いまの時代に、機械式カメラを作って”電気を使わないエコカメラ”として発売したら売れたりするんじゃないかと。

修理に出していたRICOH GRがなかなか戻ってこないなと思ってたんだけど、携帯電話をよく見ると委託先の修理店から電話が入ってたようだ。五年保証に入ってるものの何かしら修理代がかかるのかな。このへんがね、電気を使うカメラのつらいところ。僕のGRの場合はレンズが戻らないのと液晶が映らないことなんだけど、まあ電気的な症状なんで、仮に僕が少々機械をいじれたとしてもどうしようもない。機械式カメラだったとしても故障はすると思うんだけど、ひとまず電気的なカメラよりはシンプルで壊れにくい気がするし、それは壊れても直しやすいことを意味する。そんな印象もあって、フィルムカメラを始めてしばらくして機械式カメラを購入した。

フィルムカメラをやってる人は機械式カメラという響きはおなじみかもしれないけど、デジカメしか触ったことのない人や一般のカメラに詳しくない人は、いわゆる「電気を一切使わない機械式シャッターのカメラ」というモノがあることを実は知らないんじゃないかな。僕も知らなかった。現代の家電製品の日常的故障の連続にヘキヘキしてる人もいるだろうし、電気を無駄に使いたくないという人もいるかもしれない。だったら、この時代に「電気を使わないエコカメラ、機械式カメラ」として販売すると意外と需要があるかもなって。しかも、新製品でね。電気を使わないこと自体は決して古めかしいことじゃない。それはタイプの違いであり、非常時でも使えるカメラなだけだから。実際、機械式カメラは扱い方を覚えると、まったく不便なものじゃない。どうかな。

まあ、それくらい電気を使ったカメラが故障する感じは寂しいもので、僕はデジカメも数台持ってはいるけど、そのあたりの物悲しさをどこか抱えていたりする。かといってクラシックなカメラたちが未来永劫ずっと壊れないというのも考えづらい。機械式カメラで新製品が登場すれば、往年のカメラファンも、現代を生きる普通の人たちもけっこう選択してくれるんじゃないかと思うんだ。無理かな。できるといいな、そんな夢。

“iPhoneは綺麗に写りすぎるから、写ルンですで。”というのは分かる気がする。

写ルンですの人気を書いた記事で、若い人が写ルンですを好む理由に”iPhoneだと綺麗に写りすぎるんで”というニュアンスのことが書いてあったんだけど、とても分かる気がする。僕はカメラを始める前はずっとiPhoneカメラで写真を楽しんでいたんだけど、いちばん楽しめていたのは古きiPhone 3GSのカメラで、その後iPhoneが新しくなるたびにだんだんとiPhoneのカメラと疎遠になっていった。いま考えると、昔のiPhoneカメラは”綺麗に写りすぎない良さ”があったんだろうね。正確なことは分からないけど、どうだろう。

カメラの進化とはオートの進化と画質の進化だったんじゃないかなと思うけど、それはたしかにプロをはじめ写真に精巧さを求める多くのユーザーには刺さったのかもしれない。でも、写真の楽しみをもう少し引いて考えてみると、みんながみんな精巧さや利便性を求めてるわけじゃなくて、不便さが新鮮だったり写りすぎないところに味を求める人も一定数存在することを、この写ルンです人気再燃は気づかせてくれたように思う。

気がつくと、僕はiPhoneカメラからデジタル一眼レフを経てフィルムカメラへたどりつき、また今デジタル一眼レフと再会を果たしている。でも、ふたたび手にした一眼レフは画素数も感度も他の製品に比べたら控えめなモノたちになった。それは、僕が写真に求めるものが、あの頃のiPhone 3GSで撮っていた頃から変わらないのかもしれない。僕にとって写真とは、正確な記録ではなくて、どこか不正確なものも混ざり合った記憶なんだなと、あらためて。

僕はむしろデジタルでもフィルムのように周辺減光させられないかな、と考えている。

周辺減光。いわゆる四隅の光量が落ちる今でいうヴィネット効果みたいなものなのかな、僕は好きなんだよね、その周辺減光。でも、写真を正確に撮るという概念からすると”周辺光量落ち=周辺減光してしまう”という”劣る現象”のように語られることが多い。

