイズ機Nikon Dfを購入する。数ヶ月前には思いもしなかったデジタル一眼レフの復活である。ただし、D750の頃と異なるのは、カメラ任せにしなくて可能なかぎりマニュアルでカメラと共同作業のように写真を撮り始めたということ。レンズは主にMF単焦点、28mm、35mm、50mm、そして43-86mmというズームも加わった。カメラやレンズは増えたけど、以前のように増やしすぎたという感覚はない。カメラを操る楽しさを覚えると、その時々でカメラやレンズを替えて写真の変化や気分転換を楽しむことは自然の成り行きというか、とても軽快で豊かなものになった。

ざっと駆け足で書くと、これが僕のカメラとの軌跡だ。そして、このブログは僕がその時々に感じたこと、行動に起こしたこと、その結果次へとつながったものなんかが、一タイトルに一枚の写真、一つの文章で綴られている。いま振り返ると多少今とは異なる考え方の記事も少なくないけど、それはその時々の僕のリアルなあり様だから、書き直したり加筆は基本していない。そうした過去のブログをアットランダムにTwitterにポストするように設定しているから、毎日流れてくる過去ブログに僕自身も懐かしくハッとすることが少なくない。ブログは単なる日記じゃなくて、僕にとっては記憶の軌跡。書き始めた頃は100話もいけばいいかなくらいに思ってたけど、水があっていたのか今では1400話を超えた。大したことは何ひとつ書いていないのに、それで1400話も書いてしまうじぶんを、ある意味リスペクトしたり。それもこれも、続けられているのはカメラがあるからだと思う。カメラの奥深さ、写真の奥深さ、そしてそこから得られる気づきや発見、いろんな要素が僕に終わりのない探究心を与えてくれた。人生、何が日々を変え始めるか分からない。僕の場合はカメラがそうしてくれたように。そういえば、ロードバイクを始めたのも一眼レフと遠出したかったからだし、スイムはそのロードバイクの延長線上、そして近ごろ一緒に暮らし始めた愛犬も散歩カメラのたどり着いた先のような気がしている。おもしろいよね、出会いって。そして、それをブログに残していくということは、密かに僕がみんなにおすすめしたいことでもある。

カメラはやっぱりおもしろい。フィルムでもデジタルでもね。

こうして見るとカメラはほんと人みたいだな。今朝は台風明けの三連休最終日、朝から太陽が顔をのぞかせたんで、愛犬と散歩をすませた後、ひとりF2を持って散歩カメラに出た。休みの日の早朝の住宅地はとにかく静かで僕は好きだ。朝晩の斜めにさす太陽光も好きだ。

レンズは少し前に手に入れた28mm、フィルムは入りっぱなしのイルフォードXP2。しばらく撮り歩いて思ったのは、あれ?広いなあ28mm、広すぎる、ということ。といっても僕は28mmビギナーではなくて、過去2年ほどRICOH GRで広角28mmを撮りまくってきたわけで、どちらかというと28mm好きなはずだ。でも、GRの背面モニターで見る28mmと一眼レフのファインダーで見る28mmは全然違うんだよね、感覚が。

まあ撮り歩いた場所が住宅街で、広角で撮るようなシチュエーションじゃないこともあるんだけど、こりゃレンズの選択を間違えたと思った笑。でもこれも学び。カメラやレンズを買うことが沼なんじゃなくて、このカメラや写真の奥深さが沼なんだなとあらためて思う。ま、その奥深さがカメラをまったく飽きさせない魅力なんだけどね。そんなこんなでF2に28mm、35mm、50mmを装着して撮り比べてみたじぶんの感覚としては、ふだんの散歩カメラとしてはAuto Nikkor 50/f1.4を常用にしようかなと。あ、そうだ、まだF2でズーム43-86mmを試してなかったか。それはまた次週の楽しみということで。

雨の日は、部屋でカメラとレンズと妄想と。

台風の前ぶれか、外は少し強めの風と霧のような雨が混じる天気。早めに愛犬の散歩に出て、朝食パンを買って、観念したようにおとなしく部屋でカメラたちと戯れている。写真は昨夜届いたヨンサンハチロクをNikon Dfに装着してみたところ。なかなか精悍な佇まいだ。オールドレンズは楽しい。気がつくと僕もいくつかのオールドレンズを所有するに至る。50mmがAutoとAiの二本、あとは28mm、35mm、そしてこの43-86mm。これだけあればその日によってレンズを変えて気分を変えるという楽しみも十分味わえる。もちろん、外へ出て散歩カメラしながら写欲を満たすのがいちばんだけど、こうしてあいにくの天気の日は、部屋でカメラとレンズを眺めては妄想を繰り返す。撮る場所、露出、その時の風や匂い。まあ、それだけである程度心が満たされるんだから幸福なこと。フィルムカメラにデジタル一眼レフ、そしてオールドレンズを部屋にひろげて、さあ、妄想というイメージの中でどこに撮りに出かけようか。

