未来は便利になることだっけ。

Leica M-P, Summilux 50/1.4 2nd

ふとね、日曜日世の中の夜とはそういうことを考える。世は2018年。ついこの前まで20世紀だったのにほんと驚くばかりだけど、世界は21世紀になって、ITとインターネットの革命があらゆることを新機軸に塗り替えていってる。日々まるでオセロを一気にひっくり返すように変えていっている。電話に電話線はないし、調べたいものは重たい辞書を開く必要もなく検索一発。カメラはデジタルになって、今年国内のモノクロフィルムは姿を消す。とんでもなく便利にはなったんだろうな。僕らが思う以上に。でも、どうなんだろう。僕らが昭和の頃にワクワクして妄想していた未来とは便利になることだったっけ。便利という名の少し薄っぺらい時代になんかモヤモヤする日常。血の通っていない、なにかを忘れてしまったような感情。僕が昔のカメラやレンズに魅せられるのは、そういう忘れものを取り返しにいってる気がする。まあ、とはいえ時代は前に進むだけ。嘆いてもしょうがない。そこは古いことがいいことでもないから、バランスをとるだけ。変えていいものと、変えてはいけないもののバランス。歳をとってる分だけ何か得したことがあるとするなら、昭和という時代を生きたこと、知っていることかな。さて、そろそろ眠りにつくとする。じぶんらしい未来を妄想しながら。

写真は好きだけど、趣味としては「カメラで撮る行為」が好きなんだろうな、僕は。

Leica IIIa, Rolleiflex Standard

思えばNikon D5300でカメラを始めてから、一度断捨離したりフィルムカメラで一眼レフを再開したりで、中判カメラまで来た。さっきローライフレックス・スタンダードのブログを書いていてふと思ったんだけど、まだ現像に出していないのにかなり高揚感というか感動の気持ちがある。これって僕は「カメラで撮るという行為」が好きなんだろうなとあらためて思ったりしたんだよね。

近ごろはフィルムも撮るし、デジタルも撮る。そこに変なこだわりはなくなったし、一眼レフかレンジファインダーかも言うほど僕の中では差はない。ようやくというか、その「カメラで撮るという行為、が好き」ということに行き着いた、そんな気がしている。その上で、できあがる写真まで気にいるものがあがればそれはもうボーナスみたいなもので、カメラを愛したことに対しての写真の神様からのご褒美みたいなもの。小っ恥ずかしいけど、そんなことを思った。

カメラで撮る行為が好き、ということになると、オートで撮れるものより自分でカメラを操って撮るもののほうが行為は濃くなるから、だんだんと機械式のものに惹かれていくのも分かる。だんだんと自分の本性というか、本能が欲する世界がわかっていく感覚は実に気持ちいい。たまに昔の自分のブログを読むと、その自分の好みがだんだんと紐解かれていく前夜みたいな気がして、あ、ブログに記しておいてよかったなと思ったり。結局、自分がいちばん分からないし、ミステリアス。趣味とは、そこを解き明かしていく行為なのかもしれないね。あらためて、いい趣味に出会えてよかったなと思う。とはいえ、できあがる写真もできれば上手くなりたいけど。

世の中が素通りするようなものにファインダーを向けたい、みたいなのはある。

Leica M-P, Summilux 50/1.4 2nd

Tweetするのもいいんだけど、やっぱりブログに記すほうが心落ち着く。文字数をコンパクトに詰め込み過ぎず、ある程度のらりくらり書けるのがいいんだろうな。あと、ひと階層奥の見えない場所でひっそり書いてるというのもいいのかな。

僕は写真もそういうところがあって、たぶん多くの人が見向きもせずに素通りするだろうなみたいな光景に心惹かれるところがある。パワーはないけどエネルギーは感じるみたいな光景。そういうものが好きだ。考えてみると、小さい頃から目立ちたいと思う反面、目立ちたくない、もしくはさりげなく良いみたいなことが心のどこかにあった気がする。とても矛盾するところもあるんだけど、スナップ写真とかブログとかはそういう微妙な塩梅をうまく内包した表現手段なのかもしれない。