この写真はフィルムコンパクトKonica C35で撮ったものだけど、とても自然に周辺減光していて、僕なんかはそれがフィルム写真の好きな大きな要因のひとつ。コンデジのRICOH GRで撮る時もエフェクト機能に周辺減光が調整できる機能があるから、好んで”周辺減光あり”をセットしている。

近ごろまたデジイチで撮るようになって、この周辺減光を意識するようになった。フィルム写真で撮るようになったから、なおさらデジタルでも自然と周辺減光させたいという思いがあるんだよね。でも先に書いたように、最新のカメラたちは”いかに周辺減光させないか”ということで技術進歩させてるから、普通に撮るとカメラが良かれと思って周辺減光しないように補正をかけてくれる。いやいや、僕は補正はいらないんだよ、むしろ周辺減光させたいんだよ、ということで今、Nikon DfとD300の機能メニューの中の「ヴィネットコントロール」を見ようとしている。選べるなら積極的に「補正しない」を選びたいと思っている。なんか素人丸出しの機能の話で恐縮なんだけど、僕はいつもJPEG撮って出しなんで、周辺減光させるなら撮る前にセッティングする必要があるんだよね。でも、どうだろう、周辺減光したほうが肉眼で見た世界に近いと思うのは僕だけだろうか。

この世はすべてバランスで出来てるから、カメラが必要なんだ。

あっという間の金曜日だから、本来なら週末を前に気分が上がるわけだけど、朝からロケットによるJアラートのニュースを目にして、さすがに少し心がザワザワしている。それもあってか、特に何かを撮るわけじゃないけどNikon Dfを鞄に入れて出社している。僕にとってカメラとはそういう存在なんだ。日々直面する不安やストレスを少し和らげてくれるバランサーのようなもの。生きていればいいことばかりじゃない、いや、いやだと思うことの方が多いかな、それでもその合間合間に落ち着ける時間やハッピーを感じられる時間を注入することで人はなんとか頑張れる。世の中は新しいiPhoneがニュースみたいだけど、もうこの成熟の域までくると、ただ写真を撮るだけならiPhoneでいいよね。でも、残念ながらiPhoneで写真を撮っても僕の心は中和されない。そこに手間とかファインダーとかシャッター音がいるんだ。僕にとってカメラとはそういう無くてはならないものになった。

まあでも僕は単焦点のほうが好きかな。シンプルで美しい。

日曜日の午後、少しだけNikon D300+18-200mmを連れ出して散歩カメラしてきた。昨日はNikon Dfを持ち出したから、今日は気分を変えてというのと、僕はカメラは適度に使ってあげるのが最高のメンテナンスだと思ってるから、それも理由のひとつ。あと、もうすぐ息子の運動会もあるから、ズーム慣れしておこうというのもあってD300とズームレンズに触っておきたかった。

暗所に弱いといわれるD300だけど、昼間は10年前のカメラとは思えない高性能さを感じさせる。特にシャッターフィーリングはDfに勝るんじゃないかというくらい気持ちいい。ひとつ難点をあげるとするなら、重さかな。フィルムカメラ慣れした僕にはD300の重さはかなり疲労に直結する。D300に望遠ズームレンズをつけると1kgは超えるんだろうか、かなり首にずっしりくる。今週末は最新機種のNikon D850の発売でTwitterなんかも実に賑やかだけど、ボディたけで1kgを超えるその重さは、僕にはちょっとないなあというのが正直な感想。どこをとってもハイスペックなその機能も、僕のような撮り方のアマチュアにはほぼほぼ使い切れないし、手に余る。そうやって考えてもNikonのフルサイズ最軽量Dfを選んだのは僕的には正解だったと思う。

