第二次ライカ恋愛期。

Leica M-P typ240

正直いまライカにゾッコンである。平日のスナップも、週末の散歩カメラもほぼライカ一色。これほどまでにライカに心奪われるとは、ライカを選んだじぶんですら想像できなかった。

僕にとってライカは初めてではない。もともとフィルム機としてLeica M3は所有していた。買う気もなかった時、たまたまお店で実機にふれて、その恐ろしいまでの精密さに一目惚れして手に入れた。その後、いろんなカメラを購入するも、常にその中心にはM3がいた。浮気をしても必ず戻ってくる場所。いわゆる別格の存在である。これがつまり第一次ライカ恋愛期だ。

以来、M3を超えるライカは想像できず、特にライカを買い足す気持ちは無かったんだけど、ある日バルナックライカを手にしたことから自体は一変する。バルナックIIIaがたちまち日々のスナップ用カメラに躍り出るのである。小型軽量、控えめなシャッター音、ライカ機が生粋のスナップシューターであることをあらためて認識することになる。それも、かなり強烈なレベルで。

IIIaを街に持ち出すと同時に、フィルムで夜の街を撮ることも覚えた。そして四六時中ライカと過ごすイメージは増幅し、M3を街に連れ出す行為へと熱は飛び火する。二台のフィルムライカを取っ替え引っ替えスナップに連れ出す日々。それだけレンジファインダーと濃密に時間を過ごすと、レンジファインダーで撮るスナップの軽快さに頭と体が濃密に適応していく。そして、本当の意味でレンジファインダー機の魅力に気づくじぶんがいた。

バルナックIIIaを購入してからそれほど日数は経っていなかったが、そこから次の行動に出るのに時間はかからなかった。M型デジタル機のLeica M-P typ240ブラックペイントを迎え入れることになる。そして、直感で手にしたM-Pとの出会いだったけど、それがじぶんの想像すら超えて、じぶんのスナップライフにドンピシャでフィットすることに、また軽い衝撃を覚えた。この行動、何かに似てるなと思ったんだけど、間違いなくこれは恋愛の時の行動だ。これが再び到来した第二次ライカ恋愛期というわけである。

Leica M3, Leica IIIa

バルナックIIIa、M型の原点M3、そしてその延長線上でデジタル的に躾けられたM-P。この3台のライカがあればもはやカメラボディは十分なんじゃないかと思えてくる。軽快に持ち歩くならIIIa、フィルムでも精密に撮りたい時はM3、そしてフィルムではないシチュエーションの時にはデジタルのM-P。僕のすべての日常は、この3台のライカたちが役割や質感を変えながらカバーしてくれる。そんな実感をとても濃いレベルでいま体験している。

この3台のライカだって、それぞれをしっかり使い込むのはなかなか至難の技だ。毎日カメラを入れ替えたとしても、一週間のうちにそれぞれ二回、多くても三回しかスナップに連れ出すことはできない。決して多くない数字だ。僕の残りの人生を考えても、3台のライカと深く向き合うには時間が少なすぎる。少し決心が固まってきた。手元にはこの3台のライカだけを残して、その他のカメラは手放そうと思う。僕にとってカメラは撮るものであって、部屋に飾りコレクションするものではない。いつのまにか多くのカメラがそうならないために、次の使い手の人たちへバトンタッチしていけたらそれが何よりだと思う。

第三次ライカ恋愛期があるのか、それとも異なる恋愛が今後待っているか、それは分からない。でも、恋愛というものはそもそも今しか見えないもの。いま、この時点の熱みたいなものに身を委ねて、流されてみたいと思う。それほどまでにライカたちは僕の心と日常の多くを占めていった。いくつものカメラを経てたどり着いたものなのか、それとももっと早く出会っていたら同じく恋に落ちていたのか、それは誰にも分からないけど、それってまさに恋愛そのものだなと。他のものを手放し、潔く恋する感じ、僕は悪くない気がしている。

