35mmと38mmと50mmとズーム。

みんなレンズ欲旺盛だなと思うんだけど、僕はむしろレンズはカメラにほぼ固定している。平日のスナップの友Konica C35はそもそも38mmヘキサノン固定だからレンズの換えようもない。でもこれが潔い。C35で撮ること=38mmで撮ることだから、C35の画角の感覚がいやでも自然と身についてくる。その他のカメラも基本、Nikon F2は35mm付けっぱなしだし、Leica M3も50mm付けっぱなしだ。そうすると、カメラを持ち出す時は自動的に画角も決まり、じぶんの中でとても分かりやすい。

たしか田中長徳さんが本で書いていたと思うんだけど、カメラ(ライカ)にはひとつのレンズしか装着せずに、それで撮るしかない状況にしたほうが撮影感覚も上達するし、何より交換用レンズ収集のコストも抑えられる。カメラやレンズの組み合わせを縦横無尽に楽しむという手もあるけど、僕には長徳さんがいうところの「ひとつのカメラに、ひとつのレンズを固定する」という発想のほうがしっくりきた。

その他のカメラと固定レンズということでいえば、RICOH GRは35mm換算で28mmのGRレンズが固定、あとはNikon D300には35mm換算で27mm-300mmのズームレンズが一本、これにたまにマニュアルでNikon FE用の固定レンズ50mm(35mm換算で75mm)を装着したりしている。でもこれくらいだ。僕の中では少数精鋭というか必要最小限のミニマルなラインナップ。じぶんの性格的にもこれ以上レンズを増やしても使いこなせるレベルまでいかずに散漫になるだろうなと、なんとなくじぶんのことが分かっている。あと買い足すとしても24mm広角くらいかなと。

そんなだから、まめにレンズ交換を楽しんでる人を見ると凄いなと思う。たぶん、僕の過去のレンズ収集のトラウマと面倒くさがりな性格も作用してると思うけど、カメラとレンズは一体で使うのが分かりやすくて使いやすい、というのが僕の今の気分。そして、それは意外といいところに収まったなという気もしている。僕らしいという意味で。

フィルムのプリントはネガからした方が美しい。僕はデータからしちゃってるけど。

家族の写真をプリントするのに、いつものカメラのキタムラへ。たまたま空き時間にふと思い立ってキタムラに寄ったので当然ネガは持ち歩いておらず、iPhoneの写真ロールに保存されたデータから写真を選んでプリントする。デジタルデータからのプリントはほんとあっという間に仕上がって、10分もすればプリント写真を受け取れるから、なんとも驚異的だ。ただし、気がかりなことがあるとすれば、その写真データとはフィルムで撮ったものということ。支払いの時にちょっと年配の男性店員さんに話しかけてみた。

「フィルムのプリントは、やっぱりネガからしたほうが本当はいいんですよね?」…店員さん「そうですね、データだと300万画素くらいに圧縮されていますが、ネガならカメラにもよりますが大体500万画素〜800万画素くらいあるのでデータからよりきめ細かくプリントできますね」、とのこと。なんとなく分かっていたものの、こうして数値で聞くとなるほどなあと思う。ネガからプリントする時はプリントしたいカットをネガに印をつけるんですか?と聞いてみたら、それでもいいし、インデックスに印をつけてネガを渡せばいいと言ってた。なるほど、そのほうが手軽そうだ。

とはいえ、几帳面ではない僕はネガの管理もきちんとできていない。かっこよく言えばソール・ライターのように無造作に部屋の隅にキタムラの袋に入ったまま積み重ねられている。この山の中からネガを探し出してプリントに出すというのはなかなか至難の技だ。みんなどうしてるんだろうなと、ふと思った。すべての写真をプリントするスタイルなら、現像してデータ化する時に同時にプリントすればいいから分かりやすいが、後日こうして必要なカットだけプリントを注文するとなると、なかなか僕のような面倒くさがりの人間には荷が思い。でも、一度試してみようかなと。データからプリントしたものと同じカットで、ネガからプリントしてみる。そうして見比べてみて、フィルムの味というものを再確認してみたいという気持ちがある。ネガフィルムからプリントしている正統派の人からすると何バカなことを言ってるんだと言われそうだけど、デジタルからフィルムへ移行した人って意外と僕のような作法になっちゃってる人いるんじゃないかな。ともあれ、またひとつ学びの機会ということで。

