カメラは使ってみないと分からないから、一時的には増えてくけど、その後これぞというカメラに絞れていくんだろうね。

Nikon Df, 50/1.4D

カメラなんて一台あれば事足りるし、予備でもう一台持っておいたとしても二台もあれば十分だ。それでも多くの人がとても使い切れないであろう台数のカメラとレンズに手にする理由とは…それはやっぱり「カメラは使ってみないと分からないもの」ということなんだろうと思う。

もちろんフォルムに惹かれて所有したいと思うこともあるけど、多くの場合は「そのカメラならもっと理想とする写真が撮れるんじゃないか」とか「そのカメラのある生活を思い描くと心踊る」というシーンを心に抱き、ひとはまたひとつ新しいカメラやレンズを手にするんだよね、たぶん。

そうして実際に手にして使ってみると、ようやくじぶんとそのカメラやレンズとの相性が見えてくる。そこからひとはどのカメラを軸にしていけばいいか、少し未来みたいなものが見えてくる。そして、いわゆる断捨離へと進んでいく。本当にじぶんにフィットする最小限のボディやマウントに行き着き、そこを深めていくというプロセスということなんだろうね。だって一人のにんげんが使えるカメラには限度があるし、使い切れない数のカメラとレンズと時間を共にすることは少しフラストレーションにもなる。僕はそうだった。僕も今はいろんなカメラを試し中。そういう意味では少しカメラが増えすぎた感は否めないけど、これは過程であってじぶん探しの旅のようなものな気がする。

最終的には二、三台のカメラとつけっぱなしのレンズに絞れていく気がするし、たぶんそれは機械式カメラなんだろうなという思いがある。あ、でも、それはフィルムがいつまでも生き残ることが前提だから、そうではない様相を呈してきたらデジイチが手元に残る気もするし、時代ともにらめっこかな。まあ、なんにしてもそこまでのプロセスも楽しみだし、たどり着くであろう世界もまた楽しみなのである。それがカメラなんだろうね。

何を撮ったか忘れたフィルムの現像は、かなり楽しみな出来事だったりする。

Fuji Film 業務用100

フィルムを入れっぱなしだったLeica M3をようやく撮り終え、フィルムがFuji業務用100だったことが判明した。判明したと言うと大袈裟だけど、ISO感度が分からなくなると少々不安だったりするので、カメラの背面にあるISO感度記録メモダイヤルを利用しようと思う今日この頃である。

で、そのフィルム一本だけを昨日現像に出してきた。フィルムを使い切ろうと撮った後半の数枚は何を撮ったか分かるんだけど、その前の十数枚は何を撮ったかさっぱり思い出せない。まあ、業務用100を入れてたということは、たぶんふだんの週末のなにげない散歩写真だとは思うんだけど、それでもファインダーをのぞいた時の印象を覚えていないというのは、ちょっとしたビックリ箱を開けるようで楽しみなのである。

フィルムのことでいうと、僕の常用フィルムはFuji業務用100なんだけど、たまに少しここぞと思う時はFuji PRO400hだったりFujichromeリバーサルフィルム、あとはC-41現像できるモノクロフィルムILFORD XP2 400を使う。最近気になってるのはLomoの3本パックで¥1,000しないフィルム。銘柄は忘れたけど感度100だったかな。原作受け取りついでに1パック買ってみようかな。

そういえば、クレジットカードと航空機マイルが一年分たまってるだろうから何かに引換えなきゃだけど、今年もフィルム代や現像代にあてようかな。去年は特に現像/データ化代金であっという間にポイント無くなったけどね笑。冷静に考えたらそのポイントでカメラやレンズでも買えそうな額で、そのたびにもっとデジタルで撮る比率を上げようかなと思うんだけど、気がついたらあのフィルムカメラとフィルムの感触にやられて、フィルム生活からは抜け出せない。いや、別に抜け出したいわけじゃないけど笑。でも、どうだろう、趣味としては実はそれほどお金がかからない部類になるのかな。考えたら趣味の世界ってそれぞれどれくらいのコストがかかるんだろうね。ちょっと調べてみよう。カメラを肯定するために、なんてね。

