みんな最初はよちよち歩きだ。

きょうは息子が数日間のキャンプから帰ってくる。ずっとガキンチョだと思ってた彼がこうして仲間たちと島でキャンプ生活ができるようになったかと思うと、ちょっと感慨深い。さて、息子には手がかからなくなってきたんだけど、そこに怪獣がやってきた笑。生まれて間もない子犬の愛犬だ。

こうして子犬の世話をするのは15年ぶりだし、息子が赤ん坊だった頃の世話も10年以上前だから、久しぶりに怪獣と言わんばかりのやんちゃぶりな子犬とまいにち格闘である笑。散歩に行けば辺りのあらゆるものに驚いてあちこちで吠えるし、後ろが気になったらなかなか前には進まないし、僕がいなくなれば鳴くし、トイレもまだまだ完璧にはいたらない。とにかく手のかかる王様みたいな存在だ。でも、振り返ると、以前飼っていた愛犬も、あの手のかかった息子だって数年経てばいつの間にかしっかりしてきて、いろんなことを普通にこなせるようになる。何だって最初はもう凹みそうなくらいよちよち歩きなわけだけど、最初だけなんだよねほんとに。

そう、最初だけ。仕事も、カメラも、ロードバイクも、スイムも、始めたての頃はあまりのじぶんの駄目さ加減にもう諦めようかと思うくらい凹むんだけど、まあなんというかめげずに、へこたれずに続けていると、やがてひょいっといろんなことができるようになる。そうして、後から振り返ってみると、その駄目っぷりな日々が懐かしいし、けっこう思い出になったりする。そういう意味では常にひとつやふたつ駄目駄目なことを持っていたほうが、人生としてはいいサイクルかもしれないね。さて、次はどんなよちよち歩きを始めようか。

時間は増えないから、入れ換える。

今夜は夜スイムで締めてきた。そして、ひとまず今月末でスイム会員を退会してきた。スイムはあいかわらず心地いいし、スイムにしかない爽快感があるんだけど、なかなか恒常的に通う時間が作れないから、ひとまず退会。というのも、先月に子犬を飼い始めて、平日夜は彼との散歩やしつけでそれなりに時間がかかる。週末も息子や愛犬との時間を考えるとなかなか定期的にスイムの時間を確保するのがむずかしい。つまり、時間を入れ換えないと24時間に収まらない。よく言う「何かを始めるには、何かを捨てないといけない」というやつかな。

最近はほんとにそう思うところがあって、新しいモノ、コトを始めようとする時は、同時に今の何と入れ換えようかとよく考える。ロードバイクを始めた時はデジカメとの時間と入れ替えたし、スイムを始めた時はRunの時間と入れ換えた。新しいカメラでいえば、デジイチのNikon D300を迎え入れたことで、購入を検討していたフィルムカメラNikon F3は見送った。僕のものさし的にはお金の問題や物欲を満たすということより、「誰にとっても24時間しか無くて、時間を増やさないなら、時間を入れ換えるしかない」ということが、新しいことを始める基準になる。ひとつひとつのことにある程度の時間を割きたいから、意外とこれは僕にとっては大切なものさしなんだ。

仕事が週休3日にでもなれば多少状況は変わるかもしれないけど笑、いまのところ僕の限られた時間の中で新しいモノ・コトと出会い、ある程度の戯れる時間を割こうと思うと、「時間を入れ換える」というのはまず始めに検討しなければいけないテーマなんだよね。そうやって考えるといつもたどり着くのが、何がいちばん欲しいかと言われたら、それは時間かなと。モノを増やしても時間は増えない。そのバランスをとることこそが生きるということなのかもしれないね。

カメラもロードバイクも好きだけど、このブログも趣味のひとつかもしれない。

思えばこのブログ「記憶カメラ」を立ち上げてから2年になる。記事の数でいうと1,340話ほど。そういう意味ではカメラやロードバイクに負けないくらい、実は趣味のひとつになっていると言えるかもしれない。2年の間にジワジワとだけど訪れてくれるひとも増えてきて、単純に”継続って大事”なんだなと思ったりもして、それだけでもブログをやってみた価値があるなと感じている。

僕のブログはカメラというタイトルは付いているものの、カメラの専門性に特化したブログではない。まわりを見渡すとカメラの機能や歴史、作例まで濃密に記載されている素晴らしいブログがたくさんあって、僕のカメラ知識ではとてもじゃないけどそんな高尚な記事は書けない。だから、内容はずいぶんと気分寄りなものになる。カメラでもロードバイクでも、そのプロダクトと過ごしたり暮らしたりしている時の気分。それなら僕にも少しは書けるし、カメラやロードバイクのビギナーのひとの参考くらいにはなるんじゃないかと思い、懲りずにこうして日々更新している。いや、それは結果論というか、強いて言うなら、という後付けの理屈かな。単純に僕が書きたいことを、僕が心地いいように書いているというのが正直なところかもしれない。それが誰かのためになるなら、それは副産物としてはとても嬉しいこと、そんな感じかな。