毎日更新される田中長徳さんのブログ「チョートクカメラ塾」は、密かなバイブル。

僕が田中長徳さんのことを初めて知ったのは、三年ほど前にデジタル一眼レフを手に入れた際に参考書的に買ったKindle本「カメラは知的な遊びなのだ」と「カメラは詩的な遊びなのだ」という長徳さん著書の二冊の本に巡り合ってから。僕がよく使う”散歩カメラ”という言葉はこれらの本の中で長徳さんが推奨していたもの。この本の中では銀塩カメラのよさも触れられていたけど、当時の僕はまったくフィルム撮影に興味がなかったから、田中長徳さんがいかに著名な人であるかも知らなかったし、この本を読んでる時は著者のことはあまり気にもしていなかった。

それから2年半ほど経過し、ひょんなことから僕はフィルムカメラを始めることになる。最初にNikon FEを購入した後、Leica M3を手に入れる。この時もとにかくフィルムのこと、Leicaのことに無知だったから、とにかく参考になりそうな本を探した。そして、再会したんだ、田中長徳さんの本に。「ライカ・ワークショップ」「ライカはエライ」「カメラはライカ」、どれを読んでもとにかく痛快で気持ちよかった。そして、その著者である田中長徳さんの存在を今度は強烈に覚えたのである。とにかく長徳さん節は気持ちいいくらいご自身のものさしでズバズバとカメラや写真界を斬ってゆく。そこに遠慮はない。遠慮して文章がファジーになることを嫌っている感じがビンビン伝わってくる感じ。あ、これは本音のバイブルになるなと僕は感じた。

その田中長徳さんが実はブログを毎日更新されている。「チョートクカメラ塾」。短文だけど、毎日テーマを変えて読み切り型のカメラ塾を開催してくれている感じだ。これがまた素直と言うか本音ベースで、僕のようなビギナーには実にありがたい情報の数々。このブログを見て思うのは、田中長徳さんはもう無償の愛で世の中にカメラのこと、写真のこと、じぶんが知っていることを伝えようとしているんだろうなということ。きょうは135mmのレンズのことについて書かれていたけど、ストレートにその意図が伝わってきたし、実際135mmレンズが気になる存在になった。ブログをさかのぼってみると、とにかく参考になる記事ばかり。まさしくカメラや写真を極めたひとの叡智を垣間見ることができるとても豊かなブログだと思う。

カメラとか写真というのは解釈の幅がそれこそ無限のようにあって、言う人言う人のすべてを追いかけていたらとてもじゃないけど吸収しきれない。すべての人のすべてのスタイルを追いかけるよりは、尊敬する一人の人のカメラや流儀みたいなものを真似たほうがいいんじゃないかと思うようになり、僕にとっては今、田中長徳さんがその真似たい一人のお手本なのである。そういうと恐れ多いけど、まあもっとフランクにいえば、勝手にじぶんのカメラの先生として位置づけているのである。長徳さん以外にもそんな風に意識している人が二、三人いるけど、なかでも長徳さんがその筆頭。僕がいい歳になり、年齢的に共感できる部分が増えたせいかもしれないけど、とにかく素直に僕の心に長徳さんの言葉がしっくりと入ってくる。カメラを始めたものの、何を頼りにしていいのか迷ってる人とかは、この長徳さんの発言を追いかけていくとおもしろいんじゃないかな。なんというか、まっすぐな気持ちになれる、そんな本やブログです。ぜひお試しを。

 

とにかくひたすらシャッター音が聴きたい。そんな時にデジタルは僕を満たしてくれることを再確認した。

きょうで大人の夏休みも最終日。愛犬のしつけと世話でなにかと忙しい6日間だったけど、やっぱり最終日はカメラと過ごしたいと思い、午前中はLeica M3と、雨宿り後、午後はNikon D300と散歩カメラしまくった。

Leica M3の静かで厳かな撮影体験を楽しむと、その真逆の少々威勢のいいシャッター音が聴きたくなる。しかも、夏休み最終日ともなると、シャッターを切りまくりたい。そうなると、デジタル一眼レフは実に正義だ。デジタルだと撮りすぎるという傾向はたしかにあるけど、僕の場合のデジタル散歩カメラは、そもそも何かを撮りたいというより、ひたすらシャッター音を聴きたいというところに意味があると、きょう思った。