考えてみると、Nikon Dfに50/1.4Dをつけたのは初めてかもしれない。

Nikon Df, 50/1.4D

新年も3日目。しっかり晴れてくれて心も晴れやかになれる。ありがたい。そんな気分のまま朝の愛犬との散歩カメラへ。カメラはNikon Df、レンズは50/1.4D。考えてみると、初めての組み合わせかもしれない。Dfの常用レンズはキットレンズの50/1.8G Special Editionなんだけど、今朝はもう1つのAF単焦点のDレンズにしてみようと、ふと思い立った。

Nikon Df, 50/1.4D

装着してみると、なかなか似合う。Dfにはやっぱりクラシカルなデザインのレンズがしっくりくる。マニュアルで撮る時はいつもAiレンズをつけてたんだけど、このDレンズもなかなかカッコいい。Gレンズより太さがひと回り細くボディとのバランスがいいのと、AFの挙動もジッジッとアナログチックで悪くない。

Nikon Df, 50/1.4D

開放付近で撮ると、オールドレンズっぽい緩さとどこかフィルムチックな写りをしてくれる。さすがにf1.4付近は日中だとシャッタースピードが足りない感は否めないけど、少し絞ればなんとか撮れる。というか、これはこれで雰囲気は悪くないなという写り。

Nikon Df, 50/1.4D

なんてことない散歩道の道端だけど、こうしてレンズをチェンジして撮り歩くと新鮮な気持ちになるから、やっぱり散歩にカメラは相性がいい。ファインダーの中の露出を確認しながらいろいろ試し撮りしながら歩くと、あっという間に時間が過ぎてゆく。

Nikon Df, 50/1.4D

結局、F2.8あたりで撮ることが多かったかな。僕の持つAiレンズたちが35mm、28mmとF2.8だから、そんなことも比較しながら撮り続けた。絞るとNikkorらしいシャープでカリッとした描写になる気がする。

Nikon Df, 50/1.4D

モノクロも試してみた。というか、モノクロのほうがいい感じかもしれない。Dレンズはそんな古いレンズでもないけど、現行レンズと比べるとやはりそこはヴィンテージ感があるんじゃないかと。実際撮ってみると、わずかにそういう時代の空気を感じた。

Nikon Df, 50/1.4D

もう少し絞ってみようとたしかf8くらいで撮ってみたんだけど、帰宅してMacBookの画面で見たら、そのシャープさに驚いた。僕は緩めの写真が好きだけど、これはこれでたまらない。レンズのこういう意外な一面を見つけるとなんというかレンズが愛おしく思えてうれしい。

Nikon Df, 50/1.4D

Dレンズって新しくもない、古くもない、なんか中途半端なレンズに思われがちかもしれないけど、僕はF6用に購入したこのレンズ50/1.4Dがけっこう好きで、開放付近のあの二重ボケなんかは、綺麗ではないけど心を少しザワザワとさせる魅力がある。一方で絞ると、違う顔を続々と見せてくれる。

Nikon Df, 50/1.4D

フィルムとデジタルの狭間で揺れ動いた時代を生きたレンズだからか、そのどっちもの描写感を行き来できる不思議な感覚がこのDレンズにはあるような気がする。いい意味で曖昧さを持ち合わせたレンズとでもいえばいいのかな。

Nikon Df, 50/1.4D

世は超高画素の時代だったりするけど、僕の緩いカメラライフならDfくらいの画素数で十分すぎるし、こういう古いレンズでこれだけ撮れれば言うことはない。というか、僕は曖昧に撮りたいから、こういうカメラやレンズを好んでチョイスしているところがある。

Nikon Df, 50/1.4D

むしろ、もっと曖昧に撮る方法を教えてほしいくらいだ。僕が撮りたいのは記録じゃなくて記憶。僕の脳みそにある曖昧な記憶と同じように、過去を振り返る写真はどこか曖昧であってほしい。カメラ開発の人たちが聞いたら怒られそうだけど、そういうユーザーもいるというのはここだけの話として。あ、でも、NikonはDfを出してくれたからね。そういうNikonには感謝してる。

