雨音の聴こえる部屋で、桜の木の写真を眺めながら花見。

たぶんこの雨は週末まで続いて、ということは今朝見た桜がもしかしたら今年最後の桜の見納めかもとか思うとちょっとセンチメンタルな気分もして、今年撮った桜の写真を見ながら花見をしている。エア花見ってやつかな。なんとなく音楽は鳴らさず、部屋の窓をあけて雨音を聞きながら。少し湿りっけのある冷えた空気が部屋に入り込んで、頭がすっきりとする。今年の桜は咲き始めが遅かったのと、微妙にピークと週末がずれたりしてなんだか短命だった気がする。まあだからこそ儚く思うわけで、なんでも完全より不完全なもののほうが心をわしづかみされる何かがあるなと思う。なにも豪勢な贅沢はいらないから、そういう儚いものを美しいなと思える感受性豊かなひとときを楽しみたいと思う。

フィルムはブログの栄養分にもなった。

このブログ「記憶カメラ」は主に何のことが書かれたブログかと言われれば、カメラのことだったり、写真のことだったり、あとはカメラを通して僕が見たり体験したことを記憶としてつづっているものということになる。

でも、主なテーマだったカメラをここ一年はRICOH GRだけに絞っていたこともあり、しばらくロードバイクのことや音楽、あとカテゴリーでいえば日常の日記のようなものが続いてきた。そこに突然現れたのがフィルムカメラだった。

突然現れたと書くとなんだか他人事に聞こえるけど、僕の素直な感想としてはそうなのである。ある日ふとカメラ屋てNikon FEと目が合い、ピッピッと運命みたいなものを感じて家へ連れて帰ったのである。理由は上手く言えない。

その日からというもの、とにかくフィルムは分からないことだらけだから、フィルムをやってるひとのネット記事やツイートをつぶさに見るようになったり、フィルムカメラ関係の書物を読むようになったり、おかげさまで新鮮なことばかり。そんなこんなでブログにもカメラ関連の記事が帰ってきた。

フィルムの世界はとにかく深い。ビンテージカメラのことも、フィルムの特性も、メンテや現像のことなど、自然とあちこちのことを調べたら吸収しているじぶんがいる。そして、モノもコトも情報もとにかく出会いが増える。この時代にあって便利なものでは全然ないけど、いま時代に必要とされてるんじゃないだろうか、フィルム。なにか失ったものを取り戻そうとして。

FUJI業務用100よ、ありがとう。

さて、フィルムで撮り始めて三週間。その間の僕はというとNikon FEを購入した時に試し撮り用にと店員さんにすすめられたFUJI業務用100で撮り続けている。調べてみるとフィルムにもいろいろあって、おしゃれなところではFUJI PRO400hとかKodakエクター100、ポートラ160,400なんかがあると少しずつ分かってきたのだけど、いまの僕はとにかく一枚でも多くの写真を撮りたいから業務用100がとにかく相棒。カメラのキタムラだと24枚撮りが一本200円でセールで売られているから僕なようなフィルムビギナーにはとにかくありがたい。業務用っていうくらいだから箱もそっけないんだけど、なかなかどうして、僕はこの業務用100が愛おしくなりつつある。フィルムが一本1,000円とかする時代にその1/5とか1/4の価格で手に入れられて、それでも業務用100はしっかり僕にフィルムならではの質感を味あわせてくれる。まだまだ露出の甘い僕にもそれなりにきちんと撮れてくれる寛大さを持ち合わせているし、そのやわらかいあがりは少なくとも僕にはレタッチも不要だ。フィルム写真の上手い人ならいざ知らず、僕にとっては十分すぎるほど業務用100は魔法なんだ。スナップ写真をやられているTwitterのフォロワーの方で僕が好きな人がいるんだけど、その方に以前おすすめのフィルムをお聞きしたら、いくつか好みのフィルムを教えてくれたけど、フィルムを始めるなら最初は業務用100で撮りながらじぶんの好みを探っていくといいとアドバイスを添えてくれた。その意味が三週間たって少しわかりつつある。高価なフィルムだと36枚撮り一本で1,000円超えちゃうけど、業務用100なら24枚撮りが5本買えて、つまり120枚撮れる。約3倍は撮れる、つまりたくさん失敗できるから、いまのところ僕はしっかりこの業務用100に甘えてしまおうと考えている。そして、業務用100は想像を超えた包容力でそんなビギナーの僕を包み込んでくれている。

