第二次ライカ恋愛期。

Leica M-P typ240

正直いまライカにゾッコンである。平日のスナップも、週末の散歩カメラもほぼライカ一色。これほどまでにライカに心奪われるとは、ライカを選んだじぶんですら想像できなかった。

僕にとってライカは初めてではない。もともとフィルム機としてLeica M3は所有していた。買う気もなかった時、たまたまお店で実機にふれて、その恐ろしいまでの精密さに一目惚れして手に入れた。その後、いろんなカメラを購入するも、常にその中心にはM3がいた。浮気をしても必ず戻ってくる場所。いわゆる別格の存在である。これがつまり第一次ライカ恋愛期だ。

以来、M3を超えるライカは想像できず、特にライカを買い足す気持ちは無かったんだけど、ある日バルナックライカを手にしたことから自体は一変する。バルナックIIIaがたちまち日々のスナップ用カメラに躍り出るのである。小型軽量、控えめなシャッター音、ライカ機が生粋のスナップシューターであることをあらためて認識することになる。それも、かなり強烈なレベルで。

IIIaを街に持ち出すと同時に、フィルムで夜の街を撮ることも覚えた。そして四六時中ライカと過ごすイメージは増幅し、M3を街に連れ出す行為へと熱は飛び火する。二台のフィルムライカを取っ替え引っ替えスナップに連れ出す日々。それだけレンジファインダーと濃密に時間を過ごすと、レンジファインダーで撮るスナップの軽快さに頭と体が濃密に適応していく。そして、本当の意味でレンジファインダー機の魅力に気づくじぶんがいた。

バルナックIIIaを購入してからそれほど日数は経っていなかったが、そこから次の行動に出るのに時間はかからなかった。M型デジタル機のLeica M-P typ240ブラックペイントを迎え入れることになる。そして、直感で手にしたM-Pとの出会いだったけど、それがじぶんの想像すら超えて、じぶんのスナップライフにドンピシャでフィットすることに、また軽い衝撃を覚えた。この行動、何かに似てるなと思ったんだけど、間違いなくこれは恋愛の時の行動だ。これが再び到来した第二次ライカ恋愛期というわけである。

Leica M3, Leica IIIa

バルナックIIIa、M型の原点M3、そしてその延長線上でデジタル的に躾けられたM-P。この3台のライカがあればもはやカメラボディは十分なんじゃないかと思えてくる。軽快に持ち歩くならIIIa、フィルムでも精密に撮りたい時はM3、そしてフィルムではないシチュエーションの時にはデジタルのM-P。僕のすべての日常は、この3台のライカたちが役割や質感を変えながらカバーしてくれる。そんな実感をとても濃いレベルでいま体験している。

この3台のライカだって、それぞれをしっかり使い込むのはなかなか至難の技だ。毎日カメラを入れ替えたとしても、一週間のうちにそれぞれ二回、多くても三回しかスナップに連れ出すことはできない。決して多くない数字だ。僕の残りの人生を考えても、3台のライカと深く向き合うには時間が少なすぎる。少し決心が固まってきた。手元にはこの3台のライカだけを残して、その他のカメラは手放そうと思う。僕にとってカメラは撮るものであって、部屋に飾りコレクションするものではない。いつのまにか多くのカメラがそうならないために、次の使い手の人たちへバトンタッチしていけたらそれが何よりだと思う。

第三次ライカ恋愛期があるのか、それとも異なる恋愛が今後待っているか、それは分からない。でも、恋愛というものはそもそも今しか見えないもの。いま、この時点の熱みたいなものに身を委ねて、流されてみたいと思う。それほどまでにライカたちは僕の心と日常の多くを占めていった。いくつものカメラを経てたどり着いたものなのか、それとももっと早く出会っていたら同じく恋に落ちていたのか、それは誰にも分からないけど、それってまさに恋愛そのものだなと。他のものを手放し、潔く恋する感じ、僕は悪くない気がしている。

Leica M-Pはスナップシューターなのか否か。

Leica M-P *写真は全てフォトヨドバシから

実は昨日から思案している。Leica M-Pのことである。先週、M3やIIIaを購入したいつものお店で談笑している時に、ふとショーケースにあったLeica M-Pブラックペイントをさわらせてもらった。ファインダーをのぞきシャッターを切らせてもらった。Leicaの赤ロゴを排除した漆黒のボディはカッコいいなとは思ったものの、値段も値段だし、特に欲しいとは思わなかった。その翌日の夜、Leica M3の恐ろしく美しいファインダーでナイトスナップを試み、M3があるかぎり僕はM-Pは必要ないだろうと再確認もした。けれど、ふと昨日からM-Pのことがどこか気になって思案している。それは、

