さて、来年は何を深めようか。もしくは、始めようか。

Nikon Df, 50/1.8G

考えてみると、僕はいつも冬の間に新しいことを始めている気がする。新年だからというわけじゃないんだけど、何だろうね、冬はじっと考える時間が多いからかな。

今年の始めのトピックスは何と言ってもフィルムカメラを始めたこと。それまで一年ほどRICOH GRだけで過ごして、何というか爆発したというか、開花したというか、一気にフィルムカメラの世界へのめり込んでいった。ロードバイクで出かける時もGRよりKonica C35を背負って出かけることが増えたし、出張に行く時もフィルムを数本持参することが定番になった。で、じぶんでも予想外だったのは、そのフィルム生活がさらに羽化して、ふたたびデジイチを再開したこと。Nikon D300とNikon Df、なかでもDfは愛犬との散歩カメラなど最も頻度高く持ち出すカメラになった。

さて、冬も本番に入り、あとわずかで新しい年がやってくる。新しいカメラを手に入れる予定は特にない。というか、心のどこかでもっとベクトルの違う何かに出会いたいという思いと、いや今の何かをもっと深めたいという気持ちが交錯してる感じといえばいいだろうか。そうそう、このブログもどこか新しくしたいという思いもあって、今はいろんなことを混ぜて、あえて頭の中をごちゃごちゃにしているところ。僕の場合は何でもそうなんだけど、こうして一旦カオスな状況を作り出して、そこから何かが羽化するのを待つのが楽しみだったりする。ちょっと新鮮な目線もいるなあと、本をたくさん読んだりも。どうかなあ、この冬は何か生まれるかな。

あ、でもね、新しいことを始めることは、何かを捨てることでもある。捨てるというと乱暴だけど、脱ぐとか卒業するとかそんな感じかな。にんげん、誰しも時間は24時間しかないから、何かを足そうとすれば何かを引かないといけない。それは、寂しいことではなくて僕は脱皮みたいなものだと捉えるようになった。時間は永遠ではない、だからこそ思いついたことは可能なら経験しておきたい、今はそんな心持ちかな。さて、これからお風呂読書だ。少しこの冬の羽化の野望など抱きながらね。

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僕の中の“The Film”、FUJI FILM業務用100。

FUJI FILM業務(記録)用100

正確にはこのパッケージにも書いてある通り「記録用100」なのかもしれないけど、フィルムを始めた頃にまわりの人たちが業務用100と呼んでいたのがあって、僕もいつのまにか「業務用100」と呼んでいる。

過去にも何度かポストしたけど、僕はこの業務用100というフィルムがほんと大好きで、もはや安さという基準を超えて、その撮れ具合が好きだからこのフィルムを常用しているといって間違いない。美しい粒状感で選べばプロ用のPRO400HやEktar100 なんかが好まれるのかもしれないけど、僕はもうちょっとザラっとカラッとしたフィルム感が好きで、いろいろなフィルムを試してみたけど、そこはこの業務用100がいちばんしっくりくる。

あとね、何が好きって、この一色のパッケージデザインが好き。印刷のことを知ってる人なら分かると思うけど、この業務用100はいわゆる一色しか使っていないから印刷代も安い。大量に作られるモノだから、この印刷代の違いはかなり大きなはずで、そのコスト節約が業務用100の安さにもつながっているのは間違いないところ。この白地に緑一色のパッケージが今ではかなり愛おしいくらいの存在で、毎回フィルム交換のたびにジワジワと感動していたりする。なんだったら、日本グッドデザイン賞をあげたいくらいなんだけど、どうだろう笑。

フィルムのことでいえば少し気になることがあって、それは感度400のフィルムが微妙にこの世から姿を消しているところ。FUJIのX-TRA400の生産終了に続いて、AGFA Vista400もどうやら生産終了らしい。僕がいきつけのキタムラには業務用400は置いていないから、けっこう切実な問題なのだ。FUJIのNatura1600の生産終了も聞こえてきた昨今、高感度のフィルムが少しずつ姿を消すのはやっぱりこの先少し心配なんだよね。ふだんは感度100派なんだけど、感度400も地道に購入し続けなくては、と思ったりしている。一日でも長くフィルムを楽しみたいからね。