何枚撮ったかも分からないほど、シャッターを切った後の心地よさは、ちょっとしたスポーツのような爽快感がある。そのあたりの感覚は一枚一枚をゆっくりと撮る機械式のフィルムカメラとは趣が異なる。ここのところフィルムカメラにハマって、どこかフィルムに偏りすぎていたじぶんがいたのかもしれないけど、あらためてデジタル一眼レフもやっぱりいいもんだなと。特に僕なんかは写真も好きだけど、それ以上にシャッターを切るという行為が好きだ。そういう人間には、デジタルはぞんぶんに満足感を与えてくれる。

フィルムカメラのサブ機じゃなくて、フィルムとは異なる立ち位置で楽しみを見つけつつあるデジタル。再びデジタル一眼レフに戻ってきてよかったなと、いまあらためて感じている。フィルムにはフィルムの味わい、デジタルにはデジタルならではの爽快感。どちらもそれぞれ異なるよさがある。そして、それを素直にこうしてブログに書けるような意識になったことがうれしいな。カメラの世界がさらに大きく広がった感じ。思い立ったら、直感を信じてやってみる。そういう自然な好奇心の大事さみたいなものを再発見する夏になった。

フィルムの鮮明じゃない感じが、おぼろげな記憶と近いんだ。

この写真は7月の終わりに息子のキャンプファイヤー前の薄暮をFUJI FILM Natura1600で撮ったもの。カメラは絞り優先オートで撮れるNikon FEに50mm/f1.8のレンズで、たぶんのこの写真は暗くなる前だから感度800の絞り開放で撮ったんじゃないかな。この後、夜のキャンプファイヤーも鮮明ではなかったけど炎の薄明かりでちゃんと撮れてたから、やっぱり高感度フィルムのNatura1600はやるなあと思った。

で、その”鮮明ではない”という話なんだけど、Natura1600で撮ったものは特に粒状感があるし、写真として綺麗かと言われれば綺麗ではない。でも、記憶としてはとても綺麗なんだ。鮮明であることは、ある種、記憶とは正反対なのかもしれない。フィルムで撮った写真が好きなのは、よくその風合いという言葉が持ち出されるけど、もう少し正確に言えば「その鮮明でない様子が、おぼろげな記憶とむしろ近い」ということにひとは惹かれるんじゃないかなと。いま目の前の光景を画像としてシェアするなら鮮明な写真(画像)でいいんだけど、少し過去をさかのぼるとなると、それは時間をたどり記憶を呼び起こす行為で、それは鮮明すぎるとちょっと脳とギャップを起こす。そんな気がした。

理詰めで書くとそういうことなんだけど、ふだん僕らはそんな複雑なことを考えて写真を見ていないから、そこは感覚的にフィルム写真のよさを解釈してるんだと思う。そう考えると、フィルム写真のよさというのはあまりデジタルの進化やスマホテクノロジーの未来に取って代わられるような存在ではなくて、別物だなと。今を撮って今をシェアするならデジタル、記憶として残すならフィルム、そんな使われ方が自然なんじゃないかと思ったんだけど、どうだろう。

記憶としては鮮明じゃないほうがいい、とすれば、デジイチで撮った息子の写真なんかも、なんというかフィルム変換したくなるというか、そうそう、誰かがやがて、デジタルをフィルム変換してくれる装置を作ってくれるんじゃないかと少し期待してる。フィルムにするのは後退することじゃなくて、記憶化することだからね。

僕はレタッチするのが嫌だから、フィルムが好きなのかもしれない。

僕は撮った写真に後から手を入れるという、いわゆるレタッチというものをちゃんとしたことがない。これにはいくつかの理由がある。まず、僕が面倒くさがりということ。ふだん僕が撮る写真たちはごくごく普通のスナップだし、それをわざわざレタッチする時間を確保してまでいじるという観念が僕にはない。あと、どうも僕はレタッチされた写真があまり好きではないようで。他の人が撮った写真でも、レタッチしましたと分かる写真にはほぼ惹かれない。正確にいうとレタッチしたことを感じさせない写真が好きということかな。とはいえ、デジタルで写真を撮ると、どうしても写りすぎるというか生々しすぎるというか、あの質感も好みではない。だからだと思うけど、僕がデジタルで撮る時はモノクロで撮ることがほとんどだ。考えてみると、僕がデジイチを過去にやめてGRでモノクロばかり撮り始めたのも、そのことが多いに影響しているかもしれない。