“スナップシューターとしてのM-Pはどれほどのものなのか”

ということ。M-Pのブランド感とかに流されてる気持ちはまったくない。ただ、僕がいまこよなく愛しているLeica IIIaとM3のようにスナップシューターとしての実力があるのか否か、それを確かめようとネットの中なんかを調べている。どうせ検討するならフィルムライカとほぼ同じ薄さになった最新のM10がいいんじゃないかと言われそうだけど、そこは実際にふれたのが値段も現実的な中古のM-Pだったこと、そしてそもそもふれようと思ったのが赤ロゴを排除した漆黒ボディだったからであり、僕の中では両者は比較に当たらない。

Leica M-P & Leica M

正直、数年もすれば使い捨てにならざるを得ない電気を使うデジカメに百万円近いお金を払う気持ちはサラサラない(ユーザーの人はごめんなさい。デジタルライカに限らずカメラ全般に思う個人的な価値観の話です)。いま所有しているデジカメNikon Dfなんかもフィルムカメラで使っているオールドレンズが使えるから購入したわけで、デジカメ単体だったらまず手に入れていないだろう。けれど、そういうことを超越して“レンジファインダーのスナップシューターとしての実力”がフィルムライカたちのように本当にあるのであれば、それは思案するに値すると考えたのである。当然、いま使用しているM3とIIIaのレンズが使えるというのも視野に入れてである。

Leica M-P & Leica M

M-Pの詳しい機能に興味のある人はライカ公式HPなどを見ていただくとして、僕が気にしているポイントは以下の通りだ。まず、ボディは多少太くてもいいから、手の中にしっくり馴染む感覚があること、そしてボディはとにかく控えめな漆黒であること。あとこれは僕にとっては相当重要なことなんだけど、JPEGで十分使えること、これだけである。つまり、フィルムライカで撮るスナップシューティングとかぎりなく同じ感覚があるかどうかだけ、繰り返し思案している。

Leica M-P & Leica M

僕のカメラライフはいくつかの道をたどり、最も気持ちいいのは街撮りスナップだという意識に至った。もし、このLeica M-Pが僕にとってそこに最も近いデジタルのカメラなのであれば、所有するカメラはいっそフィルムカメラのIIIaとM3、そしてデジタルカメラのM-Pの計3台に絞ってもいいとさえ考えている。カメラをこれ以上増やしても僕の人生の時間が増えるわけではないので、とてもじゃないけどすべてのカメラを満足に使い回す自信もない。手元に必要最小限の究極のカメラだけ残したい、というここ最近の断捨離したい気持ちもM-Pのことを考えさせるきっかけになったのかもしれない。

さて、まだ何も決めたわけではない。このLeica M-Pというカメラが僕の生活リズムにおいて本当に真のスナップシューターになり得るのか、IIIaとM3とM-Pがあることによってどんなスナップライフのリズムが生まれるのか、そうしたリアリティのある絵を頭の中でじっくり思案してみたいと考えている。少なくとも談笑レベルではなく、もう一度店員さんと共にM-Pを手にとってじっくり議論することが必要だ。今度は現実的なスナップシューターとしての確認という意味で。

僕の写真にテーマはない。強いてあげれば「片隅の記憶」。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

InstagramやTwitterで他の人の写真なんか見てると、ほんとみんな上手いなあと思うし、ちょっとゾクっとする写真を撮る人たちは何かしらテーマみたいなものの存在を感じる。それからすると、僕の写真は控えめに言っても失敗写真が混ざり合ってまさに雑多、テーマらしいテーマも実際無い。でも、ちょっと考えてみた。探せばなんかあるんじゃないかと。テーマらしきものが。で、ふと思ったのが

「片隅の記憶」

まあ記憶の片隅にあるもの、でもいいんだけど、要は記憶のメインのものではない写真たち、ということ。考えてみると、僕が写真を撮っている時というのは、ふと空いた時間なんだ。空いていない時間、つまり記憶のメインになるような瞬間はその場の空気を楽しんでるから、カメラなんて構えていない。カメラを構えるのは、メインではない時間なんだ。だから、じぶんの写真のことを強いてあげれば「ほんの片隅の記憶」ということになるなと。