それでも、毎日こうしてある程度の文章を書き続けるというのは、思考の筋トレみたいなものにもなっていて悪くない。そして、毎日何気なく撮っている写真の保管庫としての役割にもなっている。TwitterやInstagramもやってるけど、どこに立ち位置があるかというと僕の場合は間違いなくこのブログで、ここがいちばん居心地がいいし、いちばん素直に発言できる。そういう隠れ家というか、じぶんの部屋のようなものを持っていると心落ち着くところもあるんだよね。そういう意味では、見られたいけど見られなくない、そんな絶妙な僕の居場所なのかもしれない。

いつの頃からかTwitter連携よりも検索から訪れてくれるひとが増えてきて、だったら検索のひとにも分かりやすいタイトルのほうがいいかなと、あまり詩的なタイトルで書くのはやめてみたり、マイナーなことほど検索してるひとには助かるのかなと意識して書くようになったり、じぶん色から少し読み手のひとの色も考えるようになった。これだけ記事も増えてくると、1日に一回だけしか読まれていない記事もたくさんあるんだけど、それでも一人には読まれてると思うと、なんかジンとくるというか、少しでも読んでくれたひとに気づきとか新鮮な気持ちを届けることができればなと考えたりするようになる。僕が何かを提供しているようで、実は読んでくれたひとから提供してもらっていることのほうが多いんだろうね。ブログのそういうところが好きかな、いちばん。

そういえば、さっき田中長徳さんのブログを見に行ったのだけど、丹念に毎日更新されていて素晴らしいなと思った。毎回異なる切り口で適度な量で言いたいことをズバッと語られている。生きている経験の量、勉強している量が圧倒的に僕とは違うなと少し凹んだりもしたけど、日々更新し続けているということだけは親近感を感じさせてもらい、どこかじぶんの励みにもしている。ひとつひとつの記事は些細なことかもしれないけど、継続してある程度の数の集まりになれば、世の中のどこかの誰かのためになる記事がひとつくらいはできるかもしれない。そんなことを考えながら今日も記憶をブログに積み重ねている。趣味というよりは呼吸というか、もっとからだの一部のような存在かな。写真を撮ってブログを書く。可能なかぎり続けていきたいな。

デジタルからフィルムを経て、もう一度、肩のチカラを抜いてデジタル一眼レフへ。

今夜、僕はNikon D300を連れて家に帰ってきた。型番はFではなくてD、フィルムカメラではなくて実に一年ぶりのデジタル一眼レフの購入だ。思えば去年のゴールデンウィーク後に、当時使っていたNikon D750やコンデジ、レンズなんかをほぼすべて手放して以来、手持ちのカメラといえばRICOH GRとこの春から始めたフィルムカメラたちで、特にフィルムカメラにハマってからはデジタル一眼レフを再開するイメージはじぶんでもまったく持っていなかった。そんな僕が今夜、再びNikonのデジタル一眼レフを手にして家へ帰ってきたのである。

なぜか?。これはもうフィルムを始めたおかげとしか言いようがない。デジタルからフィルムへ移行した人間が、しかもフィルムにハマっている人間が、なぜ今になって再びデジタルへ帰ってくるのか不思議に思われる人も多いと思う。僕だって予想もしていなかったじぶんの意外な行動だから。でも、フィルムをやると、露出のことやレンズのこと、マニュアルでカメラを操ることなど、カメラの本質的おもしろさを知ることになる。そうすると以前は何かとカメラ任せだったデジタル一眼レフだけど、今ならMFレンズをつけてマニュアルでフィルムライクに写真を楽しむことができるんじゃないかと考えるようになったんだ。

以前D750で撮っていた頃の僕はといえば、絞り優先で撮っていたんだけど、露出のことは理屈として分かっていなかったし、ピントをはじめありとあらゆることをハイテクカメラ任せにしてしまっていたと思う。それなりには楽しめていたけど、カメラ本来の醍醐味である、露出を考えながら一枚一枚マニュアル操作でたいせつに操るというおもしろさをほとんど引き出せていなかったんだよね、きっと。そんな僕に写真を撮ること、カメラで撮ることの本当のおもしろさを教えてくれたのはフィルムカメラだった。良くも悪くもフィルムカメラは何も自動ではしてくれない。絞り、シャッタースピード、ISO感度、ピント合わせ、すべては撮り手がじぶんですべてやらなくてはいけない。でも、これがすごく楽しいと思えたんだよね、フィルムカメラのおかげで。そして、MFレンズをつけたり、露出を計ってマニュアルで撮れば、デジタル一眼レフだってフィルムライクに味わい深く撮影を楽しめるんじゃないかと思えるようになってきたんだ。