文章を書くのが嫌いじゃないのは、学生時代に文章を褒めてくれた先生がいたからだろうな。

このブログ「記憶カメラ」もいつの間にか1,400話を超えた。こんな短めの文章の連続だからとても誇れるレベルではないものの、1,400回も書いてきたのかと思うと、書くの好きだなあじぶん、とも思う。じぶん的にはある程度の分量で文章を書いていいなら、大抵のことはほぼ伝えきれる自信みたいなのもどこかある。

考えてみると幼い頃は特に文章を書くのは好きでも嫌いでもなかった。それが、ある程度長い文章を書くのが苦じゃないというか、文章を書ける自信みたいなのものが芽生えるきっかけがあったとするなら、それは学生時代の経済学の試験の時かな。問題の答えがどうにも思い浮かばない時があって、でも試験時間はまだまだある時に、どうせ分からないなら答案用紙に何か経済に少しかすっている話題について、プチ小説というかコラムみたいなものを書いて提出しようと考え、実行に移した時があったんだ。たしか選んだテーマは武器輸出の問題が沸き起こったココム問題についての独自見解を解凍用紙の裏面いっぱいに書いた時のことだ。僕はといえば、試験の解答が分からないから、なかばヤケクソみたいな感じで書いたんだけど、それを当時の先生がマル(正解)にしてくれたんだよね。後から先生にマルにした理由を聞いたら、読んでいておもしろかったからと言ってたんだよね。子ども心にあの時は嬉しかったな。以来、コピーライターをめざしたり、企画書だけで相手に説得を試みたりと、文章をじぶんのアイデンティティにしてきたようなところが僕にはある。好きな文章家はそれこそボディコピーの上手いコピーライターや、流行りの村上春樹とかだったかな。もともと単細胞なところがあるから、小難しい文章は書けない。だったら、頭良さそうな文章より、リズムよく読みやすい文章をめざそうじゃないか!と考えていたフシがじぶんにはあるんだよね。考えてみると、あの日以来、文章を褒められることはなくなったけど、たまにTwitterなんかで文章の読みやすさ?みたいなのを褒めてくれる人がいる。それがたまに励みになってブログを書き続けるエネルギーになったりしてるんだ。おもしろいよね。

文章というのは、僕は生きてきた何かが滲み出る行為だと思っていて、そういう意味ではカッコだけつけてもすぐバレるんで、ある意味開き直って素直に書いている。このブログなんかは最たるもんで、このブログの中なんて誰に向けてもカッコつける必要はこれっぽっちもないから、とにかく本能に任せて即興でスラスラ書いてる。誤字脱字もけっこうあるけど、それも含めてその時の僕のあり様だから、よほどの間違いじゃない限り、書き直したりもしない。でも、だからこそ、なんとか続けられてるんだよね、ブログを書き続けるということ。

文章もちょっと写真に似ていて、キメすぎてもいけないし、読む人をナメすぎて簡単に書きすぎてもいけない。そのへんは何かしらほどよいポジションを意識してる。そういえば若い頃、小説家になりたいとか一応考えた時期もあったな。でも、フィクションを書くにしてもそれなりに書くテーマの必要最小限の知識はないといけない。それが想像以上にハードルの高いことだと気がついたのはほんの最近のことで、だったら平易で何気ない日常の思いみたいなのをブログにでも書いてみよっか、と思い至ったのがほんの2年前くらいのことだと思う。まあ、文章というのは上手いに越したことはないけど、日本人である以上、意味不明な文章を連発するほどおバカでもないだろうと心の中のどこかで考えているフシがある。だから、とりあえずリラックスしても書けてるとは思う。でも、そのくらいかなあ、気をつけてることは。おっと、昔話を思い出しながら書いてると、少し書きすぎた。上手いか下手かは別にして、文章に対する感想をたまにもらえると、それはやっぱり嬉しくなるんで、よかったらたまにひと言感想を寄せてください。そうすれば僕はひとまず体力的に書けなくなるまでは、懲りずに書き続けられると思うので。というわけで今日はこのへんで書き納め。おやすみなさい:)

ヨンサンハチロクがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!