カメラで写真を撮るのは五感にいいんだ。特にフィルムは。

Konica C35, Hexanon 38/2.8

さて、2018年最初の日も夜になり、いろいろ考えていたことが脳の中で形になりつつある。今夜はやっぱりカメラについて。それもフィルムカメラについて。

僕のフィルムカメラの日常的メンテナンスは、手の体温でカメラをなでてやり、各部ダイヤルなんかをコリコリと動かしてやった後、数回空シャッターを切ってあげること。あたりまえに聞こえるかもしれないけど、デジカメではあまりそういうことはしない。フィルムカメラならではの儀式だ。それは、デジカメが電化製品的であるのに対して、フィルムカメラはとても人間くさい機械に感じるから。なでたりしてやると、歓ぶ感じがするんだよね、いや本当に。

フィルムを入れる儀式もそう。あの独特のフィルムの匂いが、僕の人間らしさみたいなものを目覚めさせてくれる。そう考えると、フィルムカメラとはにんげんの五感に訴える塊のようなものだと思えてくる。視覚でいえば、あのなんとも愛おしいフォルム。ヴィンテージカーと一緒で、あの当時の技術だから生まれた直線と曲線の混ざり具合は、現代のハイテク機器にはない美意識を感じずにはいられない。

そして触覚。そのフォルムと絶妙の材質で作られたカメラたちの手触りは、もう二度と再現できないような高揚感を現代を生きる僕らに感じさせる。本当のヴィンテージとは、見た目だけじゃない、この手触りを言うんだと思う。

さらに嗅覚。フィルムの匂いもそうだけど、クラシカルなカメラたちは独特の香りを放つ。鉄の香りのような、皮の香りのような、手垢のようでもあり、その時代に染み付いたような匂いであり。半世紀も前に作られたカメラたちは、ボディに傷をため込むのと同じように、さまざまな匂いを身につけてきてるんだろうと思う。とにかく、たまらない。本能を刺激する匂いといっていいだろう。

そして、聴覚。もしかしたら、これがいちばん僕らを刺激する時代感かもしれない。巻き上げレバーの音、シャッター音、ダイヤル操作の音、レンズ交換の部品がこすれあう音、フィルムカバーを閉じる音。どれをとっても現代の最新式カメラでは決して奏でることのできない音を聴かせてくれる。この音が聴きたくてフィルムで撮ってるところもあるくらいだ。決して上品な音ではないけど、感性に訴える熱みたいなものがある。もし音をデザインするディレクターがいたとするなら素晴らしい仕事だというほかない。

と、ここまてきて、後は味覚だけど、カメラに味覚なんてないじゃん、ということだけど、僕にはそれがあると思っていて、それこそが現像上がりのネガであり、ポジであり、プリントだと思う。つまり、フィルムカメラだから味わえるあの収穫のような産物だ。これだけハイテクでデジタルなものがあふれる時代に、なにもわざわざフィルムを現像して写真を楽しむ必要なんかないんじゃないかと思うけど、あのフィルムの「味」だけは逆立ちしたってデジカメには真似できない。だからこそ、フィルムから離れられず、今なおフィルムで撮り続ける人たちがいる。僕もその一人だ。

きょう、フィルムカメラたちをメンテナンスがてらさわりながらそんなことを随所に再確認して、それはつまりにんげんの五感すべてに訴えてくる魅力なんだとあらためて気づいた。で、こればっかりは、実は言葉で説明するのはむずかしい。五感に訴えるモノだから、やはり手にして、さわって、動かして、撮って、現像してみないと分からない歓びでもある。今年あたり、フィルムに挑戦してみようかなと考えてる人は、休みが明けたら、ぜひ中古カメラ店をのぞいてその五感でフィルムカメラの味を確かめてほしい。決して少なくない人々がフィルムカメラに魅せられるのは、何もフィルム写真の味だけじゃないんだ。それを写すフィルムカメラというモノたちに魅せられてることが伝わってくると思う。僕もそれが伝えたくて、こうしてブログを書いているところもある。

とても今更なんだけど、ソール・ライターの代表作たちはリバーサルフィルムだったんだな。

Nikon F6, 50/1.4D, Velvia100

今年のじぶんへのクリスマスプレゼントは、ソール・ライターの本「All about Saul Leiter」にした。Amazonでポチろうとも思ったけど、留守の間に届くのも配達の人に申し訳ないから、いつも立ち寄る書店で購入しようと思う。