でも、それはメインじゃないから寂しい話かというと、そういうわけでもなくて、放っておいたら数日後にはすっかり忘れて消えてなくなりそうな記憶の片隅の事象を、こうやってスナップにおさめておけば、後から写真を見た時に記憶として思い返すことはできる。その時の天気とか気温、音や風、フレームの外の光景なんかをじんわりと思い返すことができる。それは凄くはないけど、意外と素晴らしいことなんじゃないかと思ってる。

まあ強いてあげればという話であって、実際はシャッターを切るのが好きだからもっと無意識にスナップしてるんだけどね。でも、じぶんを客観視した時にそういう気分みたいなものはどこかあるな、という話。最近、Leica IIIaを手に入れてから、夜の街もフィルムでスナップするようになった。夜の街なんてフィルムの感度で撮れるはずがないという先入観があって、これまではほとんど夜間はコンデジのRICOH GRで主にモノクロで撮ったきたんだけど、カラーネガフィルムで撮る街は僕の想像を超えて美しかったし、人間っぽかった。

息を止めさえすれば、ミラーショックのないレンジファインダーなら夜もシャッターが切れる。このことが週末用になっていたLeica M3までも平日のスナップ用カメラとして持ち出すに至った。夜のカラー写真が増えてますます雑多でノンテーマ感が増してるようにも思うけど、これが僕のその時々の片隅の記憶だから、そこは少々ボケていようが、構図が不安定であろうが、どんどんブログやSNSにポストしていこうと考えている。IIIaとM3を持って街の中へ埋もれ、それこそ街の片隅でじぶんの片隅の記憶を撮る。その先に何かあるわけでもなんでもないけど、僕のリズムとしては今、とても気持ちがいいんだ。

カメラはたいせつだけど、たいせつにしてる場合でもない。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5, Lomography400

カメラは美しいプロダクトだし、それなりに高価だとキズが入るだけで気分も滅入る。僕もかつてはそうだった。でもフィルムカメラをやるようになって少し様子が変わった。“様子が変わった”なんて書くとなんだか他人行儀な言い方だけれど、それくらいじぶんでも無意識に変わったということ。

カメラは外気に晒してなんぼというか、自室の防湿庫に何ヶ月もしまっていてもしょうがない。常に鞄やポケットに突っ込んで持ち歩けばそれなり遣れるし、キズの三つや四つや五つはついて当たり前。たいせつにすればするほどシャッターを切る回数はどうしても減る。飾ること、所有することが目的だったんじゃなくて、そのカメラがあればあんな風やこんな風に撮れるんじゃないかと妄想した気持ちこそたいせつだし、それを実行に移すとなればキズは間違いなく増えてく。そのキズこそ、なんというか友情の証のように最近思うんだよね。

最近僕が手に入れて好んで使っているバルナックライカIIIaは、まさにそんな使い倒してやってキズという年輪が増えていくことがとてもクールに思えるカメラ。キズのないバルナックなんて、ただのアンティークの置き物にしか見えない。でも、使い倒してやるとなんというかいい輝き方をする。そういう酷使することで様になってゆくところこそが、スナップシューター・バルナックの真骨頂だと思うんだ。ジーンズのようなカメラとでも言えばいいだろうか。綺麗なジーンズがちょっと小っ恥ずかしいように、カメラも綺麗すぎるとなんか居心地が悪い。そういう道具たちの本当の幸福みたいなことを思い浮かべながら、僕はできるだけ外気の中にIIIaを連れ出す。

カメラは持ち出してナンボ、撮ってナンボ、場所を選ばず酷使してナンボだとほんと思うんだよね。そう考えると、僕は少しカメラの台数を増やし過ぎたかもしれない。試したい、確かめたい気持ちでまずはある程度台数が増えたわけだけど、ここから使い倒せる台数に絞り込んでいってもいいんじゃないかと思い始めている。飾るカメラはいらない、撮るカメラと、あるようで実はそれほど多くはない人生の時間を濃く過ごしたい。どこへ行くにもたいてい一緒、というカメラを3台か4台程度だろうか。キズが刻める濃い付き合い方としてはそのへんが限界な気がする。なにも手放すことが前提ではないけど、こいつにキズを刻んでいきたいというカメラをそろそろ選びたい、そんなことを最近すこし考え始めている。