そうしてたどり着いたのが、フィルムだった。最初はフィルムでもモノクロが撮りたかったんだけど、モノクロ現像機があるラボが近くには無くて、物理的に可能なカラーネガフィルムを始めた。最初に手に入れたフィルムカメラNikon FEで撮り方も分からず恐る恐る撮ったんだけど、そうするとこんな写真たちが撮れたんだよね。

今となってはどんな絞りや設定で撮ったのかも定かじゃないけど、正直驚いたんだよね、その写りに。あ、いいな、フィルムの質感って、てね。フィルムはいちばん安いFUJI業務用だったし、カメラは一万円もしない年代物だったし、何より露出なんかもちんぷんかんぷんだったにも関わらず、フィルムは大きな包容力で僕にとっては想像以上の写真を生み出してくれた。このフィルムの質感になんというか心奪われて、その日以来、フィルムで撮った写真は一枚もレタッチなどしたことがない。

他のひとたちがどうしているかは分からないんだけど、もともとレタッチが好きではなかった僕がフィルムに出会って、もうたぶん僕は一生レタッチとは縁がないんじゃないかと思う。特に作品を撮ってるわけじゃないし、家族の写真なんかは逆に手を入れたくないというか、その時のありのままの日常を残したいと思うから。だから、この先の僕はフィルムを変えて写真の質感の違いを楽しんだり、撮るものそのものや撮り方を試行錯誤しながら写真の質感が変化することを追いかけていくんだろうなと思う。

とはいえ、それもあくまで今の僕が考える心境であって、この先それも変化していくのかもしれない。だって、フィルムで撮るなんて面倒で想像もしていなかった僕が、いまこんなにもフィルムにハマっていたりするし、一度はやめたデジイチを買い直してマニュアル撮影やモノクロ写真を楽しんでるわけだからね。にんげん、ほんと、明日のことか一年後、数年後のことなんて分からないから。というわけで、いまの気分の記憶として。

フィルムカメラと出会えてよかった。写真の初心に帰れたからね。

僕の愉快なカメラたちは7台になった。正確に言うと一台は壊れちゃったから6台か。フィルムカメラが4台と、デジタルカメラが2台。フィルムカメラは購入した順に、Nikon FE、Konica C35、Leica M3、Nikon F2。そして、デジタルカメラのほうはRICOH GR、Nikon D300だ。一年前にはRICOH GRだけだったことを考えると少々”沼”にハマった感は否めないけど笑、でももう一度カメラとじっくり暮らしてみようと思わせてくれたのはフィルムカメラたちとの出会いなんだよね。でなかったら、一度はすべて手放したデジタル一眼レフをもう一度買い直すなんてことはきっとしなかっただろうから。

フィルムカメラと出会うまでの僕は、なんというかカメラの歴史や写真を撮る仕組みみたいなものをまったく知らなかった。もちろん、そんなこと知らなくたって最新のカメラでシャッターを押せば、搭載された最新性能のおかげもあって悪くない写真が撮れるわけだけど、それは僕にとってはいい絵を撮ろうという作画みたいなもので、”写真”を撮るということとは異なる行為だったんじゃないかと、今は思う。うまく言えないけど、写真の中に体温みたいなものが欠けていたんじゃないかなと思う。今も体温みたいなものを封じ込めた写真が撮れているかというと怪しいけど、それでもそういうことを意識してカメラや写真と向き合っている実感はある。