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思い出に残る基準って何なんだろうね。僕はけっこう些細なことを覚えている。

Nikon Df, 50/1.8G

思い出ってくらいだから、本当はどこかへ旅行に行ったとか、派手な体験をしたとか、いかにも思い出づくりっぽいことが記憶として残ってるほうがソレっぽいんだろうけど、僕の場合はけっこう断片的な些細なシーンをいくつも思い出として覚えている気がする。

学校の廊下から見た窓の外の雷とか、通学路の川の淵とか、小さい頃に見ていた夕日が沈む様子とか。どれもイベント性とかはない普通の記憶。そういう意味では、思い出はつくるもんじゃなくて、残るものなんだろうね。無理して思い出をつくろうとするんじゃなくて、その瞬間瞬間を感じる。そこに何かしらのじぶんの感性が合うと、結果として思い出に残る。

写真も同じかもしれないね。僕は何か仰々しい写真より、ふつうの日常のワンシーンを切り取った写真にいつも惹かれる。実を言うと東京カメラ部のような写真は苦手だ。何かこう手が加えられたような写真は思い出とは違うからなのかな。まあ、写真の解釈は人それぞれでいいと思ってるので、あくまで僕の個人的な写真観。思い出のありようと写真の存在についての話でした。さて、きょうも長い一日になりそうだ。

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ここぞという時のリバーサルフィルム、FUJICHROME Velvia50。

Nikon F6, AF-S 24-85 f/3.5-4.5 ED VR, Velvia50

先日の記事でリバーサルフィルム3種類を撮り比べたことを書いたんだけど、今回はその中のひとつ「Velvia50」について。

そもそもリバーサルフィルム自体がまだ2度目の体験なのに、感度50のフィルムなんて初めてだ。その得体の知れなさが、他の2つのリバーサルフィルムVelvia100とProvia100Fとの向き合いなどとは根底から異なる。それでもトライできたのは、カメラが正確と言われる内蔵露出計を積み、しかもAF/AEで撮れるNikon F6だったからだろう。

撮影の目的地に到着した時には辺りは秋晴れの快晴で、この光の下なら感度50はハマるんじゃないかという漠然とした思いはあった。レンズは手に入れたばかりのAF標準ズーム、AF-S 24-85mm f/3.5-4.5 ED VR。いくつかの撮影条件の中でも、この初めてのフィルム感度と、初めてのレンズに挑戦ということもあって、やけに興奮というか緊張していたのを思い出す。そして、AF/AEの恩恵にあずかり、とにかく撮りたいものを見てシャッターを切ることだけに集中した。

そうして現像からあがってきたVelvia50の写真たちは、ひたすら神々しく見えたなあ。感度100のフィルムが基本だとするならば、この感度50のリバーサルフィルムがとらえる絵は実に妖艶だ。ちゃんと綺麗に撮れることなんかには目もくれず、いい意味で揺れる。不安定さみたいなものを楽しんでるかのような移ろいがこのフィルムにはある気がした。人間とは不思議魔なもので、正しく安定感のあるものに安心する一方で、その想定内の世界にはどこか満足できず、あえて不確かなものを味わおうとする。Velvia50とはフィルムの世界の中でまさにそうしたら存在なんじゃないかと思った。

この写真なんか見ても、果たしてこれがいい写真なのかどうかは分からない。でも、じぶんではなんか不思議なパワーみたいなものを感じるし、その描写はとても特徴的だ。このVelvia50に比べたらあのVelvia100がとてもベーシックなフィルムに思えるわけだから、それもけっこう凄いことだなと。色ののり方としてはいかにもVelviaっぽいともいえるけど、その写真が封じ込めた光と影の綿密な有り様は、この地球の意外な一面を見せてくれるような気もして、なんかドキドキするんだな。林の中の暗がりに行きカメラを構えてみると、感度50はさらに不安定になる。それをねじ伏せて撮るようなところに、このフィルムと付き合う楽しみ、醍醐味があるんじゃないかと思う。