雨だから、少しLeica M-Pのことについて。

Leica M-P typ240 & Leica IIIa

雨の日曜日、愛犬との散歩をすませて、少しボーっとしている。忙しかった先週の仕事と昨夜の1kmスイムの疲れがまだ少し残っていて少し気だるいのかな。こんな時はブログを書くのにかぎる。文章を書くことは意外と癒しになるから。

Leica M-P typ240

きのう少しM-Pブラックペイントのことについて書いたけど、その加筆ということで。M-Pの「P」はプロフェッショナル仕様を意味するんだけど、外見上のMとの違いは前面上部に赤丸のLeicaロゴがないこと。その代わりにブラックのネジが見えると思うけど、僕はまずこの控えめな佇まいに惹かれた。ストリートで目立たないからね。

Leica M-P typ240

その赤丸ロゴがない代わりに、M-Pには上面にフィルムライカたちと同じような筆記体の刻印ロゴが刻まれている。バルナックライカやM3と同じ意匠に僕はどこかホッとする。WETZLARの文字を懐かしく思う人も多いだろう。Leica Mだとシルバークロームであるホットシューやその他パーツもM-Pはブラックにペイントされている。徹底して装飾を排除している感じが、ストリートスナップには向いている。

Leica M-P typ240

あと機能的なことでいえば、Mに比べてバッファが2倍に高められているので、連写性能があがっている。といっても連写するカメラでもないのだけど、実際スナップで使ってみるとたしかに起動やシャッターを切るまでの動作が多少俊敏な気がする。とはいえ、それ以外は今時の最新テクノロジーのカメラと比べると驚くほどシンプルだ。

Leica M-P typ240

SSは1/4000までだし、ISO感度も6400まで。その他は僕の感覚的にいえば、M3で写真を撮ることと何ら変わりはない。絞り優先モードこそあるけど、基本は感度を決め、絞りを決め、SSを決めて、ピントを合わせ、シャッターを切る。そのフィルムライカと変わらない撮影プロセスに必要なもの以外は用意されていないシンプルさといえばいいだろうか。僕なんかはそこにとても安心する。

Leica M-P typ240

あとは背面のモニターがサファイヤガラスに強化されてるんで、僕は傷ガード用フィルムも貼っていない。それはクリアなモニターが見れるのと貼り替えの面倒さもなく、意外とありがたいなと思う。そして、デジタルだけどかつてのフィルムライカと同様に底蓋が開く仕様が継承されていて、そこに充電池やSDカードが収まる。この底蓋を開ける行為もフィルムライカユーザーには趣きがありどこかホッとする。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

と、いろいろ加筆してはみたものの、僕にとって大事なのは機能的なことではなくて、フィルムライカと同じような所作で、同じような質感の写真が撮れること。あくまで個人的な感覚だけど、僕はそこが想像した通りだったので、それが何よりうれしい。ライカという企業は21世紀になってもそこを捨てなかった、バルナック博士が目指したスナップシューターとしての本質的な良さを忘れない精神に敬意を表したい。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

撮れる写真については、これはもうごめん、完全に僕の、僕がいいと思うスナップ写真の世界の話だから、ほんとささやかな参考程度にしてもらえたらなと思う。僕は写真、好きだけど、上手くないので。そういえば、M-Pを手に入れようか迷ってる時に革ケース製作でおなじみの昨日カメラさんに少し相談したんだけど、その時に昨日カメラさんが言ってたのが「Leica M-Pは使っていると、もっとフィルムライカが好きになるカメラ」ということ。5日間ほど試し撮りをしてみて、それ分かるなあといま実感してる。

そうか、最近は街を撮ってるというより、人々を撮ってる感覚があるかも。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

