35mmと38mmと50mmとズーム。

みんなレンズ欲旺盛だなと思うんだけど、僕はむしろレンズはカメラにほぼ固定している。平日のスナップの友Konica C35はそもそも38mmヘキサノン固定だからレンズの換えようもない。でもこれが潔い。C35で撮ること=38mmで撮ることだから、C35の画角の感覚がいやでも自然と身についてくる。その他のカメラも基本、Nikon F2は35mm付けっぱなしだし、Leica M3も50mm付けっぱなしだ。そうすると、カメラを持ち出す時は自動的に画角も決まり、じぶんの中でとても分かりやすい。

たしか田中長徳さんが本で書いていたと思うんだけど、カメラ(ライカ)にはひとつのレンズしか装着せずに、それで撮るしかない状況にしたほうが撮影感覚も上達するし、何より交換用レンズ収集のコストも抑えられる。カメラやレンズの組み合わせを縦横無尽に楽しむという手もあるけど、僕には長徳さんがいうところの「ひとつのカメラに、ひとつのレンズを固定する」という発想のほうがしっくりきた。

その他のカメラと固定レンズということでいえば、RICOH GRは35mm換算で28mmのGRレンズが固定、あとはNikon D300には35mm換算で27mm-300mmのズームレンズが一本、これにたまにマニュアルでNikon FE用の固定レンズ50mm(35mm換算で75mm)を装着したりしている。でもこれくらいだ。僕の中では少数精鋭というか必要最小限のミニマルなラインナップ。じぶんの性格的にもこれ以上レンズを増やしても使いこなせるレベルまでいかずに散漫になるだろうなと、なんとなくじぶんのことが分かっている。あと買い足すとしても24mm広角くらいかなと。

そんなだから、まめにレンズ交換を楽しんでる人を見ると凄いなと思う。たぶん、僕の過去のレンズ収集のトラウマと面倒くさがりな性格も作用してると思うけど、カメラとレンズは一体で使うのが分かりやすくて使いやすい、というのが僕の今の気分。そして、それは意外といいところに収まったなという気もしている。僕らしいという意味で。

みんな最初はよちよち歩きだ。

きょうは息子が数日間のキャンプから帰ってくる。ずっとガキンチョだと思ってた彼がこうして仲間たちと島でキャンプ生活ができるようになったかと思うと、ちょっと感慨深い。さて、息子には手がかからなくなってきたんだけど、そこに怪獣がやってきた笑。生まれて間もない子犬の愛犬だ。

こうして子犬の世話をするのは15年ぶりだし、息子が赤ん坊だった頃の世話も10年以上前だから、久しぶりに怪獣と言わんばかりのやんちゃぶりな子犬とまいにち格闘である笑。散歩に行けば辺りのあらゆるものに驚いてあちこちで吠えるし、後ろが気になったらなかなか前には進まないし、僕がいなくなれば鳴くし、トイレもまだまだ完璧にはいたらない。とにかく手のかかる王様みたいな存在だ。でも、振り返ると、以前飼っていた愛犬も、あの手のかかった息子だって数年経てばいつの間にかしっかりしてきて、いろんなことを普通にこなせるようになる。何だって最初はもう凹みそうなくらいよちよち歩きなわけだけど、最初だけなんだよねほんとに。

そう、最初だけ。仕事も、カメラも、ロードバイクも、スイムも、始めたての頃はあまりのじぶんの駄目さ加減にもう諦めようかと思うくらい凹むんだけど、まあなんというかめげずに、へこたれずに続けていると、やがてひょいっといろんなことができるようになる。そうして、後から振り返ってみると、その駄目っぷりな日々が懐かしいし、けっこう思い出になったりする。そういう意味では常にひとつやふたつ駄目駄目なことを持っていたほうが、人生としてはいいサイクルかもしれないね。さて、次はどんなよちよち歩きを始めようか。

フィルムのプリントはネガからした方が美しい。僕はデータからしちゃってるけど。

家族の写真をプリントするのに、いつものカメラのキタムラへ。たまたま空き時間にふと思い立ってキタムラに寄ったので当然ネガは持ち歩いておらず、iPhoneの写真ロールに保存されたデータから写真を選んでプリントする。デジタルデータからのプリントはほんとあっという間に仕上がって、10分もすればプリント写真を受け取れるから、なんとも驚異的だ。ただし、気がかりなことがあるとすれば、その写真データとはフィルムで撮ったものということ。支払いの時にちょっと年配の男性店員さんに話しかけてみた。