つまり、このフィルムは優等生というよりは不良だ。想定の範囲内でどこか意外性に欠ける他のフィルムとは一線をかし、失敗もするかもしれないけど、とんでもなく素晴らしく撮れる可能性もあるから、その意外性に賭ける、そんなここぞという時のフィルムかなと思った。撮影技術のある人が撮れば決してむずかしいフィルムではないのかもしれないけど、僕の中のものさしでいえばそんな風に思った。

人間でもそうだけどね。魅力的な人というのは優等生であることとは少々ニュアンスが異なる。バランスがとれていることよりも、アンバランスなものに惹かれるんだよね、僕らは。そんな人間的魅力がこのフィルムにはある。Velvia50、その魔性のフィルムの真の姿に、もっともっとたくさん撮って迫ってみたいと思った。

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Runでも何でも走り出しはキツイんだけど、そのうち驚くほど楽に走れるようになるんだよな、人生は。

Konica C35, Hexanon 38/2.8

ここのところRunの頻度を毎日に戻している。愛犬と暮らすようになり、以前よりは朝晩多少歩く量が増えたものの、これまでにない時間を確保するためにスイミングをやめたこともあり体が鈍り気味。こういう運動不足が僕の場合、体の不調としてすぐに現れる。そうやって体が黄色信号を灯し初めて、運動のペースを見直す。考えてみると、僕の人生はずっとその繰り返しだ。

昨夜のRunも走り出しはほんとキツかった。ここ数日間の連続のRunでふくらはぎが常に張っている状態。心なしか体も重い。もうやめようかな走るの、と頭によぎるんだけど、そこをグッと堪えてそのまま体を引きずるように走り続ける。そうすると10分も走ればずいぶん楽になるのである。でもこれ、Runだけじゃなく何でもなんだよね。仕事も、趣味も、初めての環境の走り出しは何かと不安とか苦労を伴うわけだけど、意外とキツイのは最初だけ。そのうちスイスイと走っているじぶんに気づく。人間の適応力とはハンパないなといつも思う。ある程度人生経験を積むと、そうしたことが分かってくるから、少々キツイことがあっても、その楽になる瞬間を思い浮かべて頑張れる。年の功とはそういうもんじゃないかと思っている。

カメラなんかもそういうところあるよね。今思うと、初めてNikon D5300でカメラを始めた時はもうほんとスマホカメラの延長線上で、露出も何もあったもんじゃなかった。まあキツイというのとは違うけど、とにかくなにかこうダメなわけだよね、感覚的に。それでも現代のカメラは実によく撮れてくれるんでまあこんなもんかと勘違いするわけだけど、それはやがて伸び悩みみたいなモヤモヤした気持ちにつながる。それがブレイクスルーしたのは、僕の場合だとカメラをGRだけにして一年間撮りまくったのと、その後フィルムカメラに出会ったこと。たぶん現状を変えたいとその都度思ったんだろうね。だから僕の場合は飽きやすいというより、常に現状を変えたいという欲求が、次の行動を促す。

新しいことを始める時は、もちろんワクワクする気持ちもあるけど、大抵は面倒くさい抵抗感とも戦うわけです。ワクワクする気持ちだけで済めば、世の中もっと活性化するけど、にんげんはなんだかんだで現状維持が楽なんで妄想だけで終わってしまうことが少なくない。そこをとにかく始めてみる、本能みたいなものを信じて。走り出しはなかなかいろんなことがうまくいかないと。でも走り続ける。と、やがてアレアレというくらいコツがつかめる、むずかしかったことがとても楽になる瞬間がやってくる。もう人生とはその繰り返しなんだな。逆に言えば、この新しい異物をじぶんの中に入れ続けるということをしないと、にんげんは退化する。維持じゃない、退化だ。だって、じぶんは止まってるように思うけど、時間は猛烈に前へと進んでいるから、維持じゃなくて置いてかれる、つまり後退であり退化。そうした結果、自然の成り行きに逆行してるわけだから、脳や体が不調を訴え始める。なんか哲学的な話になってきたけど、まあそういうわけです、何でも。というわけて、ちょっとじぶん後退してるなあと感じたら、とりあえずキツくても新しいこと始めて、アノ瞬間が来るまで頑張ろう、そして繰り返そう、という話でした。そろそろ年末だし、来年はどうしよう、活性化。