ビートルズの映画邦題を真似て申し訳ない。でもそれくらい嬉しいのである。なかなかお店で巡り会えなかったヨンサンハチロク、思いきってオークションで注文していたものが三連休を前に金曜夜に届いたのである。

フィルムニコンを所有する人にはおなじみだと思うけど、そうじゃない人は「は?ヨンサンハチロクって何?」という感じかな。そう、この写真のレンズのことで、フィルム時代のNikonが作った国産初の標準ズームレンズで、焦点距離が43-86mmというちょっと変わった数値だから、ヨンサンハチロクと愛着を込めてみんなに呼ばれている。ここ数日、偶然にもTwitterのファロワーさんの中にもヨンサンハチロクを手に入れられた方々がいて、このレンズの特徴なんかをツイートしてくれていたから、それもリンクで載せておきます:)

このレンズの誕生は1963年、昭和38年と僕よりより年上の年季の入ったレンズ。なんといっても見た目の特長は、このヒゲ?と呼ばれるカラフルなラインだろう。正直、独特の焦点距離以上にこのデザインに惹かれたところも大きい。詳しい特長はリンクを読んでもらうとして、ざっと読むに、とにかくコストを抑えて軽量で作られたレンズらしく、手に持った感触もMF単焦点レンズと変わらない軽量感で、期待した通りの身軽さだ。僕が手に入れたものはAiタイプなんで、手持ちのフィルムカメラNikon F2やFEはもちろん、デジタル一眼レフのNikon Dfでも簡単に使うことができる。ふだん僕はフィルムでもデジタルでも単焦点レンズばかり使っていて、望遠レンズはAF70-210mmを持ってはいるんだけど、もっと手軽に持ち出せるズームレンズが一本欲しくて、少し前からネットなんかで人気のズームレンズの情報を探していたんだよね。そこで目についたのがこのヨンサンハチロクだった。

まあコストを抑えたシンプルなズームレンズということで、写りのほうは特に名玉というわけではなさそうだけど、その控えめな性能と愛らしいフォルムでニコンユーザーたちには愛されてるところがあって、僕も同じくヨンサンハチロクがとても愛おしく思えた。でもふだんよく行くカメラ屋ではなかなか巡り会えなくて、ちょっと不安ではあったけどオークションで手に入れたわけである。週末に試し撮りしてみないと何とも言えないけど、ひとまず届いたレンズはなかなか程度もよくて、ヘリコイドもしっかりとした感触。いくつかあった出品モノの中から入札ものではなくて、少し高めの即決価格ものにして正解だったかもとひとまず取引にホッとしている。作例はまた今後のブログの中で追い追い紹介するということで。それにしても、オールドレンズはやっぱりいいなあ。当時の開発者たちの夢が詰まってる感じがして、手にするだけでもワクワクする。想像以上の写りだと嬉しいなという思いはあるけど、半世紀以上前のレンズをこうして安価で手にすることができる感慨だけでも、僕はとても意味があることなんじゃないかと思ってる。

明日から台風接近というニュースも気にはなるけど、三連休前にこうして念願のレンズが届いたわけだから、写真の神様は台風すらも進路をずらしてくれるんじゃないかと密かな期待をしている笑。撮る前のブログなんでなんだか性能説明や作例紹介もなく、気分だけの記事になってしまったけど、まあそれくらい嬉しくて思わずブログを書いたということで、ヤァ!ヤァ!ヤァ!

変わりたければ、変えてみよう。

“ヒトはどうしてもマンネリするから”というのは僕が後輩たちと話す時によく使う言葉。まあ、偉そうに言ってるんじゃなくて、じぶんが生きてきた中で身に染みてる言葉といったほうが正しい。だから、ヒトはちょくちょく”(現状から)変わりたい”と思う。いや、常にかな。で、ここからが大抵分かれ道。何か身の回りで変わったことが起きるのを待つヒトと、そんなの待ってられないんで自ら変わるために行動するヒトとに分かれる、たぶん。僕はといえば若い頃は”待ってたヒト”かもしれない。適度に忙しかったから、あえてじぶんから新しいことを付加することを面倒くさがったんだろうね。でも今は”待たないヒト=変わるために行動するヒト”になったように思う。理由があるとするなら、歳をとることで人生の時間とはそれほど多くないと感じたから、かな。待ってるほど時間がない、それに尽きる。いつかそうなればいいや、というのは遠すぎるんだよね、僕には。ロードバイクも、カメラも、ランやスイミングも、思い立ったら”できる方法をまず考える”。そこから何か人生変わりましたか?ということなんだけど、これは自信を持って言える。大きく、劇的なくらい変わる、じぶん的にはね。願っていればいつか夢は叶うみたいに言うけど、あれはそうではなくてね。願っていることをできる方法論を具体的に考えて行動に移すヒトは夢へ歩き出す、くらいが正解だと思う。どうだろう。僕は今日も何か新しいことを企んで、マンネリするじぶんと軽く戦っている。