「フィルムのプリントは、やっぱりネガからしたほうが本当はいいんですよね?」…店員さん「そうですね、データだと300万画素くらいに圧縮されていますが、ネガならカメラにもよりますが大体500万画素〜800万画素くらいあるのでデータからよりきめ細かくプリントできますね」、とのこと。なんとなく分かっていたものの、こうして数値で聞くとなるほどなあと思う。ネガからプリントする時はプリントしたいカットをネガに印をつけるんですか?と聞いてみたら、それでもいいし、インデックスに印をつけてネガを渡せばいいと言ってた。なるほど、そのほうが手軽そうだ。

とはいえ、几帳面ではない僕はネガの管理もきちんとできていない。かっこよく言えばソール・ライターのように無造作に部屋の隅にキタムラの袋に入ったまま積み重ねられている。この山の中からネガを探し出してプリントに出すというのはなかなか至難の技だ。みんなどうしてるんだろうなと、ふと思った。すべての写真をプリントするスタイルなら、現像してデータ化する時に同時にプリントすればいいから分かりやすいが、後日こうして必要なカットだけプリントを注文するとなると、なかなか僕のような面倒くさがりの人間には荷が思い。でも、一度試してみようかなと。データからプリントしたものと同じカットで、ネガからプリントしてみる。そうして見比べてみて、フィルムの味というものを再確認してみたいという気持ちがある。ネガフィルムからプリントしている正統派の人からすると何バカなことを言ってるんだと言われそうだけど、デジタルからフィルムへ移行した人って意外と僕のような作法になっちゃってる人いるんじゃないかな。ともあれ、またひとつ学びの機会ということで。

時間は増えないから、入れ換える。

今夜は夜スイムで締めてきた。そして、ひとまず今月末でスイム会員を退会してきた。スイムはあいかわらず心地いいし、スイムにしかない爽快感があるんだけど、なかなか恒常的に通う時間が作れないから、ひとまず退会。というのも、先月に子犬を飼い始めて、平日夜は彼との散歩やしつけでそれなりに時間がかかる。週末も息子や愛犬との時間を考えるとなかなか定期的にスイムの時間を確保するのがむずかしい。つまり、時間を入れ換えないと24時間に収まらない。よく言う「何かを始めるには、何かを捨てないといけない」というやつかな。

最近はほんとにそう思うところがあって、新しいモノ、コトを始めようとする時は、同時に今の何と入れ換えようかとよく考える。ロードバイクを始めた時はデジカメとの時間と入れ替えたし、スイムを始めた時はRunの時間と入れ換えた。新しいカメラでいえば、デジイチのNikon D300を迎え入れたことで、購入を検討していたフィルムカメラNikon F3は見送った。僕のものさし的にはお金の問題や物欲を満たすということより、「誰にとっても24時間しか無くて、時間を増やさないなら、時間を入れ換えるしかない」ということが、新しいことを始める基準になる。ひとつひとつのことにある程度の時間を割きたいから、意外とこれは僕にとっては大切なものさしなんだ。

仕事が週休3日にでもなれば多少状況は変わるかもしれないけど笑、いまのところ僕の限られた時間の中で新しいモノ・コトと出会い、ある程度の戯れる時間を割こうと思うと、「時間を入れ換える」というのはまず始めに検討しなければいけないテーマなんだよね。そうやって考えるといつもたどり着くのが、何がいちばん欲しいかと言われたら、それは時間かなと。モノを増やしても時間は増えない。そのバランスをとることこそが生きるということなのかもしれないね。

毎日更新される田中長徳さんのブログ「チョートクカメラ塾」は、密かなバイブル。

僕が田中長徳さんのことを初めて知ったのは、三年ほど前にデジタル一眼レフを手に入れた際に参考書的に買ったKindle本「カメラは知的な遊びなのだ」と「カメラは詩的な遊びなのだ」という長徳さん著書の二冊の本に巡り合ってから。僕がよく使う”散歩カメラ”という言葉はこれらの本の中で長徳さんが推奨していたもの。この本の中では銀塩カメラのよさも触れられていたけど、当時の僕はまったくフィルム撮影に興味がなかったから、田中長徳さんがいかに著名な人であるかも知らなかったし、この本を読んでる時は著者のことはあまり気にもしていなかった。