僕のフィルム心を再びくすぐってくれたLeica IIIaには感謝してる。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5

しばらくこのLeica IIIaの記事が続いてるけど、それほど気に入ったということなんだ。軽量コンパクトとか、赤エルマーの写りだとかいろいろ長所はあるんだけど、ひと言でいえば「肌身離さず持っておきたくなるカメラ」ということに尽きる。

Leica M3もNikon F2もNikon F6も素晴らしいけど、肌身離さず持っておきたいと思わせるスナップカメラとしての魅力においては、ちょっと断トツかな。それくらいLeica IIIaには開発者バルナックが思い描いたコンパクトなカメラとしての素性が濃密に宿ってると思う。

精巧な写真を撮ろうと思えば他のカメラでいいし、AFで一瞬を逃さない写真ならやはり他のカメラでいい。でも、ふらりと外へ出かける時にサッとポッケや鞄に放り込んで撮るなら、このIIIaが俄然イチオシに躍り出る。どんどんカメラがハイテク高度化する時代に、この存在感は相当貴重だと思う。カメラを始めてここへたどり着くためにいろんな試行錯誤があったけど、たどり着けて本当によかったな、そう思わせるカメラなのである。

「フィルムカメラを始めました」という声を聞くと、近頃はじぶんの事のようにうれしい。

Nikon F6, 50/1.4D, lomography100

ブログを書き始めて、その間に所有カメラも変わり、最近ではフィルムカメラのことについて書くことが多いのだけど、たまにこのブログを見て「フィルムカメラを始めました」といった声を聞くことがある。それはもう本当にうれしいことでね。

僕のブログはたしかにカメラや写真のことについて書くことが多いけど、ご覧のとおりここには機能的なことや技術的なことはほとんど書いていなくて(いや、知識的に書けなくて)、つづっているのはほんとアマチュア写真愛好家のささやかな感想のみなんだよね。それでも読んだり、反応してくれたり、ましてやこのブログがきっかけでフィルムカメラを始めたとか言ってもらえると、あゝ書き続けてきてよかったなと素直に思うわけです。

写真やカメラの知識が乏しい分、心がけていることはあって、それは「カメラのある日常の気分とかよろこび」みたいなことを書きたいなということ。いや、伝えたい、かな。それは僕自身がカメラに求めるものが機能とか技術じゃなくて、そういうエモーショナルなものだったりするから。カメラの匂いとか手ざわり、音とか、デザインとか、そういうカメラがあることで毎日がちょっと豊かになる感じを、できれば他の人にも伝えられたらなと思った。

写真もそうかな。僕の撮る写真はじぶんで冷静に見ても、特に作例と呼べるほど作品めいたものは一枚もない。ほんと、たわいのない散歩カメラだったり、街角のスナップだったりする。けれど、これが背伸びしない僕のリアルなカメラとの暮らしだし、世の中、数人くらいは僕と同じような感情の人が存在するんじゃないかと。だったら、その数人の人に向けて等身大の写真やカメラの話をしてみようかなと。世の中にひとつくらいそういうブログがあってもいいんじゃないかなと。

そんな実にスモールワールドなまなざしでありブログなんだけど、そこにたまたま触れて、しかも少しばかり共感してくれて、それが何かしらのきっかけになってフィルムカメラを始めたり、僕のブログは関係なくともTwitter なんかでフィルムカメラを始めた人たちの声を聞くと、それはもうね、じぶんのことのようにうれしいんだな。

写真やカメラの話ってね、本を読んだりネットの解説を見たりするのもいいんだけど、いちばんいいなと思うのはカメラ仲間の人とカメラ談義することなんだよね。まだまだカメラビギナーの僕なんかはほんとそうで、職場に何人かいるカメラやってる同僚なんかの話がとてもリアリティがあって参考になるんだけど、それでもフィルムやってる人はほとんどいなくて、そこはどうしても「フィルムをやる気分」みたいなものの共有がむずかしい。もしかしたら、そんな境遇にある人も少なくないんじゃないかと思って、こうしてカメラの「気分のほう」のブログを書いていたりする。