D300の話だけど、D300というより望遠レンズがその重さゆえに軽快感を奪うところがあって、”あゝ僕はやっぱり単焦点レンズがいいなあ”とあらためて思った。それもマニュアルフォーカスで、明るすぎないコンパクトなF値の単焦点レンズ。まず軽量というのがいちばんだし、ズームがない分だけ画角決めやその思考もとにかくシンプルだ。それは写真を撮るうえではとても大きなことで、頭の中に画角のイメージがわきやすいし、足を使って撮り回る行動プロセスが僕には気持ちいい。あと、レンズの構成もシンプルな分、写りのほうもやっぱり研ぎ澄まされた美しさがある気がする。僕の所有する単焦点レンズはすべてフィルム時代のマニュアル仕様でオールドレンズ世代だけど、現代のデジイチに装着しても驚くほど美しい写真を僕に見せてくれる。これはもうカメラやレンズに限らず世の中の万物がすべてそうだけど、シンプルであればあるほど享受できるものは美しい。僕はそう思う。赤城さんの本”ズームレンズは捨てなさい”じゃないけど、レンズはやっぱり単焦点が撮る行為も、あがる写真もいいなあと思えるんだけど、みんなはどうだろう。

ズームレンズ、なかでも僕が所有するDXフォーマット用の高倍率ズームは、広角から望遠まで一本で事足りて便利ではあるんだけど、活躍の場は息子のスポーツシーンの撮影あたりが主で、それ以外はやっぱり単焦点で撮ることが僕のスタンダードになるだろうなあ。そういえば、そのDX用のレンズだけどフルサイズのDfにもしっかり使える。フィインダーの中の画角は35mmより狭い画角フレームでの撮影にはなるけど、万一Dfに望遠をつけたい時でも使い回せるのはいいよね。不変のFマウントの恩恵とか思想はこういうところにも地味に気配りが行き届いていて、Nikonユーザーとしてはとてもうれしい。昔はズームレンズもひところハマったけど、いまあらためて僕は単焦点レンズの呼吸のほうが好きだな。世の中いろんなものが便利になっていくけど、カメラやレンズについては不便で構成もシンプルなもののほうが、撮り甲斐があるし写真の仕上がりも美しい。もうカメラやレンズは増やさないでおこうと思ってるけど、一本だけ単焦点の望遠レンズというのはアリかもしれないな。今日もいくつか新しい気づきみたいなものがあった。カメラはその奥深さも含めてやっぱり楽しい。

カメラを持って一人旅すると楽しいだろうな。カメラと対話する旅。

本格的にカメラを趣味にしている人なら、何度もそうした旅をしているんだろうけど、僕はまだない。旅行する時にカメラは持っていくけど、旅行は家族と泊まりに出かけるくらいしかないから、そうすると家族の記念写真を撮る旅であって、一人でカメラに向き合う旅ではない。そう考えると、時間のたっぷりあった若い頃にカメラに出会ってたらもう少し違った人生になったかもなと思ったり。若い人はほんとカメラでもなんでも若い頃に濃密な時間を楽しんだほうがいいよ、それはもう本当に。

大人になって家族を持つと、じぶん一人っきりの時間というのはほんの僅かだなということに、はたと気づく。全然無いわけじゃないけど、社会に出て収入は増えても、時間は綺麗に反比例して減ってゆく。もちろん寝る間を惜しんで無茶する楽しみは無くはないけど、それなりに責任を背負って生きてるわけで、睡眠も大切だし、他人のためにじぶんの時間を犠牲にすることはある程度織り込み済みの生活を送らないといけなくなる。それが嫌なわけではないけど、とにかく一人っきりの時間だけは少なくなることは確実だ。たまに学生さんの面接なんかをして、学生時代のいちばんの思い出は海外を一人旅したことですなんて聞くと、無性に学生時代に戻ってやり直したくなるんなだよね、人生を。

ちょっと重い話になっちゃったかな。まあそれくらい時間は大切ということで。もっとライトな話として、例えばきょう僕は午前中の二、三時間、一人車を飛ばして古い町並みをカメラで撮り歩いたんだけど、その間っていうのはとても心満たされているじぶんがいてね。ものすごく派手に心踊ってるということではないんだけど、なんというか心静かに集中して没頭できている時間という感覚かな。一人カメラと向き合って、カメラと対話し、カメラと共同作業で目の前の光景を写真に収めてゆく。そうするとふだんなら見過ごしてしまいそうなものが目に止まったり、それが起点になっていつもは考えないような事柄を脳が思考し始めたりする。そういうひと時が実に心地よくて、このまま帰りたくないなとか思う。そう考えると、これが数時間の週末じゃなくて、数日間、数週間の旅だったらどれほど気持ちいいかとか考えちゃうんだよね。フィルムカメラで一枚一枚慎重におさめていくもよし、デジカメでとにかく呼吸するようにどんどんシャッターを切ってゆくもよし。基本しゃべらずに、心の声だけで過ごす時間。なにげなくメモのように書き始めた話だけど、書いてるうちに本格的にカメラと一人旅したくなってきたな。人生のうちで行ける日があるかな。やってくるといいな。いや、僕次第か。なにかひとつまた目標のような、希望のようなものができたな。心に留めておこう。