というのも、その書店で僕は何度となくこの本を立ち読みしている。その度に買う寸前までいくんだけど、なぜが買わずにここまで来た。なんとなく、買ってしまうとソール・ライターの作風に影響を受けすぎるように思ったところがある。けれど、ひと通りカメラやレンズが揃った今、来年へ向けてこれからは機材よりも写真そのものにもっと興味を持ってみようと考えていて、ふとソール・ライターのことが頭によぎった。いや、正確にいえばソール・ライターのことはドキュメンタリー映画を見てからずっと気にしていたし、渋谷の写真展には行けなかったけどずっと意識していたじぶんがいた。なので、ここは素直にじぶんの心にそって動いてみようと思った。

さて、ソール・ライターのこと、僕は些細なことしか知らないから、まずは少し情報を調べてみようとネット検索を始めたんだけど、けっこう写真展に行った人たちが多数ブログなんかに記事をあげていて、しばらくむさぼるように読んでいた。と、その時、僕はその独特のソール・ライターの撮る写真に決定的な差異を見つけることになる。それが、彼の代表作である1950年代のニューヨークの写真たちは「リバーサルフィルム」で撮られていたということ。なんか猛烈に恥ずかしい思いがこみ上げてきた。なぜ、これまで気づかなかったんだろうと、あのしっとりしたリバーサルフィルムならではの質感に。ほんと、じぶんのことがあまりに無知で恥ずかしいなと思った。

ソール・ライターの使用したカメラがライカだったらしいとか、雨や雪の日の傘やショーウィンドウの写り込みとか、そういうテクニカルなことばかりに目がいって、フィルムはカラーネガなんだとすっかり思い込み、プリントの妙なんだろうなとか、そんなことばかり考えてた。でも、70年代のNew Colorのエグルストンよりもはるか20年前に、カラーでスナップを撮っていたんだよね、ソール・ライターは。しかも、リバーサルフィルムで。少し検索を進めてみると、期限切れのリバーサルフィルムを安く手に入れて撮っていたといった記述もある。そうかと、なるほど、そこに僕が惹かれる独特の質感があったのかと。

フィルムなんてなんでもよくて、要はソール・ライターの腕前というところも相当あるのは分かってるけど、あのしっとりとした質感と色味はリバーサルフィルムだからこその世界でもある。僕は最近リバーサルフィルムを初体験しても以来、その唯一無二の世界に衝撃を受けているようなところがあって、このソール・ライターがリバーサルフィルムを使っていたことを知って、点と点がつながったというか、軽い衝撃に包まれたんだ。僕が好んでRICOH GRのポジフィルム調で撮り続けてきたこと、そしてフィルムで実際のリバーサルフィルムに出会ったこと、そしてずっと気になっていた写真家ソール・ライターがリバーサルフィルム使いだったことにたどり着いた決して小さくない衝撃。

写真に詳しい人からは、今更そんなこと言ってんのと笑われそうだけど、僕は恥ずかしながらソール・ライターが当時の写真たちをリバーサルフィルムで撮っていた事実を今更ながらに知り、あらためて彼の描いた世界をもっと探求してみたいと思った。彼はあの雨や雪のシチュエーションで感度いくつのリバーサルフィルムで撮っていたんだろうか。彼の写真はそのほとんどが縦構図の写真だから、手持ちで撮るとしたら感度100だとなかなか厳しかったはずだけど、どうだっだんだろう。しかも望遠レンズっぽいし、そうなるとピントもよく合わせられたなとか。あと、なんといってもリバーサルフィルムだとしたら、よく正確に露出を合わせられたな、とかね。もう、考え始めるといろんな彼の撮影シーンが疑問と共に思い浮かぶ。少なくともはっきり言えるのは、じぶんで試してみるということだ。曇天のシチュエーションで、リバーサルフィルムを詰めてじぶんで撮ってみる。そこにしか答えのようなものはない気がする。彼の図録「All about Saul Leiter」が手元にきたら、じっくりとそのシチュエーションを凝視して、じぶんのカメラにリバーサルフィルムを詰めて出かけてみたい。曇天の街中へ。2018年、少しテーマのようなものが見えてきた。