人を撮ると言ってもポートレートを撮る度胸はないので、街行く人々を切り取るという感覚。これはじぶんでも自覚があるんだけど、これまでRICOH GRやKonica C35で街を撮る時は極力人が写り込まないものを撮ってきた。だからスナップだけど風景写真。でも、最近は街も撮るわけだけど、どちらかというとそこに生きる人々の影を撮る、そんなイメージのほうが近いかもしれない。変化をもたらしたものがあるとするなら、Leica IIIaを街撮りスナップに持ち出し始めたこと。その軽快で街にほどよく埋もれることのできる生粋のスナップシューターは、僕のスナップに「街の風景よりも、街に流れる空気」を撮ることを意識させてくれたかもしれない。街はもちろん無人の時間帯や場所もあるけど、大抵はそこに暮らしたり働いたりしている人々が存在している。その人々までが写り込んで街を形成してるなら、それも撮りたいなと、そう思った。最近の写真を見比べてみると街のスナップはほぼすべて人々が写り込んでいる。どこの誰を撮ることが目的ではまったくないから、あくまで気配が写り込む感じ。このバランスが今の僕には心地いい。これをスナップと言うのかどうかも分からないけど、これがね、僕のスナップ、うん。

そして、50mmのスナップに魅せられてゆく。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

いま僕は焦点距離50mmでしか撮っていない。Leica IIIaもM3も、そしてこの写真のM-Pもすべて50mmのレンズだ。ついでに言うと、その他のカメラたちもすべてそう。Nikon F2、F6、FEもつけっぱなしのレンズはすべて50mmだ。これだけ50mmに固執し、50mmで撮り続けていると、さすがに少しだけ50mmの奥深さみたいなものが分かってくる。いや、分かってはいないけど、感じ始めてくる。

50mmは標準レンズとも言われるけど、それは初心者向けの焦点距離ということではなくて、50mmが基本ということ。ここから始まり、広角や中望遠、マクロや超望遠と世界が広がっていくけど、やがてまたここに帰ってくる、そういうレンズの核であり縮図のようなレンズが50mmのレンズなんじゃないかと思う。僕が感じ始めてるのは、この50mmの揺らぎのおもしろさ。引いて撮れば広角的になるし、寄って撮れば中望遠的になる。ほどよい距離で撮ればちょっと油断すると平凡すぎる写真しか撮れない。もう何というか、そのつかみどころのない揺らぎ感は、生身の人間と向き合っているようなところがある。

僕はこれまでスナップといえば多くは28mmのRICOH GRと38mmのKonica C35で撮ってきた。つまり広角寄りのレンズでスパンスパン撮ってきたわけだけど、これがLeica IIIaと50mmのElmarに持ち替えたあたりがら、50mmのむずかしさとおもしろさに翻弄されていくことになる。50mmの素の顔はどれだ?、50mmは広角になり得ないのか?、50mmで寄りのような視線は作れるのか?、まさにいろんなことが撮るたびに次の好奇心を増幅させる。その未知なる50mmの深さや広さを想像すると、もうこの先焦点距離は50mmだけでいい、いや50mmに集中しまくってもきっと正解にはたどり着けないであろうという果てしなさを感じる。

特にブライトフレームのあるレンジファインダーで50mmを撮ると、50mmの外側までファインダーの中に写り込むから、全体の広角の景色の中から50mmで世界を切り取ることの感覚を否応なしに感じさせられる。そして僕の足がズームとなって前後に画角を調整し、動く、撮る、そしてまた動く。誰かが言ってたけど、「50mmに始まり、50mmに終わる」「50mmを制する者が、カメラを制する」、まあ、言い方はともかくとして、50mmから始まるカメラの世界はその後広角や望遠の大海原を彷徨うわけだけど、やがて成長して再び50mmへと戻り、そしてそこでまた50mmの摩訶不思議さに気づき、さらにまた探求の旅に出る。カメラとはその繰り返しなんじゃないかと思う。僕はいま50mmに首ったけだ。こんな難しくて愉快な焦点距離はそうないと思う。世紀の発明だよ、まったく:)

ストリートを撮り続けた先にいたのは、Leica M-P typ240だった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50 ZM

マッハのようなスピードで駆け抜けていった一週間だった。金曜の夜、ようやくひと息つける時間が訪れたので、少しブログを書いてみる。今週、僕のもとへやってきたLeica M-P typ240 ブラックペイントのことについてだ。

購入したのは3日ほど前だから、試し撮りはすでに数百枚ほど撮ることができた。試し撮り数百枚なんて、デジタルだからできる芸当なわけだけど。結論から言うと、M-Pは僕がイメージしたストリートスナップに適した一台だったと言っていいと思う。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