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カメラはなんだっていいじゃん、というのはどこかある。

RICOH GR, GR Lens 28/2.8

これには少し補足がいるけど。カメラを操る楽しみは置いといて、できあがる写真においての話。

写真が好きな人ってのは、ある意味超越してる人だから、カメラがなんだっていい写真を撮ってしまう。正確にいうとたぶん、カメラがなんであろうが、そのカメラの性能や特長にいちばんあった方法論やまなざしで撮ってしまう、ということなんだろうなと思う。そういう人はカメラが写ルンですであろうが、センサーの小さいコンデジだろうが、距離計のないフィルムコンパクトだろうが、極端なことをいえば古いスマホカメラであろうが、ドキッとする写真を撮ることができる。半分想像で書いてるけど、たぶん間違ってはいないと思う。そういう人は僕なんかとまなざしが全然違っていて、撮ろうと思う対象も違うし、撮りたいと思う瞬間もきっと違う。四角い写真の中に何か絵を収めようとかそういう次元じゃなくて、そこに時間とかストーリー、人生観とか生きざまみたいなものを封じ込めてるんだと思う。違うかな、いや、言葉にするからダメなのかな。もっと言葉にできないものだ、きっと。

だから、そういう意味ではカメラなんてなんだっていいんだ、本当は。ただね、カメラを操って撮る楽しみというのは別にあるし、カメラが変わるとその性能や特長に合わせて撮り方が変わるのもまた事実だから、そう考えるとカメラにこだわるのは自然なことだし、カメラの性能があがればそれ以前は撮れなかったような写真が撮れることになる。でも、カメラが撮らせる写真より、たとえカメラがなんでもハートに追随させて(カメラに調子にのらせて、かな)撮っちゃう人のほうが、やるなあと思うし、できあがるものも強い気がするんだな。この話に結論はない。僕がなんとなく思ってることを記憶として綴ってるだけ。どうでもいい話かもしれないけど、どうでもよくない話というわけで。

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50mmの目線には体温がある。

Nikon F6, 50/1.4D, FUJI業務用100

いま僕のカメラたちはほとんど50mmの単焦点レンズが付いている。Nikon F2、Nikon FE、Leica M3、Nikon Df、そしてこの写真を撮ったNikon F6、すべてそうだ。1つのレンズを使いまわしてるわけじゃなくて、それぞれのカメラに常用として装着してるから、トータル五本の50mm単焦点を保有していることになる。これだけ50mmで撮り続けてると、少しずつだけど50mmの目に慣れてくる。遠過ぎず、近過ぎず、ある意味中途半端な画角と言えなくもないけど、僕はなんか好きなんだよね。

もちろん広角レンズも28mmと35mmとがあるし、景色を撮るだけなら広角レンズのほうが撮りやすかったりもするんだけと、なんというか50mmのほうが写真に体温のようなものがのってくれるイメージがあって好きなんだよね。かまえずにリラックスして対峙してるようなあったかさ。今週はズーム24-85 VRを手に入れたんで、50mm単焦点との違いやあったか味を撮り比べてみようと思う。いい写真かどうかは別として、体温のある写真が撮りたい、というブログでした。

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Gレンズの標準ズームを一本持っておきたくて、軽量コンパクト性で選んだ。AF-S Nikkor 24-85/f3.5-4.5G

AF-S Nikkor 24-85/f3.5-4.5G ED VR

Nikon DfとF6用のレンズは単焦点ばかりでいいと思っていたんだけど、AF前提で標準ズームを一本持っておくのもいいなと思い、数日間検討した結果、このAF-S Nikkor 24-85/f3.5-4.5G ED VRを選んだ。検討した決め手はずばり「軽量コンパクトなこと」。