機能とか技術的なことは、他のブログを見てもらったほうがきっとタメになる笑。そこは真のカメラ通の人たちに任せて、僕は僕がたどってきたような道を歩みつつあるカメラやフィルムを愛し始めた人に、何か気づきみたいなものを提供したり、同じような気分を共有することができたらいいかなと思ってる。近ごろはあらためてフィルムライカにハマっていてね、バルナックIIIaを手に入れて撮り始めたり、M3を再び見つめ直したりしてる。このライカというカメラの敷居みたいなのをもっとライトでフレンドリーにできたらなと思いながら。もちろん最新のデジタルライカは高嶺の花てあることは間違いないけど、僕が使っているフィルムライカなんかは、値段にしても使い心地にしてもイメージよりは全然フレンドリーな存在なんだよね。そういうことにじぶんが気づいたから、そんなことを書いたりしてる。

あとは古き良きNikonのボディやレンズのこと、フィルムコンパクトを毎日持ち歩く楽しさのこと、それからビギナーから徐々にひろげていくフィルムの種類のこと、そんなことを同じ思いをしてる人へ向けて、大声で叫ぶというよりその人の隣に腰かけて話しかける感じで。この世の片隅の小さなブログではあるんだけど、そんな小さな会話が話しかける相手の人にとってはちょっとでも大きなよりどころみたいなものになるといいな。そんなことを考えながら、今日もまたブログを書いている。

僕は写真を撮るのが趣味だけど、カメラを撮るのも同じくらい好きだったりする。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5

というのも、カメラはプロダクトデザインとしても愛おしいんだよね。特に古いカメラはね。適度にキズもあったりして、なんというか年輪を刻んでいくその生きざまみたいなのがカメラにもある。

Leica M3, Planar T*2/50

なかでもライカはやはり存在感としてグッとくるものが何かある。バルナックライカはこの世にコンパクトな35mmフィルムカメラを手軽に持ち歩きたかった!というエネルギーみたいなものを全身で感じるし、M3はそこからちょっと成熟した大人の余裕みたいなものを感じる。

Nikon FE

あと、Nikonのカメラも好きかな。無骨で愚直な、派手さとは違う生真面目な機能美といえばいいだろうか。開発者たちの真面目さがすごくプロダクトに現れてるような気がして、僕はそういう内面にも惹かれる。

Nikon F2

Nikon F2のデザインなんかはほんと好き。手に持って動かした時の堅牢さもシビれるけど、それを見た目には少しソフィスティケートしたような優美な存在感を放つ。僕の中ではNikon Fよりこの社内デザイナーの描いた“らしさ”のほうがとてもモダンに思えるんだ。

Nikon F6

あとはこのNikon F6の背面かな。Nikonフィルムフラッグシップ機の最終モデルである誇りのようなものをこのボディからはいつも感じる。現代のカメラのように背面を大型モニターが占領しない分、そこに何か多くのものが刻まれてる気がする。

Nikon Df, Ai 35/2.8

あとは現代のカメラということでいえば、このNikon Dfだろうか。僕が持つデジイチのメイン機はこの現代らしくないデザインのDf。フィルムニコンで使用している昔のMFレンズたちを装着でき、当時のフィルムカメラのように軍艦部のダイヤル操作で写真を一枚ずつ撮る感覚は、たとえ現代でも僕のカメラの変わらない本質だったりする。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5

カメラはあくまで写真を撮るための道具とも言えるけど、僕はこのカメラという存在自体が愛おしいとも思う。小さい頃からあまり趣味と言えるものはなく大人になって年を重ねてきたけど、いまようやく趣味といえるものに出会ったことが密かにうれしい。そして、そのカメラを撮るのもまたしぶんにはとても心地いい趣味だったりするんだ。

僕の中の28mmは、考えることを放棄する世界。

RICOH GR, GR Lens 28/2.8

これは完全に僕個人の見解だけどね。僕にとっての28mmとはほぼGRのことを意味するんだけど、あれだけ苦手意識のあった広角を曲がりなりにも撮れるようになったのはGRのおかげで、GRがなかったら今も僕は広角とは仲良くなれていなかったと思う。

とはいえ、RICOH GRが教えてくれた、気づかせてくれたのは、28mmを撮る際のノウハウとかコツではないんだ。強いて言うなら「広角は考えるな」ということ。なぜなら28mmは僕の視界より少し外側が写り込んでしまうんだ。じぶんの目で目の前の光景を切り取ったつもりが、好むも好まざるも意識していない少し外側の世界が入り込んでくるから、僕の抱いた画角の世界とは少し異なる印象の写真が撮れてしまう。少しとはいえ、写真の端に想定しないモノが写り込む影響はかなりでかい。何度も撮るけど、これはもうどうしようもない。ある種の「放棄」の世界だ。思い通りの写真を撮ること、何か考えを巡らせて撮るなんてことを諦めさせてくれるものがそこにはあるような気がする。