とはいえ、それは撮り手の僕が心地よい世界であって、写真を見る人が心地よいものとは違うなという思いもあって、ブログにカメラや写真のことを記す以上、見る人の役に立てるような写真や文書をこしらえる努力をもっとしないとな、という思いも。写真が得意なわけでもなく、かといって緻密な洞察力で詳細を説いた文書が書けるわけでもない。ちょっと困ったなという感じなんだけど、ひとまず撮り続ける、書き続けることしか突破口を感じることができなくて、日々こうしてスナップを撮り、ブログを書いている。撮りながら、書きながら、模索中という感じかな。その思案は楽しくもあるんだけどね。

写真に言葉はいらないけど、タイトルはあったほうがいいと思った。

「紳士と街」Fujifilm X-E2, Industar-61 55/2.8

今さらの気づきでアレなんだけど、ふと昨夜そう思ったんだ。きっかけはTwitterでつながっている〈だいきちボンバー〉さんとやりとりしたこと。(あ、この〈だいきちボンバー〉さんはフィルムカメラやオールドレンズの素晴らしいブログを展開されてる方なので、ぜひ一度のぞいてみてください)。で、そのだいきちボンバーさんが僕の過去にTwitterにあげた写真を「タイトル」で呼んで会話されたんだよね、何気なくね。

というのも、僕はふだんはほとんど機材クレジット(使用したカメラ、レンズ、フィルムの情報)しか載せないんだけど、ここ最近、特に意味があったわけじゃないけどタイトルらしきものを写真に添えていたんだよね。あまり写真の印象に影響のないようなシンプルで普通のタイトル的言葉。例えば上の写真は「紳士と街」、下の写真は「すれちがい」。まさに、だいきちボンバーさんが会話にふと持ち出された2枚だ。

「すれちがい」Fujifilm X-E2, Industar-61 55/2.8

そのTwitterでの会話そのものは別に写真タイトルなんかの話ではなくて、ロシアンレンズへの興味関心のやりとりだったんだけど、そのスナップ作例の中のある写真を持ち出した会話の時に、さらっと写真タイトルが持ち出されたんだよね。その時は自然と会話を終えたんだけど、後から振り返った時に、

あ、写真にタイトルがあると、なんというかニックネームみたいで、コミュニケーションがしやすくなる。

なんか今さらだけど、そんな風に思ったんだよね。とはいえ、僕がTwitter なんかにあげてる写真は、ほんとなんてことない日常のスナップなんでタイトルをつけるほどのものでもない。だから無理やりはつけない。スナップを撮る時にふと頭によぎったであろうフワッとした感情みたいなものを瞬間的に思い起こせるものは、タイトルとして、いやニックネームとして添えようかなと。そんなことを、ふと思ったんで、メモのような記憶として。

春、さて何を始めようか。

Leica M-P, Jupiter-8 50/2

日曜日の夕方、少し早めに愛犬と散歩へ出たけど、撮れ高ナシだったのでブログを書いている笑。それにしても季節の移り変わりは速い。歳とともに時間の経過は加速するというけど、こんな感覚だと一気に人生の終わりまで駆け抜けそうで、ふと不安にかられる。いや、不安というよりはもっと穏やかなものだけど、それでも人生の短さを気づかされ、少しあせる。もう一度、10代あたりに戻れたらアレもやりたいコレもやりたいということがあるけど、大人になるとやけに冷静になってしまって、当時よりは実はお金も時間もあったりするのになかなか羽ばたけないじぶんもいたりする。人間まるくなってはいけない。どこか無理をして、とんがって、もがいて、カッコ悪く這いずり回って、それまでできなかったことに挑戦しなくてはいけない。時間は無いとも有るとも言える。たぶん、じぶん次第だ。さて、春。想定内のことではない、生命力という本能が求める刺激のようなもの。じぶんを驚かせて生き生きとさせること。何を始めようか。