誤解を恐れずにいえば、撮影テクニックやかっこよさみたいなものをあまり気にしなくなった。むしろ作為的なかっこよさよりも、いまリアルにじぶんの目の前にある世界の普通さとか温もりとか秒針の経過みたいなものを気負わず素直に切り取りたいと思うんだ。そして、そういう人間味みたいなものが封じ込められたものこそ”画像じゃなくて写真”であり、古くはフィルムを開発した人、それを写すカメラという道具を考えた人、そうした意図にすごく共感して魅せられた人たちの手によって、写真という文化は形成されたんじゃないのかなって。実際はどうかは分からないけど、僕はそう解釈したし、フィルムカメラに出会った時にそういう衝撃というか気づきをもらった。フィルムに凝り始めると、そうした写真の文化とか、それをより豊かにしようと進化を重ねてきたカメラ関係者の人たちの熱さみたいなものを自然と感じ始めるようになるんだよね。で、それを当時のカメラを実際に手にすることで確かめたくなる。フィルムカメラに出会うとハマるのは、写真の原点や初心みたいなものに自然と立ち返っていくプロセスなんじゃないかと思うんだ。

フィルムが再現しようとしている色や風合い、それを作り出す露出の仕組み、その息吹が今も継承され続けたカメラたちの進化の歴史。そういうものに触れると、写真を撮ることがものすごく厳かなものに思えてくるんだよね。僕の場合は、もう一度フィルム色で家族の記憶を撮りためたいと思った。いま、ふたたび、家族とどこへ出かけるにも必ずカメラは一緒だ。そしてそれは単なる記録写真じゃなくて、記憶の写真として僕らシャッターを切っている。そんな意識になると、もう上手い写真とか下手な写真とかそういうテクニック的なことはゼロとは言わないけどどうでもよくなるようなところがある。少なくともプロではない僕の写真は、僕や家族が見て心がほっこりする写真であれは”いい写真”なんだと考えるようになったんだよね。

他の人たちが撮った写真なんかを見ても、上手く言えないけど”そういう気配”のあるものに惹かれるようになった。だから、ちょっと作為的な写真は苦手だったりする。むしろ、”キメていない写真”に心惹かれるんだなあ、フィルムを始めて以来の僕の写真を眺める意識としてね。キメるんだったら、もう圧倒的にキメてくれ、みたいなね。写真を始めてまだ3年程度の僕がなんか知ったようなことを言うのは恥ずかしいけど、でもそれが今の僕の心情だし、そうした本音がさらりと書けるのがじぶんのブログのよさでもあるかなって。

家族の写真は他人に見せるものではないので、このブログにすら披露はしないけど、僕は家族の写真がいちばん好きかな。そして、その感情こそが写真文化をここまで温めてきた何かだと思っている。フィムルカメラというのは始めてみるまではなかなか敷居が高かったりするのだけど、デジタルカメラをやっていてなんか写真を撮ることに意味を見失ったりした時、なんか人間の温もりみたいなものが欠けていると感じた時には、フィムルカメラを始めてみるといいと思う。なんというか、「写真の初心」みたいなものにきっと立ち帰れる何かに遭遇すると思う。

久しぶりに撮ってみたデジイチは、機能が複雑でクラクラした笑。

それでも僕が買い直したデジイチD300は最新のものと比べればずいぶんと機能がシンプルなはずなんだけど、フィルムカメラに慣れっこになり、一年以上ぶりにデジイチに触った僕にはすべてが複雑に思えた。逆にいえば、いかにフルメカニカルシャッターのフィルムカメラたちがシンプルかってことなんだけどね。

取説嫌いの僕は、まずもってあの数百ページに及ぶ説明書を見るのが苦痛なんで、過去のD750時代の操作ロジックなんかを思い出しながら触り始めるわけだけど、あらためて思うにこんな多機能なカメラをフルに操れる人はいないんじゃないかと思うし、もっと言えば写真を撮るのにこんな複雑な機能は必要ないなと。感度を決めて、絞りを決めて、シャッタースピードを合わせれば、あとはピントを合わせてシャッターを押せば写真は撮れる。そんな写真本来の露出を決めて撮るシンプルな撮影に慣れた僕には、デジイチの多すぎるボタンと横文字機能に頭がクラクラしたんだ、本当に笑。

まあでも気を取り直して、マニュアルモードにしてみる。そうすると、フィルムカメラのように少し落ち着いてきて、感度、絞り、シャッタースピードを決めて、あとはピントをマニュアルで合わせてシャッターを切ってみる。そうすると、体感露出でシャッターを切った写真がその場でモニターで確かめられるわけで、これはおもしろいなと思った。感度400のフィルムをイメージして、絞りとシャッタースピードを微調整しながら数枚撮り比べると、露出を一段、二段切り替えることで写真のあがりが変わっていく様子が手に取るようにわかって、これはたしかに勉強になる。しかも、コストはかからない。今回はAFズームレンズで試してみたけど、次回はMF単焦点レンズでまさにフィルムライクにマニュアルで撮ってみようと思う。