ひと言でいえば、Leica M3で撮るイメージで操れ、フィルムで撮るような写真に余韻がある。しかも、ストリートスナップにおいてシンプルさを要求する僕のカメラ像に、このデジタルのレンジファインダーはしっかりと応えてくれた。つまり、外へ持ち出したくなるスナップシューターなのである。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

詳しい機能や性能は他のレビューサイトに任せるとして、このM-Pを僕的な視点で紐解くと、まず全身をブラックペイントで纏っているのがいい。M-PはLeica MにProfessionalのPが加えられたモデルだけど、それは性能面以上に意匠に好影響をもたらしてくれた。赤い丸のLeicaロゴ排除されたいわゆるステルスモデル。ストリートでまず目立たないのである。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

実際に街中でM-Pをかまえても、特に誰も必要にこちらを見たりはしなかった。ストリートでスナップを撮ることにおいて、これ以上の最高性能はない。とにかく目立たないんだ。そして、部屋の中で聞いた時はM3よりも少々大きく感じたシャッター音も、街中ではマットな低音に抑えられ、これも周囲の人を振り返らせることは一度もなかった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

決して大げさな言い方ではなく、フルサイズのカメラを持ちながら、街中で存在を消せるのである。この三日間でそれが確認できただけで十分だった。正直、機械式カメラのように半世紀、一世紀と生き残り続けることはないデジカメにここまでお金をかける価値があるのかと少し葛藤もあったけど、そう言う疑念が吹っ飛んだ三日間でもあった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

最新のM10と比べると太い、大きいと言われるボディも、僕はそうは感じなかった。それよりも漆黒の存在を消せるボディのほうが僕の撮り方においては何倍も手の中にしっくりくる。ありとあらゆるパーツがブラックアウトされたボディは、何もプロだけじゃなく、僕のような街中でカメラをかまえることに勇気を必要とする人間にも実に心強い仕様なんだ。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

写真のほうは、気がついたらモノクロばかりで撮っていた。そう、フィルムでは現像機の減少でなかなか撮れずにいたモノクロを撮りたいじぶんがいたんだと思う。バルナックライカIIIaやライカM3のあのフィルムで撮るストリートスナップの感覚をしてモノクロを撮ってみたい。そういうじぶんが色濃く存在していたんだと思う。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

モノクロ写真のなかでセピア的な温か味を持つのが、M-Pのモノクロ「ウォーム」ポジションで撮ったもの。その他のいわゆる白黒は「ナチュラル」ポジションだ。モノクロはこれに数種類の「カラーフィルター」をのせて撮ることもできる。カラーもビビッドやスムーズというポジションがあるけど、このモノクロの多様さはJPEG撮りに向いたカメラでもあり、そこも僕がM-Pを選択した理由だった。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

夜も撮ってみたけど、まだまだ僕の腕と露出、感度感覚があまい。フィルムのIIIaやM3で夜間撮ったもののほうがどうかしたらちゃんと撮れてるとすら思えるレベルだけど、そこはカメラ任せにせず、僕がM-Pのクセをもっと掴むこと、腕があがっていくことが必要だし、それはとても伸びしろがあることも意味する。そう、僕の場合、カメラや写真は一生試し撮りだから。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

レンズはひとまずM3につけていたZeiss Planarをつけて使い始めた。これでしばらく撮り続けてみて、M3のレンズも含めて、交換レンズをじっくり探していきたいと思ってる。ただ、今のところPlanarが描き出してくれる写真にはまったく不満はないから、むしろM3用に1950年代当時のレンズを新たに探してみようかとも考えている。いっそ、バルナックIIIaでも使えるLマウントのものでもおもしろい。

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

レビューや作例というにはあまりにシンプルな内容で恐縮なんたけど、実際、僕がM-Pを手にしようと思ったのはまさにそんなシンプルな理由からなんだ。一眼レフではストリートに出ずにいたじぶんが、バルナックを手にしてからレンジファインダーとストリートに出る軽快さ、気持ちよさに気づいた。そして、それがM-Pへとつながっていった。これもまた必然なのである。