被写体は「いま」。

Leica M-P, Summilux 50 2nd

この人、写真上手いなあと思うのは、やっぱり主役というかテーマ、タイトルといってもいいかな、そういう撮りたいものが明瞭なものがやはり多い気がするけど、そういうものとは無縁のように、撮りたいものがファジーに思えるんだけど「あゝいいなこの空気感」みたいな写真がたまにある。それは何がいいんだろうと思うと、「いま」という臨場感を捉えているからいいんじゃないかなと思い始めている。

この場合の被写体は強いて言うなら、モノでもヒトでも風景でもなくて「いま」なんじゃないかと。街が呼吸してる感じを撮るとでもいえばいいだろうか。僕にそんな写真が撮れているとは思いづらいけど、そういうスタンスというか、そういう気配みたいなものが撮れるといいなあと思ったりする。誰に見せるわけでもない、じぶんが後から見て「あゝ、いいな」という写真だから、もうそれは個人的、とても私的な写真でしかないんだけど、僕はできればそういう写真が撮りたいなあ。

言うほど簡単じゃなく、あがってきたじぶんの写真を見てはため息をつくことも少なくないけど、僕の中に写真を撮る上でのテーマがあるとするならば、そういうこと。街が息づいている様子が、じぶんが「あ、僕は生きている」という感覚を再確認するのにとてもいいんだよね。写真をきちんととっている人からすると、ずいぶん甘々なテーマ設定かもしれないけど、近ごろそんなことを思う。写真にそれぞれタイトルをつけるとするならば、ぜんぶ「いま」。レンジファインダーで街を撮るようになって、そんなじぶんの好む世界に気づきつつあるんだ。こういう感覚ってTeitterでツイートするのはなかなか恥ずかしいけど、こうしてブログの中ならこっそり言える。ブログを続けられている原動力もそこにあるのかもしれない。

なかなかシンドイことが多い日々の中で、カメラに救われることは少なくない。

Leica M-P, Elmar M 50/3.5

なるべくポジティブにいようと思うけど、世の中どちらかというとシンドイことのほうが多いよね。これはもう人生、ずっと学びの連続だから。兄弟だって家族だって100%理解して過ごすなんて難しいんだから、社会に出れば価値観の違う他人たちに四方囲まれて、それはもう理不尽なことだらけといっていい。そんな日々を反面教師にしながら人はひとつひとつ人生の生き方を学んでいく。戦ってるんだよね、誰しも。

そんな日々に、一人でじぶんの操る何かにおいてモノを創造する時間というのはとてもたいせつ。絵でもいいし、音楽でもいい。少しの間没頭して何かを紡ぎ出す行為は、理不尽で思い通りにいかない世界をちょっぴりだけ浄化してくれる。カメラで写真を撮るという行為も、とてもいいと思う。絵や音楽を創り出すほどは難しくなく、カメラを持って街に出さえすれば写真という創作物を生み出すことができる。一日に数枚でもいい。一人、没頭する時間をもたらしてくれることこそがカメラの最高性能だ。

撮らない日があってもいいから、カメラを鞄の中に入れて持ち歩こう。そして、いい瞬間に巡り会ったら素通りせずにシャッターを切ろう。少し通り過ぎてしまったら、そのまま通り過ぎずに引き返してファインダーでのぞいてみよう。その数秒の思案がこころにスーッとする何かをもたらしてくれる。最近、ほんとにそんな風に思う。引き返すこと多いんだ。明日からまた平日の日常が始まる。カメラを持って戦おう、平静を取り戻すために。

ライカはゴールじゃなくて、スタートだ。

Leica M-P, Summilux 50/1.4

僕はいまカメラのある、スナップのある日常をほんと楽しんでる。でも、もし心残りがあるとするなら、もう少しはやくカメラと出会ってればよかったなと思う。僕の人生の大半はほんと無趣味で、若い頃は仕事が趣味と思ってた。でも、仕事は家族を養ったり責任の伴うもっと重いものだし、その仕事とバランスをとるにも、仕事とは別にもっと軽やかな趣味が必要だと歳をとってから考えるようになった。