もちろん、デジイチのハイテクさはそれはそれで便利で頼もしいから、息子のスポーツシーンの撮影なんかはAF、AEで望遠ズームも使っていきたい。今回の僕のデジイチ再購入は、以前とは違って、肩の力を抜いてデジイチを楽しみたいと考えたから、レンズは広角から万能タイプのNIKKOR AF-S 18-200 VR IIを一本買い足したのみ。単焦点はフィルムカメラで使っているAiレンズをつけて、フィルムカメラと共に楽しんでみたいなと考えている。そう考えると、フィルムのおかげでこうしてまた新たなデジイチの楽しみ方を発見したり。本当に写真は深いなあと思う今日この頃である。

デジタルからフィルムを経て、もう一度、肩のチカラを抜いてデジタル一眼レフへ。

今夜、僕はNikon D300を連れて家に帰ってきた。型番はFではなくてD、フィルムカメラではなくて実に一年ぶりのデジタル一眼レフの購入だ。思えば去年のゴールデンウィーク後に、当時使っていたNikon D750やコンデジ、レンズなんかをほぼすべて手放して以来、手持ちのカメラといえばRICOH GRとこの春から始めたフィルムカメラたちで、特にフィルムカメラにハマってからはデジタル一眼レフを再開するイメージはじぶんでもまったく持っていなかった。そんな僕が今夜、再びNikonのデジタル一眼レフを手にして家へ帰ってきたのである。

なぜか?。これはもうフィルムを始めたおかげとしか言いようがない。デジタルからフィルムへ移行した人間が、しかもフィルムにハマっている人間が、なぜ今になって再びデジタルへ帰ってくるのか不思議に思われる人も多いと思う。僕だって予想もしていなかったじぶんの意外な行動だから。でも、フィルムをやると、露出のことやレンズのこと、マニュアルでカメラを操ることなど、カメラの本質的おもしろさを知ることになる。そうすると以前は何かとカメラ任せだったデジタル一眼レフだけど、今ならMFレンズをつけてマニュアルでフィルムライクに写真を楽しむことができるんじゃないかと考えるようになったんだ。

以前D750で撮っていた頃の僕はといえば、絞り優先で撮っていたんだけど、露出のことは理屈として分かっていなかったし、ピントをはじめありとあらゆることをハイテクカメラ任せにしてしまっていたと思う。それなりには楽しめていたけど、カメラ本来の醍醐味である、露出を考えながら一枚一枚マニュアル操作でたいせつに操るというおもしろさをほとんど引き出せていなかったんだよね、きっと。そんな僕に写真を撮ること、カメラで撮ることの本当のおもしろさを教えてくれたのはフィルムカメラだった。良くも悪くもフィルムカメラは何も自動ではしてくれない。絞り、シャッタースピード、ISO感度、ピント合わせ、すべては撮り手がじぶんですべてやらなくてはいけない。でも、これがすごく楽しいと思えたんだよね、フィルムカメラのおかげで。そして、MFレンズをつけたり、露出を計ってマニュアルで撮れば、デジタル一眼レフだってフィルムライクに味わい深く撮影を楽しめるんじゃないかと思えるようになってきたんだ。

今回購入したD300は、2007年に発売された十年選手の一眼レフだ。画素数や感度こそ現代のデジタルカメラと比べると見劣りするスペックばかりだけど、フィルムライクに撮りたい僕にはむしろフィルムカメラの流れを汲むいい時代のデジタル一眼レフ。とはいえ当時のNikon APS-Cのフラッグシップ機だから、その操作感はとても上質なプロダクトであることを手に伝えてくる。そして、なんといってもフィルムカメラ時代のMFレンズを装着して楽しむことができる。いまのフィルムカメラで使っている手持ちのAiレンズをつけてデジタル一眼レフを楽しむことができる。それは不変のNikon Fマウントならではの楽しみ方でもある。このブログの写真は、中古カメラ店で装着してみたAi 単焦点50mm、自宅に持って帰ってからもAi 単焦点35mmを装着してみたけど、なかなかレトロでいい味わいのフォルムになる。試し撮りはこの週末までのお楽しみだけど、この週末といえば夏休みでちょっとした長めの休みをとることができる。早速、35mm(APS-Cだから35mm換算で約50mmの画角)のMFオールドレンズをつけて散歩カメラを楽しみたいと思う。そして、機械式フィルムカメラのNikon F2やLeica M3と撮り比べをしながら、フィルムとデジタルの両方の写真の楽しさを存分に楽しみたいと考えている。