きょうで僕の中ではフィルムとデジタルの境目は無くなった気がする。

先週手に入れたNikon DfにAiレンズをつけて、ようやく落ち着いて試し撮りに出かけてきた。デジタルだからたくさん撮りすぎたところはあるけど、あることを確かめながら撮っていた。それは、Dfをマニュアルで撮ることで、僕の中のフィルムとデジタルの境目を忘れるというか、意識しないで撮れるかということ。何枚も何枚も撮ってみて、それは妄想から確信になった。そう、はっきりと僕の意識の中でフィルムとデジタルの境目を無くすことができた日になった。それもこれも僕にとってはこのNikon Dfというカメラのおかげ。

もちろん、写真のできというか質感はフィルムとデジタルとでは異なるのも事実。だけど、その違いも含めて「写真を撮ること」というひとつの括りの中で捉えることが、きょう、できるようになった気がするんだ。フィルム派とかデジタル派とかそういう境目なんかさして問題ではなくて、それは何種類かのカメラをその日の気分で持ち替えるように自然とフィルムやデジタルをその日の気分で替える、その程度のこと。そんなニュートラルな心持ちになれた気がする。

僕は写真保管庫としてInstagramを使っているけど、ここのところずっとフィルムの写真ばかりあげてきたけど、きょうからはデジタルの写真も混ざるようになった。ここでも特にフィルムとかデジタルとか意識しない。写真という一括りのジャンルの中でこれからはポストしていこうと思う。

思えば一度はデジイチをすべて手放して、その後フィルムと出会ってからは、僕はこれからの人生ずっとフィルムなんだろうなとおぼろげながら感じていたけど、こうしてまたデジタルと再会する日が来て、ついにはフィルムとデジタルの境目も無くなった。それもこれも、マニュアルライクに写真を撮るという”カメラとの共同作業で写真を撮るたのしみ”を体験したからだと思う。そして、それをデジタルでも具現化してくれたNikonのDfというカメラは、なかなか大したものだと思っている。NikonさんGJだよ、ほんとうに。というわけで、ささやかではあるけど、僕の中では今日という日はけっこうターニングポイントになった日。フィルムとデジタルの境目が無くなったノーボーダーの日としてね。

フィルムの雰囲気がいいだけなら、僕はデジタルに戻ったりしていない。

フィルムで撮る写真はたしかに味みたいなものがあるけど、それはフィルムのよさの一部であってすべてじゃない。フィルムカメラを手に入れるお店の居心地のよさ、数ある種類の中からフィルムを選ぶたのしみ、少々年季の入ったフィルムカメラの手触りとかぎこちないダイヤルをまわす感触、フィルムを巻き上げる音と乾いたシャッター音、撮ったその場で見られない写真のワクワク感、現像が上がってきた時のインデックスの愛おしさ、まだまだある、とにかくフィルム体験は写真を撮る楽しさの本質を掘り起こしてくれるものだと思っている。なんかフィルム写真の質感がいいから、とか、そんなフワッとした理由じゃないと思うよ、フィルムで撮ってる人たちは。フィルムで撮るというのはなんというかカメラとの共同作業みたいなところがあるんだ。カメラのオート任せにしない、カメラと僕とが共同作業で一枚の写真を撮る、そんな感覚。僕はその感覚をフィルムに気づかせてもらって、マニュアルライクで撮れるデジタル一眼レフNikon DfとD300を手に入れ、デジタルでもカメラとの共同作業を楽しもうと考えた。フィルム写真の雰囲気がいいだけなら、そんな選択や行動はとらなかったと思う。誤解を恐れずにいえば、フィルムの雰囲気だけをどうこういうのは、カメラとの共同作業を楽しんでいないということなんじゃないかな。だとしたら、とてももったいないことだと思う。僕はそう思う。