そうしてカメラと出会ったのが3年前ほど。僕は今年50歳を迎えるんで、実に遅れた出会いだったわけだけど、それでも出会えたことは幸運で、その後、フィルムカメラにハマったり、ライカに恋したりと、人生を挽回するように写真とカメラと濃密な時間を過ごしている。矢継ぎ早にカメラを購入しているように思われるかもしれないけど、それはまあ一応、若い頃に比べれば大人の散財ができるくらいの年齢ではあるし、何より残りの人生の時間を「挽回」しないといけないから笑、多少普通の人よりは生き急いでいるかもしれないんだけどね。

で、ライカの話だけど、このカメラはたしかに高価ではある。でも、それは最新のデジタルライカがそうなのであって、往年のフィルムライカであれば決して現代のカメラと比べて割高じゃない。実際、僕がスナップにハマったのはデジタルライカがきっかけではなくて、バルナックライカIIIaという普通の人から見たらとても古めかしいカメラを手にしたことがきっかけだ。そこから、以前から所有していたM3もスナップカメラと化したし、食わず嫌いで敬遠していたデジタルライカもスナップシューターとして迎え入れることになった。

僕にしてみれば、ライカというカメラはゴールとして手にするよりも、ここが何かの始まりであり「スタート」。いつかたどり着くというより、できるだけはやく出会っておきたいカメラだという気が今はしている。ライカとは、カメラとは、写真とは、という本質的なことを知る上でも、むしろ割安で始めやすいフィルムライカがいい。若いうちにバルナックを手にして「スタート」を切る。そうしていつかゴールとしてのデジタルライカを手にするというのも、とても素晴らしい軌跡な気がする。あくまで僕という人間の境遇の中で感じたことではあるけど、これもひとりのアマチュア写真愛好家の意見として。大事なのはゴールより、スタートなんだ。

大事にしたいというより酷使したい道具感、Leica M-P×Summilux50。

Leica M-P, Summilux50/1.4 2nd

週末スイムを終えて、ようやくひと息ついてる土曜日の夜。自室でひとり、スナップシューティングの道具たちを手入れしたり、シャッターを切ってみたり。束の間の落ち着いた時間だ。

愛機を手に持ち、その感触を確かめてると、スナップのイメージが脳裏にいろいろ浮かんでくる。こういうクリエイティビティを刺激するのがいい道具なんだと思う。バルナックライカIIIa、M型の原点M3の感触もすこぶる僕を刺激するけど、今夜もっとも僕のイマジネーションを刺激してくれてるのは、最も新しい相棒たち、Leica M-PとSummilux 50/1.4 2ndのコンビだ。

全身ブラックに身を包むこのコンビは、精悍であると同時にとにかく街中で闇に溶け込むことができる。目立たない、これがこのコンビの最高性能だ。他人からは存在を消しながら、シャッターを切る本人だけにはアドレナリンを放出させる、そんなカメラとレンズの組み合わせ。この両者は後生大事に扱われることを目的として僕の元へやってきたプロダクトではない。ガンガン使い倒して、傷をもろともせず、ブラックペイントを剥がし、使い込むたびに手に馴染んでいくであろう完全に道具だ。他のカメラ同様、カバーをつけるつもりもない。そういうソノ気にさせてくれる道具感がある。

その人間らしい質感もいい。M-P typ240のシャッター音は使うたびにクセになってきたけど、連写可能なバッファのタフさのほうに惹かれ始めてきた。シャッターを連続して切るときにメカが頑張ってる感触が伝わってくるのがいい。そして第二世代のSummilux、こいつはブラックアウトされた12586フードの佇まいも戦闘的で好みだけど、その手に吸い付く操作フィーリングがスナップマインドを大いに刺激してくる。撮れる写真も好みの開放付近ではけっこう暴れん坊で、それもまた使い手を試してくるようで悪くない。僕はやっぱり道具然としたモノが好きだと再認識する。

フィルムで撮りたい気持ちも無くはないけど、いまはとにかくM-P×Summilux といこの道具たちを瞬時にスナップシュートできるところまでは集中して使い込みたいと考えている。考えない、からだが反射的に操作する入り口くらいまでは行きたいな。50mmという焦点距離はいい感じにクセになってきてるんで、一歩一歩、さらに前へ、さらに深く。いやあ、おもしろくなってきた、ライカたちとのスナップシューティング。