そう思い始めてからは、実に楽になった。考えて撮らない、どうせファインダーはないし、モニターを凝視してる暇もない。そんなあれこれ考えてるよりは一枚でも多くシャッターを切る。そんなことをGRは教えてくれたように思う。僕はスナップ向けカメラといわれるものはGRしか知らないから、他のカメラでのぞく28mmの世界のことはよくわからないけど、GR的にはそう思ったし、僕的にはその解釈によって28mmが楽になり、好きになった。人間の視界の外側が少し写り込む微妙な違和感のある世界。そのザラついた感じがとても心地いいんだ。思い通りになることがなにも気持ちいいというわけではないことを、このカメラは教えてくれる。

フィルムの不安定さに人は惹かれる。人間らしさという点において。

Nikon F2, Auto50/1.4, Fuji業務用100

精巧で整った写真を撮る、もしくは頭の中にイメージした絵に近い写真を撮る、その信頼性においてはデジカメで撮るほうが優れているのだろうし、何よりスピーディだ。でも、人はフィルムに惹かれる。デジカメで撮る人の多くもどこか心の奥底でフィルム写真へのオマージュみたいなものを感じる。そこにはたぶん、想像通りにいかない不安定さみたいなものを感じ、そのアンコートロラブルな世界にどこか惹かれまくるんじゃないだろうか。僕はそうだ。色も、光の現れ方も、周辺減光も、ピントも、すべては現像があがってくるまでわからない。頭では仕上がりを想像して撮るものの、そんなものは人間を相手にしているようでまるで反応は予測できない。ちっとも思い通りにならない恋愛みたいなものと同じだろうか。被写体の動きさえも思い通りにいかないのに、その写りまでも思い通りにならない、このフィルムの世界。正確さと信頼性が求められるこの時代にあって、すごいことだよね。人はバランスのとれたものに安心するけど、無性に惹かれるのはアンバランスなもののほう。どっちがいいのか。どちらかでないといけないのか。どっちも持ち備えるのがいいのか。答えの出ない人生の難題である。

フィルムとデジタルは、写真の仕上がりだけじゃなくて、撮る心持ちと行為も違うかも。

Nikon F6, 50/1.4D

夕方の愛犬との散歩カメラはNikon F6を連れ出した。やんちゃな愛犬との散歩には、片手で撮れるオートフォーカスのNikon F6か、デジタルならNikon Dfを連れ出すのがほとんとだ。

F6には朝と同様にLomography100を詰めて出かけたんだけど、やっぱり36枚は撮れなかった。僕はシャッターを切るのが好きなんでけっこう量を撮るほうなんたけど、今夕はがんはっても15枚くらいだったかな。やっぱり36枚撮りフィルムは多いな、なんて思ってたんだけど、よく考えてみるとデジタルだったら36枚なんてあっという間に撮っちゃうなと。ん?これって本当にコスト意識の差だけなのかなとちょっと思った。

たしかにフィルムのコストは安くない。フィルム代もだけと、現像とデータ化代で千数百円とかかかる。だからいくら撮ってもタダ同然のデジタルと比べるとたしかに無駄撮りしないというのはあるけど、撮ってる時は意外とコストのことなんかは考えていないよなあと。もっと根源的というか、撮影枚数の限られたカメラを今じぶんは手にしてる、という無意識な中で自然とじっくり撮ってるよなということに、はたと気づく。そんな感覚だ。

だから、辺りをじっくり眺めるし、光の入り方なんかにもデジタルの時より注意しているじぶんがいたりする。そんなテンポで撮り歩いてるから、なんというか時間がゆっくり流れている感覚に包まれる。フィルムとデジタルは、写真の仕上がりが異なるのはもちろんだけど、この撮影する心持ちや行為がもしかしたら別物といえるものかもしれないなと思った。写真を撮り続けてると、たまに写欲が落ちるとか聞く時があるけど、そんな時はデジタルからフィルムへ、フィルムからデジタルへ、カメラを持ち替えると時間の流れ方が新鮮でいいかもしれないね。なんか当たり前すぎて見過ごしてたけど、そんなフィルムとデジタルの違いにふと気がついたんで、ブログに記憶を。