さすがにカメラとレンズが増えすぎたところは感じていて、カメラはIIIa、M3、そしてM-Pのライカ3台だけにしようかと思うところもある。僕は器用じゃないんで、そんなにたくさんのカメラたちを満足いくレベルで使いまわせる自信はない。僕の部屋でカメラが眠るよりも、もっと若い人たちに使ってもらったほうが手持ちのカメラたちも幸福かもしれないしね。しばらく様子をみて、徐々に断捨離していければいいなと考えている。

Leica M-P、このカメラには間違いなくバルナックからM3へと受け継がれていったライカらしい血が脈々と流れている。最先端の性能だけなら、ほかに素晴らしい性能のカメラはたくさんあると思うけど、僕はこのM-Pにストリートスナップの原点へのライカの思いを見た。大した理由に聞こえないかもしれないけど、それが僕にはM-Pと残りの人生を生きていこうと考えた決め手だ。後はそう、ひたすら撮るだけだ、真の意味で手に馴染むまで。

数回、空シャッターを聴いたら、明日のフィルムを入れて眠りにつく。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5, ILFORD XP2 400

眠る前の数十分間はたいせつでね。みんな思い思いにじぶんがいちばん落ち着ける時間を過ごしていると思う。僕の場合は、空シャッターを聴きながら明日のフィルムを詰めるという作業、これがなんとも心落ち着く。

バルナックライカは見ての通り、カメラの底蓋を開けて、そこからフィルムを装填する。フィルムライカならではの儀式だけど、バルナックの場合はさらにフィルムの先端を10cmほどカットするという所作も加わる。バルナックを持つまでは、M3のフィルム装填に加えてフィルムカットなんて面倒くさがりな僕にはあり得ないなんて思ってたけど、今じゃそれがいちばん心落ち着く作業だったりするんだから、人も人生も分からないもんだ。

今夜は消灯10分前の長崎ランタンフェスティバルに滑り込めて、心もホクホクしている。バルナックでいつものように?沈胴したまま数枚撮るという事象もあったけど笑、初めてランタンフェスティバルをモノクロフィルムで数枚おさえることができて、それはささやかだけど心地いい夜をもたらしてくれている。明日は朝のうちに思案橋の辺りをILFORD XP2で撮りたいなと思ってる。それだけで心踊るから、カメラはやっぱり欠かせない心の安定剤だなと思う。

このバルナックに出会って僕のカメラ観やスナップ観が少しだけ変わりつつある。この感触が僕の中にまたひとつ新しいシーンを生み出すような気もしている。そんなことも妄想しながら眠りにつくとしよう。明日も忙しい。けれど僕にはカメラがある。

もう一歩踏み込もう、バルナックと。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5, Lomography400

カメラが小さいとね、心まで軽くなるというか、ふだんより一歩も二歩も前に踏み出て撮ろうという気持ちが自然とわいてくる。僕にとってはバルナックライカIIIaだ。このカメラを手にしてからというもの、格段に街撮りする頻度が増えたし、スナップする楽しみを再認識させてもらった。

カメラを仕事鞄の中に入れて歩いていると、知らず知らずのうちに辺りを物色してる。そう書くと何やら怪しい感じだけど、光と影の交錯する場所や、遠近の重なりがおもしろい場所なんかを無意識に探してる。そして、それは大抵、ボーッと立ち止まってるだけでは撮れないことが多く、少し小道に入ったり、少し中腰になったり、気がついたら一歩、また一歩といつもより踏み込んでいることが多い。踏み込んだからいい写真が撮れるかどうか判断置いといて、とにかく体が無条件反射で前へと足を踏み出させる。おもしろいカメラとは、そういうじぶんが意図しない行動をとらせるカメラなんじゃないかな。

街中でサッと撮るために、露出もピントも固定してることが多いんだけど、それをいじることなく、そのままもう一歩前へ足を踏み出す。そういう写真がじぶんの中に増えてきている気がしてなかなか興味深い。カメラとは単に撮る道具じゃなくて、何かに気づくための道具なのかもしれないね。そういう意味ではできるだけいつも一緒にいて、一枚でも多くの写真を撮ることがいろんな気づきへの第一歩なのかもしれない。今日もカメラの中に使いかけのフィルムを残して、次の場所へ移動している。どんな写真が撮れるかも楽しみだけど、どんな光景に近寄ろうとするのか、そしてどんな気づきをもらえるのか、そんなことを楽しみにしながら。