第二次ライカ恋愛期。

Leica M-P typ240

正直いまライカにゾッコンである。平日のスナップも、週末の散歩カメラもほぼライカ一色。これほどまでにライカに心奪われるとは、ライカを選んだじぶんですら想像できなかった。

僕にとってライカは初めてではない。もともとフィルム機としてLeica M3は所有していた。買う気もなかった時、たまたまお店で実機にふれて、その恐ろしいまでの精密さに一目惚れして手に入れた。その後、いろんなカメラを購入するも、常にその中心にはM3がいた。浮気をしても必ず戻ってくる場所。いわゆる別格の存在である。これがつまり第一次ライカ恋愛期だ。

以来、M3を超えるライカは想像できず、特にライカを買い足す気持ちは無かったんだけど、ある日バルナックライカを手にしたことから自体は一変する。バルナックIIIaがたちまち日々のスナップ用カメラに躍り出るのである。小型軽量、控えめなシャッター音、ライカ機が生粋のスナップシューターであることをあらためて認識することになる。それも、かなり強烈なレベルで。

IIIaを街に持ち出すと同時に、フィルムで夜の街を撮ることも覚えた。そして四六時中ライカと過ごすイメージは増幅し、M3を街に連れ出す行為へと熱は飛び火する。二台のフィルムライカを取っ替え引っ替えスナップに連れ出す日々。それだけレンジファインダーと濃密に時間を過ごすと、レンジファインダーで撮るスナップの軽快さに頭と体が濃密に適応していく。そして、本当の意味でレンジファインダー機の魅力に気づくじぶんがいた。

バルナックIIIaを購入してからそれほど日数は経っていなかったが、そこから次の行動に出るのに時間はかからなかった。M型デジタル機のLeica M-P typ240ブラックペイントを迎え入れることになる。そして、直感で手にしたM-Pとの出会いだったけど、それがじぶんの想像すら超えて、じぶんのスナップライフにドンピシャでフィットすることに、また軽い衝撃を覚えた。この行動、何かに似てるなと思ったんだけど、間違いなくこれは恋愛の時の行動だ。これが再び到来した第二次ライカ恋愛期というわけである。

Leica M3, Leica IIIa

バルナックIIIa、M型の原点M3、そしてその延長線上でデジタル的に躾けられたM-P。この3台のライカがあればもはやカメラボディは十分なんじゃないかと思えてくる。軽快に持ち歩くならIIIa、フィルムでも精密に撮りたい時はM3、そしてフィルムではないシチュエーションの時にはデジタルのM-P。僕のすべての日常は、この3台のライカたちが役割や質感を変えながらカバーしてくれる。そんな実感をとても濃いレベルでいま体験している。

この3台のライカだって、それぞれをしっかり使い込むのはなかなか至難の技だ。毎日カメラを入れ替えたとしても、一週間のうちにそれぞれ二回、多くても三回しかスナップに連れ出すことはできない。決して多くない数字だ。僕の残りの人生を考えても、3台のライカと深く向き合うには時間が少なすぎる。少し決心が固まってきた。手元にはこの3台のライカだけを残して、その他のカメラは手放そうと思う。僕にとってカメラは撮るものであって、部屋に飾りコレクションするものではない。いつのまにか多くのカメラがそうならないために、次の使い手の人たちへバトンタッチしていけたらそれが何よりだと思う。

第三次ライカ恋愛期があるのか、それとも異なる恋愛が今後待っているか、それは分からない。でも、恋愛というものはそもそも今しか見えないもの。いま、この時点の熱みたいなものに身を委ねて、流されてみたいと思う。それほどまでにライカたちは僕の心と日常の多くを占めていった。いくつものカメラを経てたどり着いたものなのか、それとももっと早く出会っていたら同じく恋に落ちていたのか、それは誰にも分からないけど、それってまさに恋愛そのものだなと。他のものを手放し、潔く恋する感じ、僕は悪くない気がしている。