今回購入したD300は、2007年に発売された十年選手の一眼レフだ。画素数や感度こそ現代のデジタルカメラと比べると見劣りするスペックばかりだけど、フィルムライクに撮りたい僕にはむしろフィルムカメラの流れを汲むいい時代のデジタル一眼レフ。とはいえ当時のNikon APS-Cのフラッグシップ機だから、その操作感はとても上質なプロダクトであることを手に伝えてくる。そして、なんといってもフィルムカメラ時代のMFレンズを装着して楽しむことができる。いまのフィルムカメラで使っている手持ちのAiレンズをつけてデジタル一眼レフを楽しむことができる。それは不変のNikon Fマウントならではの楽しみ方でもある。このブログの写真は、中古カメラ店で装着してみたAi 単焦点50mm、自宅に持って帰ってからもAi 単焦点35mmを装着してみたけど、なかなかレトロでいい味わいのフォルムになる。試し撮りはこの週末までのお楽しみだけど、この週末といえば夏休みでちょっとした長めの休みをとることができる。早速、35mm(APS-Cだから35mm換算で約50mmの画角)のMFオールドレンズをつけて散歩カメラを楽しみたいと思う。そして、機械式フィルムカメラのNikon F2やLeica M3と撮り比べをしながら、フィルムとデジタルの両方の写真の楽しさを存分に楽しみたいと考えている。

値段やブランドに関わらず、いいものはいいと言える感覚。

まず全体として、値段の高いものやブランドの真髄が投入されているものは、いいものであることが多い。でも、それはマス的な評価であって、異なる一人ひとりにとっていいものかどうかは、また少し違う話ということ。僕らの世代はまさにブランド神話みたいなものに酔ったバブル真っ只中を経験した世代だから、より値段やブランドを気にするところがあったかもしれない。いや、正確にいうと”まわりの目や、まわりとの同調、まわりへの見栄”なんかを気にして生きてきた世代と言えるかもしれない。けれど、いつの頃からか、そうしたまわりからの評価みたいなものを気にせず、「じぶんにとっていいものはいい」と言えるようになってきた。それはバブル以降に生まれてきた堅実志向の世代の人たちの影響かもしれないし、インターネットによるパーソナライズな時代の流れかもしれないし、僕が歳をとったせいかもしれない。いずれにしても、いいことだなと思う。もともと同じ人間などいないこの世の中で、いいと思えるものが同じはずはないし、個人の幸福の価値観もいろいろ。それは以前から変わらないはずだけど、きっと世の中の空気がそういう個人の価値観の発信をどこか抑制させてきたんだろうね。ファッションもしかり、持ち物もしかり、趣味や住むところ、仕事のあり方だって、今はじぶんらしさをしなやかに言えるし、そういう人はとてもいい生き様にも見える。なかなかややこしい時代になったと言われるけど、案外しなやかで人間らしい時代なのかもしれないね。

忙しいのは、生きてる証。

それにしても忙しい。まあ、ぜんぶ、じぶんのせいなんだけどね。やり過ごせそうな仕事を大きく膨らませたり、頼まれてもいないのに繋いだり起案したり。そんな慌ただしい最中に愛犬を家族に迎え入れたり。暑さも手伝ってちょっとクラクラするここ一週間だったりする。

やっと現像を取りに行くことができた。一本だけ。それが僕の今の忙しさを物語っているかもしれない。それでもブログだけは書き続けようと決めたことだから、移動の時間を使ってこうしてブログを書いている。

不思議なもんで、忙しさは疲れはするけど悪くはない。いや、正確にいうと、暇なよりは何倍も生きてる気がする。小刻みにスケジュールをクリアしていく感じは、どうかしたらそのへんのゲームをクリアするより爽快感がある。ずっと続くのはさすがに勘弁だけど、忙しさの先に希望が見えるのなら、忙しさは希望を盛り上げるための演出効果と言えなくもない。というわけで、夏休みはすぐそこまで来ている。そこまではがんばろう、じぶん。