撮った直後にモニターを見ない、その気持ちよさ。

Leica IIIa, Elmar 50/3.5, ILFORD XP2 400

最近、ほんと夜の街をスナップするのが楽しいんだけど、そろそろモノクロでも試してみたいと思い、初めてモノクロフィルムを詰めて夜の街へ出てみた。モノクロフィルムといっても僕が使用しているのはカラー現像機で現像が可能なILFORD XP2というフィルム。このいわゆるC-41現像ができるXP2は感度が400だから、少しシャッタースピードを稼げば夜間や室内の撮影もいけるはず。現像出しはまだだから作例はないんだけど、それはまたのお楽しみということで。

それにしてもフィルムの撮影はやっぱり気持ちいい。何がこんなに気持ちいいんだろうと考えてみると、そのテンポが気持ちいいんだろうね。そう、撮った直後にモニターを見ないで、潔く次の撮影動作に移行するあのフィルムカメラならではのリズム。あれが気持ちよさの最たる要因だと思った。モニターがあるとやっぱりいちいちモニターを見ながら撮影してしまう。まあそのためのモニターではあるんだけど、モニターなんか無くても撮影ができるのはフィルムカメラが実証済みで、モニターなんか無くても全然困らず写真は撮れる。というか、写真を撮ることに集中することが目的とするならば、むしろモニターを見る行為は集中を解いてしまう行為なのかもしれない。それはモニターを見ずに写真を撮ったことのある人しか分からないリズムかもしれない。

そういえば、デジタルライカの中にモニターのないモデル、Leica M-Dという孤高のカメラがある。デジタルなのにモニターが無くて、背面にはISO切替ダイヤルがあるだけ。モニターが無いから細かな設定もなく、撮影時は絞り、シャッタースピード、感度しか調節しない究極の撮影ファーストのカメラだ。モニターが無いから写真を削除するボタンもない。単に削ぎ落としたクールな仕様というわけではなくて、写真を撮ることに集中したい人へ向けたとても素直な本質的カメラなのかもしれない。

とはいえ、モニターがあるに越したことはないというのもあり、要はデジタルでも撮った直後にモニターを見なければいいんじゃないかと。何もその場で撮った写真を確認しなくても、家へ帰ればゆっくりパソコン画面で画像の確認はできるし、それが現像を待つようなドキドキ感にもつながる。何のためのモニターか分からなくなってきたけど笑、各種設定メニューを呼び出す設定画面と思えばいいわけだし、ピント合わせに利用するという使い方もあるだろう。要は撮影中はただただ被写体だけを見て、モニターは見ない。これだけで写真を撮るテンポというかリズムはずいぶん新鮮なものになるんじゃないかな。

モニターを見なければ、一枚を撮る時のイマジネーションも間違いなく広がるし、同じような写真を何枚も撮ることもなくなる。そうやって一枚一枚を集中して撮り歩いていくリズムは、テンポよく撮り歩いていきたいスナップにはとても向いていると思う。まなざしはモニターじゃなくてひたすら目の前の光景へ。そこに写真撮影本来の時間の流れ方がある気がしている。

カメラにとって存在感の希薄さは最大のメリットになる。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

カメラとは不思議な道具で、所有者にしてみれば思い入れはとても強く、そのデザインやヒストリーに並々ならぬ想いを馳せる。でも、撮られるヒトやシーンにとってみれば、むしろその存在は希薄であればあるほどいい。家族を撮るにしても、街中でスナップを撮るにしても、ポートレートを撮る時もそうなのかな。カメラなんて相手に気づかれないほど存在を無かったことにするくらいのほうがいい。そこには所有者と撮られるシーンの間に驚くほどのギャップが存在する。そこがまたおもしろかったりするんだけどね。