急がないカメラと、ゆっくり撮ろう。

Nikon Df, 50/1.8G, 撮影はiPhone

今朝も愛犬と散歩カメラ。カメラはNikon DfとオートフォーカスのAF-S Nikkor 50mm f/1.8G Special Editionだ。なんだかんだで1時間以上歩いていただろうか。何を撮るわけじゃないけど、朝の光と住み慣れた街を撮り歩くのが、僕と愛犬の週末のスタイルだ。

今年はいくつものカメラを手に入れたけど、このNikon Dfは買ってよかったと思える筆頭かもしれない。Nikon最新のヒット作であるD850なんかに比べると、もう発売から数年経つし、スペックもずいぶん劣るモデルになるのかな。それでも、僕のようにカメラに高画素やスピード、高度な補正性能を求めない、フィルムカメラで撮るような気分を求める人にはうってつけのカメラかもしれない。それは機能云々とかじゃなくて、「ゆっくり撮ることを楽しむ」という点においてね。

もちろん、Dfも現代のカメラだから連写もできる。でも、それはもしもの余裕として備えてはいるけど、それはそれでゆとりとして、撮る時は一枚一枚ゆっくり撮ることに重きが置かれている。ISO感度も、シャッタースピードも、絞りも、すべて軍艦部のボタンをカリッカリと指で動かしながら、露出をイメージして撮る。絞り優先でも、すべてオートのプログラムモードでも撮れるんだけど、できればマニュアルがいい。カメラに委ねるんじゃなくて、カメラと対等に対峙しながら共同作業として写真を撮る。そういう感覚で撮れるのがこのDfというカメラの最も愛すべき特徴だ。

世の中はそれでなくても忙しく、猛スピードで未来へ突き進んでいっている。そんな時代を生きる僕らはある意味、否応無しにそのスピードに合わせて走らざるを得ない。そんな時代の真っ只中にあって、カメラを持ってゆるりと散歩するときくらいは急かされずに歩みたい。フィルムカメラが再び脚光をあびているのも、そういうスローなところだろうし、フィルムカメラでなくともそういう「急がない心地よさ」を提供してくれるのが、このデジタルだけど「急がないカメラ」、Nikon Dfなんだな。同じようなカメラでいえば、FUJI FILMのX-Pro2なんかがそうなのかな。このジャンルのニーズは決してメジャーではないと思うけど、無くてはならないジャンルでもあると思う。カメラはハイテクである前に、とてもエモーショナルな道具であり嗜好品だからね。

デジタル前夜、フィルムを諦められない気持ちって絶対あったろうな。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji業務用100

僕がカメラを始めたのはここ3年ほど、フィルムにいたっては今年のことだから、世の中がフィルムからデジタルに変わろうとした時代の真っ只中のことは分からない。でも、容易に想像がつくのは、人々がデジカメで始めて撮って見た時に「え?なんか生っぽくて嫌だ」みたいな印象を抱いたんじゃないかってこと。その渦中にいた人たち、どうだろう。

とはいえ、デジカメは夢の新製品だったろうね。だってフィルム代はかからないし、撮ったその場で写真が確認できる。たぶん、写真をやる人たちのすべてが夢見た製品だったはずだから。でも、仕上がる写真だけは、夢のようではなかった。想像だけど、そうだったんじゃないかな。

今もこうしてフィルムにこだわって写真を撮る人たちが少なからずいるし、僕だって年をとってからフィルムに出会い、いまこうしてフィルムのありがたみを痛感している。それは、フィルムカメラのレトロな味わいもそうだけど、やっぱりフィルムでないと撮れない写真があるからなんだよね。

デジカメの進化はその後凄まじく、画質の向上、恐ろしいくらいの高感度性能、デジタル技術の恩恵であるあらゆる撮影サポート機能、どれをとっても今さらフィルムカメラを選ぶ理由なんて懐古主義以外は見当たらない。フィルムカメラが持っていたいい意味での緩さとは真逆の進化を高速で遂げ、それはたぶんAI化みたいなところまで突き進んでいくんだと思う。思うに、写真とは「フィルムで撮った写真の質感」だったものが、この20年くらいで「デジタルで撮った写真の質感」へと変わったということなんだろうね。フィルムで撮った写真の質感は、ノスタルジックなものへと置き換わっていった四半世紀と言えるのかな。