人生は夢中になれること探しの連続。

少し前にも似たようなことを書いたかもしれないけど。人生、もしくはこの世、時間は、前にしか進まない。いまこの瞬間も数分後には過去になって、戻ろうと思っても戻れない。そう、僕らは前に進むだけ。だから、常に前に進もうとする推進力が僕らにはいる。夢とか希望とか憧れとか。それが大きなものであれば将来プロサッカー選手になりたいというものだろうし、小さなものであれば痩せたいとかそういうものかもしれない。新しいカメラが欲しいなんていうのも沼とか言われるけど、僕はアレ、新しいカメラを手にしたら今よりいい写真が撮れるんじゃないかという、やっぱり希望の類だと思う。ロードバイクを始めるのも、水泳を始めるのも、あれ?なんだかじぶんの擁護みたいなくだりになってきたけど笑、まあとにかく前にしか進まない人生には、前に進む気力が起きる希望がいるわけです。現状に飽きるとかそういうことではなくて、ひたすら前進するしかない人生においてもう一歩前に踏み出すエネルギー。だから、ある程度の浪費は肥やし。そんなことがやっとこの歳になって少しわかってきた気がする今日この頃。

“待つ”って実は楽しいのかも。

“待つ”という行為はあまりポジティブには聞こえなくて、どこかフラストレーションのたまることだという認識があったけど、近ごろ少し違うように思う。

たとえばフィルムカメラで撮るとすぐには写真は見れず、現像があがるまで待つことになる。でも、この待ってる時間というのがなんともいえず、いい。あと、僕に関していえば、いまとあるカメラが修理から戻ってくることを待っている。これも、最初に修理期間が少し長引きそうと聞いた時は一瞬残念に思ったけど、こうして今も待ってるのがどこかワクワクして心地よい。

そういえば、ロードバイクが納車されるまでの間、二週間ほど待ってた時も異常にワクワクしたし、”待つ”という行為はそれだけワクワクが長く続くという意味ではかなりポジティブなことかもしれないと思ったり。まあ、待つのが心地いいのか、何かを手にするより手にするまでの期間が心地いいのかそれはわからないけど、何か”待たなければならない”事象があったとしても、それは今ならそれほど苦痛じゃなくて、むしろ楽しめる余裕があるじぶんに気づいている僕がいる。待ってるうちが華だよ、ということかな。些細なことかもしれないけど、フィルムとの出会いがそんなことも感じさせてくれている。

新しいことを始めると、少しじぶんも新しくなる。

なんかおもしろいこと起きないかなあ、と思って寝転がって考えていても、残念ながら新しいことは起きない。ネットの中を徘徊したり検索してなんか新鮮な記事を見つけたとしても、それは世の中に新しいことが起こっているのであって、その本人には新しいことが起こっているわけではない。僕はなんとなくそういうことに気がついて、無精なじぶんを”行動を起こす”という状態に誘うようにしているところがある。ものによってはお金や時間を要するものもあれば、ちょっと早起きしたり寄り道したりしてすぐできることもある。仕事を変えたり住む環境を変えたりという大きなこともあったりするよね。新しいコトの大小の違いはいろいろあるけど、とにかく昨日のじぶんとはちょっと違う新しいことを始めてみると、気づくこととか見えるものが少しだけ新しくなることがわかる。つまり、じぶんが少し新しくなっていることに気づき、それが脳の中に小さな幸福感のようなものをもたらす。なにか禅問答のような話かもしれないけど、僕はこのことこそ生きることのすべてではないかと最近思っている。さて、今度はどうやってじぶんを新しくしようか。

「100日間セカイ撮影の旅」とか行ってみたいよね。

僕はじぶんで言うのもアレだけど、ほんと写真撮るのが好きでね。上手くはないけど、撮るのが好きなのは割と誇れるんじゃないかと思っている。ほんと、許されるなら一日中、いや数ヶ月間くらいカメラを持って撮影の旅に出かけたい。旅といえばこれまでは仕事目的か観光目的でしか行ったことないし、カメラを持つようになってからは旅らしい旅もしていない。一人きりでね、カメラを持って、ひたすら撮りまくっていいよと言われたら、いい意味で僕の写真観がちょっと壊れてくれるんじゃないかと期待するところもある。僕らが若い頃は広告コピーなんかにも100本ノックならぬ100本コピーみたいなのがあって、それはしごかれるというのとはちょっと違って、同じ商品についてキャッチコピーを書き出すと数本、20本も書けばネタが無くなってくる。そこから、理屈や理性じゃなくて無意識とか違う角度から書かざるを得なくなるわけだけど、そうするとお利口なじぶんが一度壊れて新境地が顔をのぞかせて、いわゆるあざとくない言葉が生まれてくる、そんな意味合いなんだけどね。写真もそういうところがある気がする。好きな写真を好きなだけ撮っていいよと言われると一週間くらいは嬉しいと思うけど、そこから適度にじぶんのマンネリ感ともきっとぶつかりそうで、でもそれがとても楽しみで。同じ場所、同じものを撮り続けるのはさすがに少しへこたれそうだから、世界を移動しながら100日間ほど。どうだろう。いや、夢みたいに書き始めたけど、これ、実現したいな、いつか。なんか、少し見えた。