ライカよ、フィルムをよろしく。

Leica M3, Elmar 50/3.5, Fujifilm 業務用100

今に始まったことじゃないけど、なにやらまたフィルム界隈の存続に懸念というか、重い空気が立ち込めている。当然ビジネスだから、フィルムの需要が落ちれば、その周辺ビジネスも連鎖的に落ちる。フィルムがある一定のブームであることは間違いないみたいだけど、かつての隆盛期と比べれば、それは焼け石に水的なことも否めないのだろう。

僕がデジカメを再開したのは、フィルムの未来への不安があったことも事実。それだけじゃないけど、やがてフィルムが使えなくなる日が来るとしたら、その時に同時にカメラをやめる日が来るのが寂しいというか、怖い気がして、なんとなくデジカメに手が伸びた、そんな記憶もどこかある。

けれど、以前にもブログに書いたことがあるんだけど、一方で「フィルムはこの世から決して無くならない」という楽観的な気持ちもどこかある。まったくもって根拠はないんだけど、カメラ産業の主というか拠り所でもあるライカ社が、なんとしてもフィルムを守るんじゃないかという期待だ。

ライカだってすっかりメイン商品はデジタルに移行している。機能的には先進的デジタル機器とは言い難いけど、M8の登場からしたらすっかりハイテクカメラへの進化を遂げた。フルサイズレンジファインダー機だけじゃなく、ミラーレス機やコンデジなどそのラインナップも多彩だ。ここに来てもう完全なる未来企業になったと言ってもいいだろう。けれど、彼らの根底には脈々とフィルムライカという資産であり宝が大きく存在し続けていると思う。

主力でありシンボリックなM型ライカの進化は、フィルムライカの確固たる地位を築いたM3を再現する、M3のフィーリングに近づけることの進化といっていいんじゃないだろうか。それはフィルムライカファンたちを離さないマーケティング上の戦略でもあるだろうけど、僕はカメラファン全体に対するライカからの約束のように思える。「我々はフィルム(ライカ)を忘れない」という約束。

仮にもしフィルム関連産業が今以上に不況にさらされ、フィルムの生産や現像そのものの産業が存続の危機に陥った時、ライカはイニシアチブをとってフィルムの生産や現像を存続させる手立てを世に指し示すんじゃないかという期待。グローバル規模でいえば決して大企業じゃないだろうから一社でフィルム環境を守るのは無理だろうけど、ライカが発起人的存在となって世界のフィルムファンたちとフィルム存続のネットワークを起動させるんじゃないかと。

妄想といえばその域でしかないけど、僕は何か凄くそこにひとつのイメージが浮かぶ。僕にとってのライカとは、高価なブランドではなくて、カメラとカメラの歴史を愛するカメラファンの代表のような位置付けであり存在。ライカと共に歩み、ライカと共にフィルムの火を消さない、そんな思いがどこかある。これは答えとかそういうもんじゃない。思いだ。だから強く思い続け、しぶとく、楽しくフィルムを使い続ける。それで歴史が動くことだってあるんじゃないかと考えている。

フィルムカメラは、時間を買うんだ。

Rolleiflex Standard ,Tessar 75/3.5

僕の今があるのは、フィルムカメラとの出会いが大きい。「僕の今」とは、写真を撮ることと同じか、それ以上にカメラが好きということ。趣味は何ですか?と聞かれたら「写真です」と言わずに「カメラです」と言うもんな。それはアバウトに答えてるんじゃなくて、カメラというプロダクトが好きですよ、という意味が明確にある。

Nikon F2、Leica M3、Olympus OM-1N、Rolleiflex Standard…どれも明確にその佇まいに惚れて手に入れたという実感がある。もちろん、フィルムで撮る写真の風合いもたまらない。けれど、フィルムカメラがもし現代の多くのカメラのようなフォルムであったら、ここまでこよなく愛していないと思う。金属のどこか丸みを帯びたラインと艶かしさ、匂い、人間くささ、刻まれた文字の彫り具合とクラシカルなタイポグラフィ、どれをとってもハートを鷲掴みされるような魅力にあふれている。中古カメラ屋のショーケースで眺めるフィルムカメラたちは、もうまるでオモチャ箱のようにドキドキ、ワクワクする。