この世はすべてバランスで出来てるから、カメラが必要なんだ。

あっという間の金曜日だから、本来なら週末を前に気分が上がるわけだけど、朝からロケットによるJアラートのニュースを目にして、さすがに少し心がザワザワしている。それもあってか、特に何かを撮るわけじゃないけどNikon Dfを鞄に入れて出社している。僕にとってカメラとはそういう存在なんだ。日々直面する不安やストレスを少し和らげてくれるバランサーのようなもの。生きていればいいことばかりじゃない、いや、いやだと思うことの方が多いかな、それでもその合間合間に落ち着ける時間やハッピーを感じられる時間を注入することで人はなんとか頑張れる。世の中は新しいiPhoneがニュースみたいだけど、もうこの成熟の域までくると、ただ写真を撮るだけならiPhoneでいいよね。でも、残念ながらiPhoneで写真を撮っても僕の心は中和されない。そこに手間とかファインダーとかシャッター音がいるんだ。僕にとってカメラとはそういう無くてはならないものになった。

今夜も写真を眺めながら、空シャッターを切る。

今朝は無性に写真を撮りに行きたくてたまらなかったんだけど、その本能みたいなものをぐっと押し殺して仕事に没頭することにした。日中はごまかせたんだけどね、夜になるとまた写真が恋しくて、過去の写真を眺める。そして、頭の中で週末までの日数をカウントダウンしながら、たまらず空シャッターを切る。もう、遠足前の子どものような気分なわけだけど、大人になってからもこうして四六時中、夢中で妄想して楽しめることがあるというのは幸福なことだと思う。

考えてみると、これほど飽きずに毎日なにかしら調べたり学んだりして続けられている趣味はカメラが初めてかもしれない。カメラや写真の世界の奥の深さもあるけど、子どもの頃から勉強が嫌いだった僕にとって、カメラの学びは小難しい話を例え熟知していなくても、ひとまずシャッターボタンを押せば誰にでも写真は撮れる。上手い下手は別として、感覚的にトライできるのがカメラのよさだし、分からないなりに撮り続けていれば少しずつカメラのこと、写真のことがわかってくる感覚が、僕にはちょうどいいのだろう。

最近は夢の中でもカメラやレンズが出てきて、じぶんでもちょっと笑う。昨夜なんかは43-86mmズームレンズが頻繁に夢の中に登場して、具体的なストーリーこそ覚えてはいないけど、あまりにも脳裏にヨンサンハチロクのことがこびりついて、ついにはヤフオクで即決価格で注文してしまった笑。いい歳した大人が連日、それこそ四六時中カメラに夢中なんて、なんか恥ずかしいような誇らしいような複雑な気分なわけだけど、悪くないんだよあな、この感じ。遅ればせながらだけど、青春してる感覚があってさ。というわけで眠りにつくまでもうしばらく空シャッターを楽しむ。

Nikon DfとMF単焦点レンズの組み合わせには、時空を超えた楽しみがある。

今朝はずっと気になっていたズームレンズ43-86mm/f3.5〈通称ヨンサンハチロク〉をヤフオクで注文し、届くのが楽しみなんだけど、僕がふだん好んで使っているのはMF単焦点レンズたち。Auto Nikkor 50m/f1.4、Ai Nikkorが28mm/F2.8、35mm/F2.8、50mm/f1.8の計4本だ。大体各ボディに付けっ放しで、Nikon FEには50mm/f1.8、Nikon F2には28mm/f2.8(またはAuto 50mm/f1.4)、そしてデジタルのNikon Dfには35mm/F2.8が今のところの好きなパターン。そこに85mmの中望遠までカバーできる43-86が加わるカタチだ。