不便をもっとたのしもう。

この場合「不便」という言葉を使うのが正しいかどうかは分からないけど。例えばフィルムカメラ。デジタルカメラやスマホカメラが全盛の時代にあって、フィルムを買わないといけないわ、現像に出さないといけないわ、データ化しないとスマホで送れなかったりと、まあ普通に考えれば不便だ。しかも、カメラそのものだってマニュアルが基本でカメラがオートメーションでやってくれることはほぼ無い。つまり高速で連写なんかまずできない。一枚一枚手をかけて撮る、それが基本だ。僕もそんな面倒なことはじぶんには性に合わないだろうと、ずっとフィルムカメラには興味を示さずにいた。でも、ひょんなことからフィルムカメラを手に入れ撮り始めてみると、多くの人がこの時代にあってフィルムカメラに魅せられている理由がわかる気がした。例えばクラシカルなレコード盤が流行ったり、万能機能搭載じゃなくてあえて機能が絞られた製品なんかがその分コストを抑えて楽しめたりするのなんかも少し同じような現象なのかな。これを不便ととるか、その作法や手間を味わいととるか、そこは個人の好みの問題だからどちらが正解とか不正解ということはない。でも、いまの時代が圧倒的に便利さに不感症になっている時代だとしたら、そこに異なるリズムや味、時間の流れ方を取り入れることはなかなかおもしろいことかもしれない。便利さよりも不便さのほうが自由をもたらしてくれるんじゃないか、そんなことをここ最近、僕は考えている。まだまだこの話には続きが書けそうだけど、それはたぶんテーマは異なってもこの先の僕のブログで語られていく話のどれもがそうだろうと思ったりしている。

カメラで記憶したスライス・オブ・ライフ、第1100話。

今週もマッハで金曜日の朝を迎え、ふとブログのダッシュボードを眺めていると、このポストでブログ1100投稿目だなと気づく。そっか、もうそんなに書いてきたんだと、軽く驚いている。

何事も熱しやすく冷めやすい、そして面倒くさがりの僕がこうして毎日ブログを更新し続けてこられているのは、間違いなくカメラで日々写真を撮っているからだ。カメラブログというわけでもないし、なにか写真のテクニックとかを記したブログでもない。ひたすら、僕のまわりにある日常、スライス・オブ・ライフを記憶として書き留めてきたブログだ。でも、もし文字だけでブログを書き続けたかというとそれはやっぱりなかっただろうし、そもそもカメラを持たなければこのブログ「記憶カメラ」も始めていなかったと思う。僕が日々考えていることをメモして残していきたいとは思ったけど、できればそれは写真で物語たいなと思ったし、じぶんの撮りためた写真のストック場所としてもどこかに僕の居場所というか部屋みたいなのを待ちたいと思った。

それにしても1100話はけっこう感慨深いなあ。やればできる子なんだなあと笑。1100ポストの間にカメラはNikon D5300、Nikon P340、RICOH GR、Nikon D750、Nikon P900、そして最近フィルムに出会いNikon FE、KONICA C35へ。今はGRとFE、C35が僕のスライス・オブ・ライフを記憶してくれる相棒だ。いや、わが子とか友だちという感覚のほうが近いかな。そしてこのブログを1100話書いてきた間にTwitterやInstagramでもカメラ話ができる友人みたいな存在のひとがわずかだけどできた。それもとてもうれしいこと。とはいえ、1100話はまだ通過点だし僕の人生の途中。ここまで続けられたらこの先もブログは書き続けられる気がししているので、よかったらまたのぞいてください。僕がみんなにカメラ愛とか写真愛を教えてもらったように、僕も誰かのために何か参考になることが書ければいいななどと考えているので。できるかな?、とりあえず撮り続ければできる気がする、うん。