まあ、やはりデザインが好きなんだろうな、そのフィルムカメラたちの。それを明確に感じるのは、僕の所有するデジカメのラインナップに現れている。RICOH GR、Nikon Df、Leica M-P&X2、Olympus PEN-F…どれもクラシカルなデザインのものばかりだ。性能でいえばもっと優れたカメラたちがある中で、僕はひたすら少しメインストリームから外れた、こうしたクラシカルな雰囲気を持ち合わせたデジカメたちを選んでしまう。フィルムカメラライクなその撮影所作ももちろん好きなんだけど、究極で言えばやっぱりそのデザインというか佇まいに惚れ込んで手にしてるんだよね。

カメラは「写真を撮る道具」だから、別にカメラそのもののフォルムなんて、「いい写真を撮ること」においては何の関係もない。実際「いい写真」を撮る人たちの中で、カメラのことを表立って強く語る人はあまりいない。もちろん、本来は普通の人よりカメラを強く愛しているんだろうけど、それを上回るほど写真を愛してやまないのだろうから、特にカメラという道具のことをこれ見よがしに語る人は少ないんだろうと思う。けれど、カメラが表現するための道具であることを考えたら、撮る人の撮る気持ちを高揚させる存在感というのはとても大事だとも思う。

上手く言えないけど、「撮る道具」であると同時に「眺める道具」でもあると思うんだ。このRolleiflex Standardなんて年に何回かしか撮らない。以前、ブログにも書いたことがあるんだけど、僕は中判を撮りたくてローライフレックスを手に入れたわけではない。Rolleiflex Standardが欲しくて手に入れたというのが、素直な気持ちであり動機なんだ。だから、こうしてRolleiflex Standardのボディを良く眺め、写真に収めたりする。まったく飽きないし、何時間でも眺めていられる。

しばらく眺めていると、時空を超えたような不思議な気分になる。1930年代に作られた120フィルムのローライフレックス初号機。一体どんな人が最初に手に入れ、それから何人の人の手を経て僕のもとへやってきたんだろうと。どんな国でシャッターが切られ、どんな写真たちを量産してきたのだろうと。新品のカメラからは得られない、とてつもなく夢のある空想の時間だ。発売された当時は恐ろしく高価なモノであったろう逸品たちが、今では安価で僕ら庶民が手にすることができる価格で売られている。これはもう大バーゲンプライスなんじゃないかとさえ思えてくる。

あと何年使えるのだろうか。そんなことをふと思うこともあるけど、フィルムさえあれば、そして修理職人さんさえいれば、もうあと一世紀くらいは平気で使えそうな、そのなんともいえない丈夫さというかたくましさ、そういうところにまた惹かれるのである。僕はフィルムで撮る写真は好きだけど、それだけだったらここまでフィルムカメラにハマったりしない。フィルムカメラをここまでこよなく愛するのは、実用品という枠を超え、写真を撮る道具という役割を飛び出し、その存在感やそこに宿る時間の流れに心奪われるんだと思う。写真を愛する人たちからすると少し邪道なカメラ好きかもしれないけど、これが僕の素直なカメラとの向き合い方なのである。

実は凄い、不変のMマウント。

Summicron 50/2 1st

不変の…といえばNikonのFマウントで言われるフレーズだけど、そのNikonもいよいよZマウントへと移行しようとしている。そうやって進化とともにマウントが変更されてるカメラとレンズの歴史を考えると、俄然ライカのMマウントの凄さが際立ってくる。

これまであまり考えたことがなかったんだけど、実は不変なのはMマウントのことなんじゃないかと。1954年のLeica M3の登場とともに世に生み出されたMマウント。以来、60年以上変わることなくMマウントは生き続け、これからもその歩みは止まる予兆は見られない。実際、僕のM型デジタルのMマウントレンズたちはフィルム機のLeica M3と併用してフル回転だ。Nikonがいよいよマウント変更の時代を迎えた今、俄然ライカのMマウントは貴重に思えるのだ。

エルマーズミクロンズミルックスに、Mロッコール。それでもってLMリングで容姿を歪に変えることなくスクリューマウントレンズの赤エルマー、ロシアンレンズのジュピター8やインダスター61、フォクトレンダーのスタップショット・スコパーも使える。これはもうライカ社に拍手を送らざるを得ないだろう。フルサイズミラーレスブームでオールドレンズ がさらに陽の目を見るてあろう昨今、たしかにマウントアダプターを介せば大抵のオールドレンズが現代のデジカメで使えるけど、そこは見た目のデザインからいっても、やはりアダプター無しで装着したほうが美しい。それは、マウント変更しないことは、不変の美を損なわないことも意味する。ライカがいいと思うのは、ブランド感がいいのではなくて、こうした不変の哲学がいいのだ。どうだろう。