写真関連のTwitterを始めるまで、こんな写真やカメラを愛する人たちの世界が存在していることを想像したこともなかった。

正確にいうとTwitterはブログ用のアカウントだから、ブログを始めるまで…のほうが正解かもしれないけど、とにかく写真やカメラを通した目でブログ用のTwitterアカウントを立ち上げて以来、僕は本当に日々驚いているというか、そういう世界との遭遇に感謝している。

だって、こんなにフィルムカメラやってる濃い人たち、しかも一般の人たちがいると思わなかったし(事実、街中では見かけた記憶がない)、それも何十台もコレクションしてる人もウジャウジャいるし、そうかと思えばこのカメラ一筋とか、カメラなんてなんだっていいんだよ腕だよみたいな人もいて、それはそれはカメラ愛もいろいろ。いずれにしてもその懲りようはちょっと尋常じゃないし、じぶんで現像したりカメラを分解して直したりとか、こんな感じはもう普通に生きてたら想像できっこない世界だから。

ライカなんで裕福なおじいちゃんが人知れず持ってるもんだくらいに思ってたら、若い人たちもたくさん持ってたり、百万円もするようなデジタルのライカを一般人がふだんの街撮りスナップに持ち歩いてたり、いやもうほんと普通の人はそんなの見聞きしたら驚愕だから笑。デジタルやってる人たちもいわゆる”沼”というのをなんだか面白がってるのかというくらい人生かけてズブズブにハマって楽しんでいたり、そんな姿にカメラ界の人たちが気さくにツイートで声かけたりね。これはもうTwitterでその世界に首を突っ込んでみて初めて知ることになる驚愕の事実なんだよね。

そんな人たちに比べると、僕はまだまだ全然沼にはハマっていないし、多分これからもそんな域までは到達しようがないけど、カメラ雑誌なんかには載っていないカメラライフやリアルな喜び、悩み、希望みたいなものはこれからもTwitter界隈でいろいろウォッチして参考にしていきたいと思ってる。そして、僕と同じようにカメラを始めたてとか、これからカメラを始めようとしている人たちに、このブログやツイートがなんらかのきっかけ(僕じゃなくてすごい世界の人たちを知るきっかけ)になって、結果としてカメラでもっと盛り上がったり、まわりの誰かにフィルムとかが伝染していくと素敵だし、おもしろいよなと思う。なんにしても、みんなほんと素敵。カメラを、写真を愛する人たちは、ちょっとクレージーで素敵な人たちだよ。

僕はシャッターをきる行為が好きなんだろうな。

僕はもうほんとに誇れる写真なんて一枚もなくて、どれも極々平凡な風景写真ばかりだ。ひとを撮るといえば家族を撮ることくらいだから、おのずとそういう類の写真になる。街中のスナップを撮ることも少なくないけど、ひとの顔が分かるような撮れ方の写真は個人の観賞用にはできても、こうしてブログやSNSにあげるわけにはいかない。それでも上手い写真を撮るひとはいるわけだけど、僕にはそんな腕はない。でも、だからといって写真を撮ることが楽しくないかといえば、すごく楽しいのである。それはカメラというプロダクトが好きなこともあるけど、いちばんは”シャッターをきる行為”が好きなんだと思う。一眼レフのいかにも撮ったと感じさせてくれる派手めなシャッター音も好きだし、控えめにコトッと静かにきれるレンジファインダーのシャッター音も好きだ。とにかくあの一秒もない瞬間の手ごたえがたまらなく好きなんだな。マニュアルライクなカメラで露出をとりながら撮るのが好きになったのも、こうしたシャッターをきる前の儀式みたいなところが惹かれるんだろうと思うし、たとえ遠くの絶景ポイントに出かけなくてもシャッターさえきることができれば、僕の心は満たされていくところがある。なんというか、鼓動とでもいえばいいのかな。カメラのあのシャッター音とシャッターをきるショックというのは、心を震わせる何かがあると思う。そうやって考えるとやっぱりスマートフォンのカメラじゃ駄目なんだよな。グッとこない。写真は撮れるけど、鼓動を感じない。写真は視覚で感じるものじゃなくて、聴覚や触覚まで五感を駆使して楽しむ存在なんじゃないかな。そんなことを考えながら、手持ちのカメラたちのシャッターをきる感触を思い起こしたりしている。それだけでも心踊るのである。