11歳のチャリンコ友だちとの週末。

僕がフィルムカメラを乗せて最近乗ってる自転車は、もともとは息子といっしょにチャリンコ時間を楽しむために手に入れたところがある。というのも、息子は小さい頃に自転車に乗る習慣がなくて去年あたりから少しは乗れるようになったものの、本人も苦手意識があって自転車を避けてるところがあった。まわりの子たちはもちろん自転車に乗れるんだけど、息子だけは友だちのところへ行くにも徒歩で行っていた。さすがにもうすぐ中学生になるのに自転車に満足に乗れないんじゃマズいだろうと、父が息子の自転車練習にたちあがった、というわけである。でも、さすがは子ども。二、三週末ほど練習したらあっという間に安定して乗れるようになってきたんで、じゃあ男二人で近所をポタリングできるようにと、近くのホームセンターで僕の自転車も購入。ここ最近は、週末に息子とチャリンコ友だちな時間を過ごすのが密かな父の楽しみだったりする。

昨日から風邪で寝込んでいた息子も午後になって大分元気になり、じゃあということで奥さんの許しも出て、父と息子で近所を二台の自転車で軽く流してきた。息子は自転車の気持ちよさを少し感じ始めていて、僕の本格的なロードバイクのことを聞いてきたり、たわいのない日常会話をしながら自転車に乗る時の安全確認の仕方なんかも教えながら走る。平地の公園で休憩をとりながらゆっくりと、ゆっくりと走る。そして、花が咲く場所では自転車を降りて僕のフィルムカメラで二人で写真を撮る。なんともアナログな時間だけど、ふだんゲームをする息子とデジタル漬けの仕事な僕にとってはそのアナログなひとときが感覚を中和してくれるようで心地いい。僕は僕、息子は息子だから、息子の人生に僕の趣味や価値観を強要するつもりはないけど、こうして過ごすスタイルが同じものがあればいいなあと密かに父は願いながら息子の成長を見守る。11歳、たぶんあっという間に成人式が来るんだろうな。それまではなんとしてもがんばるという意識の父なのである。

辺りを一瞬、空白にする。

僕がなぜカメラや写真に惹かれるのか、それも撮ることもだし見ることにも何故こんな風に惹かれるのか。もちろん、カメラというプロダクトに魅せられるとか、一枚絵というデザイン性が好きとか、僕が生れながら本来持っている気質というか性質みたいなせいもあるのだろうけど、もう少し本質のところまでじぶんなりに辿ってみると、こういうことなんじゃないかな、というところに至った。

「辺りを一瞬、空白にする」

ということ。例え賑やかな都市の中で撮ろうとも、シャッターを切るその瞬間は僕の思考は一瞬静止する。音も一瞬聞こえない。なんというか色も一瞬真っ白になる、そんな感じといえばいいだろうか。もちろん写真を撮っている僕は実際は動いていて、物理的には静止しているのとはちょっと違う。でも、コンマ何秒なのかは分からないけど、その場で僕も空間も一瞬真っ白になる。

他人が撮った写真を見るときもそうだ。というか、そもそも写真に惹かれて眺めるのが好きなのも、そこに一瞬の空白を感じるからのように思う。ここでも、例え辺りが騒々しい場所で写真を眺めたいたとしても、やっぱり僕の頭の中で一瞬、言いようのない空白の時間ができる。ほんとに一瞬なんだけどね。それが、僕には心地いい。最近になってフィルムカメラを始めたからこそ、多少はマニュアルライクな撮影知識みたいなものを意識するようになってきたけど、デジタルカメラのおかげでカメラに撮らせてもらったという時期が二年ほどあったために、僕の撮影知識はまだまだのアマちゃんだ。そういう意味では撮影技術の日々の向上を楽しんできたのではなくて、こうして辺りを一瞬、空白にする、そのカメラと写真がもたらす空白に僕は魅せられているんだろうと思う。上手く言えないけど、現時点で僕が考える理由とはそういうことだ。この話には答えはない。答えというより、僕の現時点での思考のメモであり、やがて読み返す時の記憶だ。どんなに高速で騒々しい時代や空間であっても、僕には辺りを一瞬、空白にするカメラと写真があるかぎり、どうにか平静を保って生きていけるような気がする。決してオーバーな表現ではなく、そういうことなのである。