それから2年半ほど経過し、ひょんなことから僕はフィルムカメラを始めることになる。最初にNikon FEを購入した後、Leica M3を手に入れる。この時もとにかくフィルムのこと、Leicaのことに無知だったから、とにかく参考になりそうな本を探した。そして、再会したんだ、田中長徳さんの本に。「ライカ・ワークショップ」「ライカはエライ」「カメラはライカ」、どれを読んでもとにかく痛快で気持ちよかった。そして、その著者である田中長徳さんの存在を今度は強烈に覚えたのである。とにかく長徳さん節は気持ちいいくらいご自身のものさしでズバズバとカメラや写真界を斬ってゆく。そこに遠慮はない。遠慮して文章がファジーになることを嫌っている感じがビンビン伝わってくる感じ。あ、これは本音のバイブルになるなと僕は感じた。

その田中長徳さんが実はブログを毎日更新されている。「チョートクカメラ塾」。短文だけど、毎日テーマを変えて読み切り型のカメラ塾を開催してくれている感じだ。これがまた素直と言うか本音ベースで、僕のようなビギナーには実にありがたい情報の数々。このブログを見て思うのは、田中長徳さんはもう無償の愛で世の中にカメラのこと、写真のこと、じぶんが知っていることを伝えようとしているんだろうなということ。きょうは135mmのレンズのことについて書かれていたけど、ストレートにその意図が伝わってきたし、実際135mmレンズが気になる存在になった。ブログをさかのぼってみると、とにかく参考になる記事ばかり。まさしくカメラや写真を極めたひとの叡智を垣間見ることができるとても豊かなブログだと思う。

カメラとか写真というのは解釈の幅がそれこそ無限のようにあって、言う人言う人のすべてを追いかけていたらとてもじゃないけど吸収しきれない。すべての人のすべてのスタイルを追いかけるよりは、尊敬する一人の人のカメラや流儀みたいなものを真似たほうがいいんじゃないかと思うようになり、僕にとっては今、田中長徳さんがその真似たい一人のお手本なのである。そういうと恐れ多いけど、まあもっとフランクにいえば、勝手にじぶんのカメラの先生として位置づけているのである。長徳さん以外にもそんな風に意識している人が二、三人いるけど、なかでも長徳さんがその筆頭。僕がいい歳になり、年齢的に共感できる部分が増えたせいかもしれないけど、とにかく素直に僕の心に長徳さんの言葉がしっくりと入ってくる。カメラを始めたものの、何を頼りにしていいのか迷ってる人とかは、この長徳さんの発言を追いかけていくとおもしろいんじゃないかな。なんというか、まっすぐな気持ちになれる、そんな本やブログです。ぜひお試しを。

 

とにかくひたすらシャッター音が聴きたい。そんな時にデジタルは僕を満たしてくれることを再確認した。

きょうで大人の夏休みも最終日。愛犬のしつけと世話でなにかと忙しい6日間だったけど、やっぱり最終日はカメラと過ごしたいと思い、午前中はLeica M3と、雨宿り後、午後はNikon D300と散歩カメラしまくった。

Leica M3の静かで厳かな撮影体験を楽しむと、その真逆の少々威勢のいいシャッター音が聴きたくなる。しかも、夏休み最終日ともなると、シャッターを切りまくりたい。そうなると、デジタル一眼レフは実に正義だ。デジタルだと撮りすぎるという傾向はたしかにあるけど、僕の場合のデジタル散歩カメラは、そもそも何かを撮りたいというより、ひたすらシャッター音を聴きたいというところに意味があると、きょう思った。