僕がスナップで使うカメラはレンジファインダー。撮られるヒトからすれば、いわゆる報道カメラのようなゴツい一眼レフじゃなくて、どうかしたらコンデジみたいなものだから、一瞬目を向けられてもいい感じで無視してもらえる存在感の希薄さがある。撮ってる僕にしてみれば、ファインダーの中にちらりと見えるまぶしい光景にハッとしたり、その操作性の精密さに心の中で唸ってたりするんだけど、そんなことは相手にしてみれば知ったこっちゃない。その知らない、興味もない関係性が街の素顔を切り取るにはとても都合がいいんだ。

カメラも僕もまるでこの世に存在していないように、街の雑踏の中に紛れ込み、溶け込んで、もっと言えば透明人間であるくらいの消え方がいい。決してこっそり撮るわけじゃなくて、こちらも撮るヒトたちの存在が希薄になるように街の空気をつかむことに神経をそそぐ。存在感の希薄さはお互い様のような関係性。そういうところがスナップのおもしろさなんだろうなと最近感じるようになった。

明日からしばらくまた出張に出る。もちろんカメラも一緒だ。これまでならGRとKonica C35の出番だけど、今夜はLeica IIIaにILFORD XP2 400をフィルムカットして詰めている。バルナックでモノクロ、初めての体験だ。いつもC35とカラーネガで撮り慣れた街が、どんな風に姿を変えるのか。そして、バルナックに少し慣れてきた僕はフィルムコンパクトのように存在を消せるのか。そんなことを考えながらそろそろ眠りにつこうとしている。カメラのこと、写真のことを考えるのは、実に人間くさいプロセスだ。だから終わりがないし、答えもない。ただ撮ることでしか気づけない。だから、おもしろい、無限にね。

レンジファインダーが僕の写真観を変えてくれたことは間違いない。

Leica M3, Planar T*2/50, Lomography400

この場合、レンジファインダーとはLeica M3とLeica IIIaのことであり、写真観とはスナップシューティング観ということである。変化の大きなきっかけになったのは、バルナックライカIIIaと沈胴式Elmar50/3.5を手に入れたことだと思う。そのあまりにも薄くコンパクトなボディに軽く衝撃を受け、平日の仕事鞄の中の相棒がKonica C35からIIIaへと変わった。

IIIaを日々持ち出して街の雑踏の中のスナップを撮り始めると、そのミラーショックのないレンジファインダーなら息を止めさえすれば夕刻や夜間のネオンライトでもシャッターが切れることを知る。そして、50mmという難しい焦点距離が僕の足を前後にもう数歩だけ前後させる。そして、その感覚をもう一台のレンジファインダーでも確かめたくて、Leica M3も平日の街スナップに連れ出すようになった。つまり、一週間の7日間のうち実に5日間もレンジファインダーと過ごすようになったんだ。これだけ時間の過ごし方が変われば、スナップのある日常の写真観も変わって当然だった。

思えばカメラを始めた当初はデジイチで週末に自然を撮ることが楽しみだった。そこにRICOH GRが加わり、スナップというものを撮ることの楽しみを覚えた。フィルムカメラを始めた時も一眼レフだったから、週末は一眼レフで撮ることが多く、所有カメラの割合も一眼レフが多かった。レンジファインダーはその合間に撮るような割合でしか無かった。それが、ほぼレンジファインダーとの時間へと変わったのである。じぶんの中に少し、いや割と鮮明に、これからの残りの人生におけるカメラとスナップとの向き合い方が見えてきた気がした。

ライカというカメラはとかく高価さやブランド感、使い倒すカメラというより骨董品のように飾り眺めるカメラと見られがちかもしれないけど、僕の中ではライカこそ日々外へ持ち出して何気ない街の光景を撮り倒すカメラだと知った。僕にはそう思えた、それもかなり強烈に。このじぶんが受けた本能的で官能的な感覚を頼りに、もう少しこの道を掘っていきたい、いや人生の残り時間はそこを可能なかぎり掘り探る時間に当てたい、そう思えるようになった。たかがスナップだけど、人生はそのスナップの縮図であり、されどスナップだ。ライカとスナップ、羅針盤がそこにはあった。