本当は単焦点レンズの軽さがいちばんいいんだけど、とはいえなかなかレンズ交換がむずかしい局面も少なくないし、僕の場合は風景スナップを撮るんで咄嗟に広角が欲しくなることがある。そんな時にはやっぱり一本は標準ズームがあると心強いなと思ったんだ。ただし、可能なかぎり単焦点並みに軽くコンパクトであることが理想だった。実は以前、D750を所有している時にAF-S 24-120/f4を使っていて、今回も最初は使い勝手の分かっている24-120を買い直そうかとも考えたけど、あのレンズはどうしても大きく重い。いま僕が所有しているF6、特にNikonフルサイズ最軽量のDfにはちょっとヘビーすぎる…そう悩んでる時に、ネットで同じく悩んでこの24-85にたどり着いた人の記事を見たんだよね。フォルム的にもコンパクトなシルエットで見るからに軽快。僕の嗜好から言っても軽量コンパクトであることは最重要ポイントだったから、最後はそこが決め手になった。

この比較レンズ2つについては性能差はあるとしても、ざっくり比較するとF値は共にほぼf4として見れば、あとは中望遠域が85mmまでか、120mmまであるか、という違い。それに対してレンズの重量差とサイズ差はかなりあり、24-85の驚くくらいの軽量コンパクトさが際立つ。実際に手に持ったり、ボディにも装置してみたけど、やっぱり今の僕の撮影スタイルには24-85のほうがしっくりくる。85mm以上の望遠撮影ならAPS-C機のD300+18-200で撮ると割り切れば85mmまてで全然OKだなと。というわけで、AF唯一の標準ズームが僕のレンズ群に加わった。手持ちのレンズでいえば、ズームレンズは前出のAPS-C用高倍率ズームと、MFの43-86、あとあまり使っていないけどDレンズの70-210があり、これが4つ目だけど、Gレンズでは唯一のズーム。DfやF6ではこの24-85が常用ズームになるかな。あ、試し撮りはこれからだから、作例はまだありません(最初に断って書き始めればよかったな)。今週末はリバーサルフィルム3種類を50mm単焦点で撮り比べしようかとも思ってたけど、24-85もひとまずDfで試してみよう。それにしても、この軽さとコンパクトさは、手に持った時にすっごく気持ちいい。写りの性能でいえばもっと高価で高性能なレンズはあるのだろうけど、じぶんでも「僕らしい選択」かなと思ってる。

いいなあ、死ぬまでに一度は出てみたいアイアンマン。

鉄人レースの最高峰といえば、憧れはやはりハワイ島のトライアスロン・フル、IRINMANではないだろうか。とても人間が到達できそうにない距離を、泳ぎ、漕ぎ、走る。

尋常じゃないレースだからこそ、みんな魅せられる。僕がスイムを始めたのも、このレースのことがきっかけだったことは秘密だ。

@aliciakayetri bringing all the floral power to @ironmantri Kona. #shiv | 🎥 @bryn_north | @et_photo_home

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とはいっても今の僕は到底夢物語。「アイアンマン・ディスタンス」のレースは、スイム3.8km・バイク180km・ラン42.195km、合計約226kmで行う。通常のオリンピックディスタンスでさえ夢物語なんだ。

そんなクレージー極まりないレースだけど、いつかは、いつかは出たいと思う、それが男なんだ。無茶苦茶だけど、その無茶苦茶さにやられるんだ。なんか、火がついた。また鍛えよう。死ぬまでに、一度きりのために。

 

シャッターをきることが、前へ進むことなんだ。

Nikon Df, 50/1.4D

誰かのために撮る写真もあるけど、じぶんのために撮る写真もある。僕の場合は、前者は家族の写真であり、後者はなんでもない日々のスナップだ。特に後者はほんとひたすらシャッターをきる。撮る理由は、シャッターをきりたいからだ。それ以上でもそれ以下でもない。デジタルの恩恵はひたすらシャッターをきれるところにある。とはいえフィルムでももはや抑えはきかない。シャッター音を聴くと生きてる気がするし、シャッターをきれば今よりわずかずつ前へ進んでる小さな手ごたえがある。それをよりどころに僕はシャッターをきる。この週末はあいにくの雨続きで、F6もM3も外でシャッターをきることはできなかった。だから、部屋でシャッターをきる。写真は撮れないけど、前へは進んでる気がする。それが僕の日常だ。