デジタルでも、オールドレンズ&マニュアルで撮れば楽しいんじゃないか。フィルムで撮るようになって思うこと。

きょうは久しぶりにデジタルのことも少し書こうかと。僕がデジイチで撮らなくなってから一年と少し経つ。デジタルのGRでは今でもたまに撮るけど、メインはこの春からフィルムカメラだ。フィルムはたしかに楽しい。フィルムらしい空気感のある写真の仕上がり、そしてメカニカルなカメラをじぶんで動かすおもしろさ、僕はすっかりその魅力にハマってしまい、もともと数をたくさん撮るほうだったけど、フィルムでも日々スナップ写真をたくさん撮ることを楽しんでいる。でも、よくフィルムやってる人から聞こえてくるのは、やっぱりそのコスト。フィルム代はお得なフィルムを選ぶことでやりくりできても、とうしても現像代やデータ化代はかさむ。自家現像すればいいのでは、というのもあるけど、忙しい毎日の中でそこまでカメラに時間を割けない人のほうが多いんじゃないだろうか。フィルムは好きだけど、フィルムにはそれなりにコストがかかる。ここはカメラを気軽に楽しむには実はなんとかしたいところでもあると思う。

そこで、デジタルの話なんだけど、よくよく考えると、デジタルがこれだけ世の中で支持されるのは、ランニングコストを気にせず大量の写真を撮ることができ、しかも撮ったその場で仕上がりを確認できるという点で、それは現代を生きる人間の特権として有効に使っていいんじゃないかということ。そう、デジタルのいいところだけを拝借して、カメラ本来のマニュアル操作感やMFのオールドレンズをコストを気にせず存分に楽しむということは実はかなりいいとこ取りのカメラの楽しみ方なんじゃないかということ。僕がデジタルをやっていた頃にもったいなかったなと思うのは、ほぼオートで写真を撮ってしまっていたこと。一眼レフを絞り優先で撮ってたんだけど、露出の知識もなかったし、感度のことも無頓着だったから、ボケの美しさやレンズ交換なんかはたしかに楽しんでたけど、感覚的にはスマホカメラの延長線上ぐらいでしかカメラの楽しみを引き出せていなかったと思う。でも、多少なりともフィルムカメラでマニュアルで撮る知識ができた今なら、例えデジタルでもカメラを操る楽しさは満喫できるんじゃないかと思うんだよね。しかも、レンズだってマニュアルに慣れっこだからオールドレンズをつけて楽しむことができる。

たしかにフィルムカメラは楽しいけど、楽しさと引き換えとはいえ、いまのフィルムにかかるコストはちょっと割高すぎる。フィルムは好きだけど、コストのことが気になってフィルムを心の底からなかなか楽しめないという時は、デジタルをマニュアル&オールドレンズで楽しめばいいんじゃないかな。フィルムらしい写真の質感こそ完全な再現は難しいかもしれないけど、それ以外は間違いなくデジタル時代に生きる恩恵を存分に得られる。僕はフィルムを始めたばかりで、まだまだ学びとしてもフィルムに集中したいとは考えてるけど、ある時期かきたらもう一度デジタルを手にして、今度はマニュアルでカメラの楽しさをフルに引き出して楽しんでみたいなと考えている。いや、もっと早い時期にそれはやってくるかもしれない。ラティチュードの狭いデジタルなら露出の学びにもなるしね。デジタルだって、フィルムだって、どっちだっていい。大切なのは、大好きな写真を躊躇することなく好きなだけ撮ることができて、カメラを操る楽しさをマニュアルで最大限に引き出してやるってこと。デジタル→フィルムときて、もう一度デジタル時代に対して思うこと。