何枚撮ったかも分からないほど、シャッターを切った後の心地よさは、ちょっとしたスポーツのような爽快感がある。そのあたりの感覚は一枚一枚をゆっくりと撮る機械式のフィルムカメラとは趣が異なる。ここのところフィルムカメラにハマって、どこかフィルムに偏りすぎていたじぶんがいたのかもしれないけど、あらためてデジタル一眼レフもやっぱりいいもんだなと。特に僕なんかは写真も好きだけど、それ以上にシャッターを切るという行為が好きだ。そういう人間には、デジタルはぞんぶんに満足感を与えてくれる。

フィルムカメラのサブ機じゃなくて、フィルムとは異なる立ち位置で楽しみを見つけつつあるデジタル。再びデジタル一眼レフに戻ってきてよかったなと、いまあらためて感じている。フィルムにはフィルムの味わい、デジタルにはデジタルならではの爽快感。どちらもそれぞれ異なるよさがある。そして、それを素直にこうしてブログに書けるような意識になったことがうれしいな。カメラの世界がさらに大きく広がった感じ。思い立ったら、直感を信じてやってみる。そういう自然な好奇心の大事さみたいなものを再発見する夏になった。

カメラもロードバイクも好きだけど、このブログも趣味のひとつかもしれない。

思えばこのブログ「記憶カメラ」を立ち上げてから2年になる。記事の数でいうと1,340話ほど。そういう意味ではカメラやロードバイクに負けないくらい、実は趣味のひとつになっていると言えるかもしれない。2年の間にジワジワとだけど訪れてくれるひとも増えてきて、単純に”継続って大事”なんだなと思ったりもして、それだけでもブログをやってみた価値があるなと感じている。

僕のブログはカメラというタイトルは付いているものの、カメラの専門性に特化したブログではない。まわりを見渡すとカメラの機能や歴史、作例まで濃密に記載されている素晴らしいブログがたくさんあって、僕のカメラ知識ではとてもじゃないけどそんな高尚な記事は書けない。だから、内容はずいぶんと気分寄りなものになる。カメラでもロードバイクでも、そのプロダクトと過ごしたり暮らしたりしている時の気分。それなら僕にも少しは書けるし、カメラやロードバイクのビギナーのひとの参考くらいにはなるんじゃないかと思い、懲りずにこうして日々更新している。いや、それは結果論というか、強いて言うなら、という後付けの理屈かな。単純に僕が書きたいことを、僕が心地いいように書いているというのが正直なところかもしれない。それが誰かのためになるなら、それは副産物としてはとても嬉しいこと、そんな感じかな。

それでも、毎日こうしてある程度の文章を書き続けるというのは、思考の筋トレみたいなものにもなっていて悪くない。そして、毎日何気なく撮っている写真の保管庫としての役割にもなっている。TwitterやInstagramもやってるけど、どこに立ち位置があるかというと僕の場合は間違いなくこのブログで、ここがいちばん居心地がいいし、いちばん素直に発言できる。そういう隠れ家というか、じぶんの部屋のようなものを持っていると心落ち着くところもあるんだよね。そういう意味では、見られたいけど見られなくない、そんな絶妙な僕の居場所なのかもしれない。

いつの頃からかTwitter連携よりも検索から訪れてくれるひとが増えてきて、だったら検索のひとにも分かりやすいタイトルのほうがいいかなと、あまり詩的なタイトルで書くのはやめてみたり、マイナーなことほど検索してるひとには助かるのかなと意識して書くようになったり、じぶん色から少し読み手のひとの色も考えるようになった。これだけ記事も増えてくると、1日に一回だけしか読まれていない記事もたくさんあるんだけど、それでも一人には読まれてると思うと、なんかジンとくるというか、少しでも読んでくれたひとに気づきとか新鮮な気持ちを届けることができればなと考えたりするようになる。僕が何かを提供しているようで、実は読んでくれたひとから提供してもらっていることのほうが多いんだろうね。ブログのそういうところが好きかな、いちばん。

そういえば、さっき田中長徳さんのブログを見に行ったのだけど、丹念に毎日更新されていて素晴らしいなと思った。毎回異なる切り口で適度な量で言いたいことをズバッと語られている。生きている経験の量、勉強している量が圧倒的に僕とは違うなと少し凹んだりもしたけど、日々更新し続けているということだけは親近感を感じさせてもらい、どこかじぶんの励みにもしている。ひとつひとつの記事は些細なことかもしれないけど、継続してある程度の数の集まりになれば、世の中のどこかの誰かのためになる記事がひとつくらいはできるかもしれない。そんなことを考えながら今日も記憶をブログに積み重ねている。趣味というよりは呼吸というか、もっとからだの一部のような存在かな。写真を撮ってブログを書く。可能なかぎり続けていきたいな。