焦点距離としてはそんなレパートリーたけど、なかでも最近手に入れたNikon DfとAi 35mm/F2.8の組み合わせがおもしろい。先週末に初めて本格的に外へ連れ出したDfには、以前同じ場所をF2で撮影した時に装着していた35mmを比較の意味でもと思いDfに装着してみたんだけど、画角はもちろんだけど、とにかくMF単焦点レンズとDfの相性のよさに魅了された。方や半世紀前のレンズたちと、現行フルサイズモデルであるボディの組み合わせ。そこには半世紀の時空を超えた絶妙のマッチング感が存在して、なんというか不思議な気持ちになった。古さ新しさが同居するこの独特の感触は、往年のフィルムカメラたちで撮る楽しさとはまた別の高揚感があるんだ。

半世紀前、今となってはオールドニッコールと呼ばれるレンズたちを開発したNikonの技術者たちは、半世紀後もこうして最新のNikonボディに使われることをイメージしていたんだろうか。その写りは少なくとも僕の目には見劣りするものではなく、現代のカメラシーンにむしろ味わいという風を吹き込んでくれていて、開発当時の匠たちはきっと、いや絶対、50年後も使い続けられるレンズを夢見てこうしたレンズたちを世に送り出したんだろうなと今は強く思う。そのかつての技術者たちからバトンを受けるように現代にNikon Dfを送り出した現開発者たちもまたあっぱれだ。FUJI FILMのミラーレス機なんかではフィルムライクなフォルムのカメラは存在するけど、デジタル一眼レフでそれをやってのけたことは、少なくとも僕のような人間から見ると賞賛に値する行動なんだよね。Nikonとはこういう姿勢の企業です、ということを無言で激しく訴えてくる、そんな迫力であり覚悟を感じる。

そして気のせいか、Dfとオールドニッコールたちで撮った写真は、デジタルの精密さを持ちつつも、どこかフィルム写真っぽく仕上がる印象を強く受けている。それこそが古くもない、新しくもない、Df特有の何かを描き出しているように思える。Dfは古くからNikkorレンズを楽しむ人たちがそのオマージュ的に購入しているのが大半だと思うけど、この独特の世界はぜひこれまでNikonに縁のなかった人たちにも体験してほしい。ボディはフルサイズだけに少々値がはるけど、MFレンズたちは比較的手に入れやすい価格で入手できる。この現代に蘇ったフィルムとデジタルのハイブリッドは、まさに文字通り混血ならではの新鮮さを撮り手に強く語りかけてくると思う。ちょっと写真観が変わるような軽い衝撃を感じずにはいられないインパクトを持ってしてね。

ライカM3と50mmにいつも立ち返る。

28mmや35mmで撮り始めると”50mmはちょっと狭いかな”と思ったりする時がある。といっても一眼レフの話でね。そんな時にライカM3に持ち替えると、すんなり50mmを受け入れられるというか、あゝ50mmはやっぱり原点的何かがあるかもと思うんだよね。

同じ50mmでもファインダーの外側が見えない一眼レフと、50mmの外側もファインダーの中に見える世界の違いなのかもしれない。だから、いろんなカメラや画角で撮ったら、このM3で感覚を常にニュートラルにしようとしているじぶんがいる。数あるカメラの中でライカM3が特別だと言われる所以があるとするなら、そういうところなんじゃないかと思う。

ライカM3はご存知の通り、50mmのために作られたようなカメラで、35mmだとブライトフレームが使えない。ファインダーの外枠いっぱいが35mmの目安とも言われるけど、そうするとブライトフレームの外側の世界が見えず、レンジファインダーのよさであるフレームの外が見える恩恵は味わえない。35mm用の外付けファインダーを装着する手もあるけど、僕はどうもあの外付けファインダーの佇まいが苦手だ。つまり、あのM3のファインダーは50mmのために作られている。なぜ50mmなのか、それは分からないけど、ライカは50mmを標準にした。その奥深さはたぶんこのファインダーをのぞいて撮るしか分からないし、言葉にしようがない。

仕上がる写真は同じ50mmなら一眼レフとレンジファインダーに差はないはずだけど、僕の中ではやっぱり異なるというか、M3で撮る50mmはなんというか別物だし、すべてのカメラのハブみたいな存在といえばいいだろうか。ほんと不思議で魔力を持つカメラだと思う。僕がつけている50mmはライカ製ではなくてカール・ツァイス プラナーだけど、このマッチングもとても気に入っている。M3には新たにレンズを買い足すつもりはまったくなくて、ライカで撮ること=プラナー50mmで撮るということで、いろんなカメラを使っても、ここが僕の帰る場所、そんな思いがある。