僕は近ごろ、デジカメで撮ることも多いし、嫌いじゃない。オールドニッコールをNikon Dfにつけて、あれこれマニュアルライクに写真をゆっくり撮る行為はなかなか楽しくて、デジタルでしか撮れない写真の質感をあれこれ探っていたりする。それでも、こうして少々手間暇のかかるフィルムカメラを持ち出して写真を撮るのは、デジカメがフィルム写真の質感をほぼ100%再現できるまではやめられない。ほんと、いっそフィルムの質感の写真しか撮れない(結果、自動で加工するということになるんだろうけど)デジカメが発売されればいいのにとさえ思うけど、そういう動きがないところをみると、あまりニーズは無さそうだけどね。

フィルムにしか出せない光と影、よく言われる粒状感、階調性みたいなものは、利便性という進化に飲み込まれて本当にやがて無くなるんだろうか。このフィルムでしか出せない質感の写真をこの世から無くしていいんだろうか。といってもそれは僕の思いであって、この世の多くの人の思いではないから、この世界の片隅の小さなブログの中でしか叫べないわけだけど。ふと、この写真を見て、そんなことを考えた。

デジタルよりフィルムがいいというわけじゃないけど、今しか撮れないという儚さはやっぱりある。

Konica C35, 38/2.8, Fuji業務用100

僕は今となってはフィルム派というわけじゃない。デジイチでも撮るし、撮影頻度でいえばNikon Dfで撮ることの方が多いかもしれない。でも、なるべくフィルムで撮ろうとしてるし、こうしてブログやSNSを通じてフィルムのおもしろさをひとりでも多くの人に伝えようと思うのは、

フィルムが今しか撮れないものだから。

正確に言うと、フィルムはなんだかんだで未来まで生き残るかもしれない。それはそれで嬉しいけど、年々シュリンクしていく様子を考えると、このままいけばどうだろう、あと数年、いや十数年くらいの命かもしれない。僕が期待するのはライカの存在で、フィルムライカがあるかぎり、この世からフィルムが無くなることはライカが許さないというか、そういう淡い期待もあるわけだけど、普通に考えたらフィルムの命はそう長くないと考えるほうが無難だろう。

ということは、つまり、この時代を生きている僕らは、デジタルの恩恵を最大限享受しながら、同時にフィルムを体験できる貴重な世代というか、フィルムが使える最後の数十年を生きているのかもしれない。であるなら、このフィルムという写真のルーツをやっぱり体験しておいたほうがいい、そう思うところがどこかあるんだ。フィルムカメラも然り。カメラがこれだけエレクトロニクスでハイテク化しても、その原型はフィルムカメラの構造から。カメラというプロダクトのポテンシャルをはかる意味でも、まだ使えるうちはフィルムカメラも体験しておいたほうがいいと。

フィルムで撮った写真には独特の風合いや趣があると言われるけど、僕はあれ、命が短いものに感じる儚さみたいなところもあると思う。ノスタルジックさは、単に質感の話ではなく、過ぎ去るものへの郷愁でもあるよね、やはり。僕はこれからデジタルの可能性みたいなものもすごく期待してるけど、同時にフィルムがなんとかして撮れる間は、フィルムカメラでも撮り続けたいなと考えている。今後、なんらかのかたちでフィルムが生き延びていけばそれはそれで儲けもん。でも、無くなることを前提というか覚悟して、意を決して撮るというのもどこかある。あいかわらずフィルムコストとのせめぎ合いは続くけど、そこのところはフィルムが無くなるのが先か、僕がフィルムについていけなくなるのが先か、根比べだね。でも、デジタルで撮りつつも、たまにフィルムで渇きを癒す、そんな日々がこれからも続くといいな。

3度目のリバーサル現像は、紅葉だった。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

修理に出していたF6が紅葉に間に合う時期にNikon社から帰ってきたんで、愛犬との散歩がてら、初めてふだんの散歩カメラにリバーサルフィルムで出かけてみた。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