フィルムの鮮明じゃない感じが、おぼろげな記憶と近いんだ。

この写真は7月の終わりに息子のキャンプファイヤー前の薄暮をFUJI FILM Natura1600で撮ったもの。カメラは絞り優先オートで撮れるNikon FEに50mm/f1.8のレンズで、たぶんのこの写真は暗くなる前だから感度800の絞り開放で撮ったんじゃないかな。この後、夜のキャンプファイヤーも鮮明ではなかったけど炎の薄明かりでちゃんと撮れてたから、やっぱり高感度フィルムのNatura1600はやるなあと思った。

で、その”鮮明ではない”という話なんだけど、Natura1600で撮ったものは特に粒状感があるし、写真として綺麗かと言われれば綺麗ではない。でも、記憶としてはとても綺麗なんだ。鮮明であることは、ある種、記憶とは正反対なのかもしれない。フィルムで撮った写真が好きなのは、よくその風合いという言葉が持ち出されるけど、もう少し正確に言えば「その鮮明でない様子が、おぼろげな記憶とむしろ近い」ということにひとは惹かれるんじゃないかなと。いま目の前の光景を画像としてシェアするなら鮮明な写真(画像)でいいんだけど、少し過去をさかのぼるとなると、それは時間をたどり記憶を呼び起こす行為で、それは鮮明すぎるとちょっと脳とギャップを起こす。そんな気がした。

理詰めで書くとそういうことなんだけど、ふだん僕らはそんな複雑なことを考えて写真を見ていないから、そこは感覚的にフィルム写真のよさを解釈してるんだと思う。そう考えると、フィルム写真のよさというのはあまりデジタルの進化やスマホテクノロジーの未来に取って代わられるような存在ではなくて、別物だなと。今を撮って今をシェアするならデジタル、記憶として残すならフィルム、そんな使われ方が自然なんじゃないかと思ったんだけど、どうだろう。

記憶としては鮮明じゃないほうがいい、とすれば、デジイチで撮った息子の写真なんかも、なんというかフィルム変換したくなるというか、そうそう、誰かがやがて、デジタルをフィルム変換してくれる装置を作ってくれるんじゃないかと少し期待してる。フィルムにするのは後退することじゃなくて、記憶化することだからね。

10年前の製品とは思えないD300の上質さは、当時のNikonの凄みを感じる。

きょうは雨だったこともあり、日中は部屋の中で先週手に入れたデジイチNikon D300を眺めたり触ったりしていた。近ごろの僕にとってのメインカメラはフィルムカメラで、デジカメはサブ。このD300もフィルムカメラ用のMFレンズをマニュアル撮影で楽しんだり、たまに息子のスポーツシーンを望遠で撮れればいいなくらいの気持ちで、手頃な価格でお店のショーケースに並べられていたD300を選んだ。発売から10年、いくら当時のDXフォーマット(APS-C)のフラッグシップ機とはいえ、さすがに10年の年月は古さは否めないだろうと思っていたんだけど、それはいい意味で大きく裏切られた。とても、いいのである。というか、その上質感や威厳のような佇まいでいえば、以前僕が使用していた現行フルサイズ機のNikon D750よりもいいかもしれない。触れば触るほど日に日にそう思い始めた。もちろん、スペックだけを見れば、D750の圧勝だろう。特に感度でいえばD300は実用でISO1600くらいが限度だろう。軽さでいってもD750のほうがフルサイズでありながらずいぶんと軽い。でも、それくらいの違いしか感じないのである。実際、D300を手にしてみて本当に驚いている。これが当時のNikonの凄みなのかと。