リバーサル現像はこれで3度目なんだけど、これまで2回はせっかくのリバーサルフィルムだからと少し車で遠出して撮影してきたんだけど、今回はふだん使いでリバーサルを試したくて、週末のいつもの散歩コースで撮ってみた。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

リバーサルフィルムはFUJIのVelvia100。前回、Provia100F、Velvia50、Velvia100と3種類のリバーサルフィルムを試してみたんだけど、それぞれ良さはあったものの、美しさと使いやすさのバランスが最もとれていたのがVelvia100だったんで、数本買い置きしておいたものだ。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

なんてことないふだんの散歩道での撮影だったから、これまで感動してきたようなリバーサルらしい仕上がりが楽しめるかどうか少し不安もあったんだけど、そんな心配は杞憂というか、僕の腕前は置いといて、今回もリバーサルフィルムは僕に軽い衝撃をもたらしてくれた。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

まあ、なにより紅葉とリバーサルフィルムの相性がいいんだろうね。あまりの紅葉の美しさに、愛犬のほうのピントはまったくきていなかったりしてるわけだけど笑、フィルム好きな人たちがよく言う、紅葉はリバーサルフィルムでおさえたいというニュアンスが少しわかった気がする。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

少し暗めのシチュエーションでは露出調整をもう少し明るくしたほうがいいなとか、まだまだリバーサルフィルムのコツみたいなものはつかめていなかったりするけど、それでも撮った本人的には十分満足できる写りで、そのあたりはAF機のNikon F6のおかげかなと思う。

Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

あとは、レンズはAF 50/1.4Dだったんだけど、本当はもう少し絞ったほうがいいんだろうけど、僕はレンズのクセを楽しみたいんで、今回も開放気味でほとんどの写真を撮り、少しだけこのレンズとリバーサルフィルムの相性みたいなものも感じとることができたように思う。

それにしても、ふだんの散歩道でもリバーサルフィルムは十分魅力的に使えることがわかって、んー、これはまたコストのかさむ世界に突入してしまったなというなんとも言えない複雑な気分なわけだけど笑、ネガフィルムに比べたら僕はまだまだリバーサルフィルムの撮影量は圧倒的に足りないから、そこはもったいぶらず、こうしてたまにふだん使いにもリバーサルフィルムを持ち出しやろうと小さな決心をした2017晩秋となった。リバーサルフィルム、やっぱりこいつは魔性のフィルムだ。

撮りたいものがなくても、撮る。上手く言えないけど。

Konica C35, 38/2.8, Fuji業務用100

これはニュアンスちょっとむずかしいんだけど。撮りたくないものを撮る、という意味じゃないよ。特に明確に撮りたいものがない時でも、カメラを持ち出して辺りを撮れば、それはけっこう楽しかったり、気持ちよかったりするよ、という意味。まあ、僕はこればかりなんだけど笑。

朝起きて、さあ今日はあそこを撮りに行こうとか、家族と出かける一日を撮るぞとか、明確に撮りたいものがある時はもちろん撮り甲斐もあって痛快なわけだけど、カメラの凄いところは仮に撮りたいものなんてなくても、カメラを持ち歩いてとにかく撮れば何かが見えてくること。代わり映えのしないいつもの景色がファインダー越しにはやけに新鮮に見えたり、少しだけ遠回りして反対側から見た景色がなかなかフォトジェニックだったり、景色が同じでも好みの光がさす時間帯を発見したり。だから、僕はほぼいつもカメラを持ち歩く。撮りたいものなんかなくても。

作品なんかじゃないからかな、僕の撮る写真は。シャッターを切ることが好きで撮ってたりもするし、そもそも息子の姿を撮りたいとカメラを手にしたから誰に見せるわけでもないし、写真の多くはブログを書くために撮ってるところもあるし、つまりほんとふつうの記憶のカメラなんだ。それでもニヤリとする楽しさを提供してくれるカメラっていうのは実に偉大だなあと思う。まあ、そんな自己流ばかりじゃダメだろうと、最近は昔の偉大な写真家たちの写真を眺めたりもしてるんだけど、特にじぶんの撮る写真に変化があるとは思えない笑。撮りたいものがなくて、とりたてて腕前も上達してるわけでもないのに、それでも撮りたい気持ちだけはある。不思議だよなあ、カメラってものは。