昨日たまたま家電量販店に寄ることがあったんで、あらためてD750にふれ、操作性やシャッター音なんかをしぶんなりにD300と比較してみたんだけど、やっぱりシャッター音もD300のほうがソソるものがある。連写の動作やその感触もD300はなんというか大人の余裕があるというか、実に仕事人的な趣のあるいい動きをするのである。考えてみると、昨年D500が登場するまではD300やD300sが実質的なDXフォーマットのフラッグシップ機だったともいえるわけで、そこにはNikonの意地というかプライドが込められていたのかなと。最新のD500はもはや化け物のようなハイテクの塊のような高次元スペックだけど、写真を撮るという基本性能に関していえば10年前のD300でNikonはすでに成熟の域に達していたのかもしれない。それくらい、D300はその存在感が完成の域にある気がする。僕が今回、再びデジタル一眼レフを手にした理由は、もっとライトで肩の力を抜いたものだったんだけど、このD300がなんというかカメラの本物感みたいなものを僕に感じさせてくれた。

なんかこういういい意味で期待を裏切られる感じっていいよね。しかも、それが年代物であればあるほど、感動は大きくなる。半世紀前の機械式シャッター機てあるNikon F2やLeica M3のそのオーバークオリティな質感もそうだし、当時の作り手の人たちの思いとか迫力みたいなものを時空を超えて体感できているようで、なんともいえない高揚感がそこにはある。現代のプロダクトはとかくハイテク競争に重きを置きがちだけど、こうした道具としての基本性能を磨きあげた職人芸的製品のよさこそ、プロダクトのよさをフィジカルに堪能する最高性能かもしれない。ひょんなことから巡り会ったD300だけど、単なるサブカメラにしておくのはもったいない。Nikon社の修理対象期間は終了しているようなのでそこだけは残念ではあるけど、フィルムカメラたちと同様に、それこそ壊れ果てるまでじっくり使い込んでみたいなと考え始めている。

まだまだ現役のフィルムカメラのように、僕もメンテしながらいい歳を重ねたい。

人出の少ない早朝に墓参りをゆっくり済ませ、帰り道にF2で数枚スナップも撮れたし、なかなかいい誕生日だ。今日はお盆の真っ只中の8/14だけど、僕は約半世紀前の今日、この世に生んでもらった。お墓の前から久しぶりにお袋に電話をして少し会話したけど、いくつになっても母親の気遣いは偉大だなと思うし、本当にこの世に生んでくれてありがとうといつも思う。ご先祖様にもまさにこの世に生んでもらったことを感謝した。

心は若いつもりなんだけど、体のほうはさすがに約半世紀も酷使して、適度にメンテナンスしてあげないとあちこちが故障したりする。Runをしたり、スイムをしたり、ロードバイクに乗ったりとなかなか忙しいけど、僕にとってはそれらは単なる趣味じゃなくて体のメンテナンスでもあるから、家族のためにもそこはトレーニングを続けなきゃいけない。まあ、楽しいんだけどね笑。

僕は最近、新製品というものにあまり興味が無くなった。今日走らせたセダンももう10年乗ってるし、そういえば先日手に入れたデジイチも同じく2007年製のNikon D300で同じ10年選手だなあと。たぶん、この頃にすでに機械としてはどちらも完成していて、この10年は細部の仕上げだったんじゃないかな。車もカメラも10年選手とは思えない実に豊かな使い心地に関心しているというか、惚れている。僕の所有するフィルムカメラに至っては、Leica M3が1955年製、Konica C35が1968年製、Nikon F2が1971年製、Nikon FEが1978年製だから、それはそれはどれも現役の素晴らしい働きをしていて、古いプロダクトを長きにわたって使い込むよさを今、僕は堪能している。そして、じぶんも半世紀近い年月を生きてきて、なんというかやっとそういう同じ年代を生きたモノの本当のよさみたいなものを感じとれるようになったのかなと考えている。

若い頃はそれこそ仕事が趣味で、それはそれでエキサイティングだったけど、体もノーメンテナンスであの頃のようにいくかといえば、それはやっぱりむずかしいわけで、カメラたちと同様、適度に使って、適度にいたわって、適度にチューニングやメンテナンスをほどこしてあげる。なんだか、僕が愛するプロダクトたちはどれも人間ぽいなあと感じた誕生日の朝だ。と、ノスタルジックな気分にひたってばかりはいられない。心はふりかえっても、時間はひたすら前進あるのみだからね。進もう、人間らしく、僕らしく。