僕もAF一眼レフを持って九州各地を撮りたくなってきたな。


Nikon F6, 50/1.4D

ここのところレンジファインダーで撮ることが多い日常なんだけど、とあるエピソードにふれて、なんだかムクムクと一眼レフで撮りたい熱が高まってきた。世の中の機運が少しミラーレス機に傾きかけていることへのアンチテーゼなのかもしれないけど。天邪鬼だから、僕は笑。

という下世話な話は置いといて、一眼レフで「ザ・シューティング」みたいな時間を楽しみたいなと。ブラックアウトされた密度の高いファインダーの中で被写体を捕らえる感覚。フィルムでもいいし、デジタルでもいい。両方を持っていけば濃密かな。僕的にいえば、Nikon F6とNikon D300か。うん、なかなかいい組み合わせだ。

Nikon D300, 18-200VRii

レンジファインダーで街中の雑踏に紛れて瞬時に光景を切り取るスナップも楽しいけど、じっくりファインダーの中の世界と対話しながら撮るアノ感覚もやっぱり素晴らしい。山の稜線や海の水平線、できれば風の音を撮りたいと思うような景色を探して。僕の住む九州はそういうザ・シューティングしたい光景がたくさんあるからね。

街の雑踏ではなく、豊かな自然の中に体をあずけて大地に埋もれて写真を撮る。想像しただけでちょっとゾクゾクしてきた。子どもも手がかからないくらい大きくなってきたし、週末の大人の過ごし方としてはなかなか贅沢でいいかもしれない。僕はクルマに乗るのも本来好きだしね。ザ・シューティングとザ・ドライビングで一石二鳥だ。さて、どこへ行こうか。一眼レフたちと。


よく写るけど、写りすぎないやさしさがいい。


Leica M3, Planar T*2/50ZM

やさしいんだよね、フィルムとフィルムカメラはね。デジタル機につけると分かるけど、このコシナのCarl Zeiss Planar T*2/50ZMなんて、とんでもなくクリアでシャープな写りをする。ちょっとリアルすぎるところもあるんだけど、こうしてフィルムを通すと実にいい塩梅の描写になるんだ。

僕が使うレンズでいえば、Elmarなんかもそうかな。デジタルライカに装着して撮るとドキッとするような綿密な描写をするけど、フィルムカメラで撮るとそこに光のやわらかさが注がれ、同じレンズとは思えないやさしい表情をみせる。フィルムカメラにつけることを想定して作られたチューニングなのか、それともそれがその時代の最上の技術だったのか、そのへんのことは現代のしがないアマチュア写真愛好家の僕には分からないけど、フィルムカメラのレンズとして生まれた世界が、こうしてデジタル時代に僕らにやさしさをもたらしてくれることはとても夢のある素晴らしい出来事だと思う。

あと試したいのは初代ズミクロン だけど、こちらはまだデジタルライカにしか装着して撮っていない。本命はLeica M3用に手に入れたものだけど、この猛暑の中でなかなか連れ出したくない気持ちもあり、もう少し気候が良くなるのを待っている。とてもよく写ると言われるオールドレンズ の代表格といっていいSummicron 50/2 1stのフィルム越しの写り。さて、どう僕の心をなでるようなやさしさを垣間見せてくれるのか。いま、いちばんたのしみなことなんだよね。


たまにゴツいカメラが使いたくなる。そんな時にはNikon F6がある。


Nikon F6, 50/1.4D

僕は軽量コンパクトなカメラが好きだ。散歩カメラや街撮りスナップというカメラの使い方を考えるとそうなるわけだけど、それでも男子たるもの、たまに理屈抜きでゴツいカメラで撮りたいと思う瞬間がある。理屈抜きに、無駄なようなことに打ち込みたくなるようなアノ衝動。そんな時に、僕にはF6がある。

フィルムカメラだから現代のミラーレスのように薄いのだけど、F6はいかにもみっちり機械が詰め込まれてますと言わんばかりに、どっしりとした手ごたえがある。それでもF5までのフラッグシップ機に比べればごくごく普通のカメラ並みの大きさ。実際、手の中に収まった時のなんとも言えない吸い付く感じは、グリップの深さと相まって、適度でちょうどいい重さだと思わせる不思議さがある。

ひとたびF6を持ち出せば、気分は本格的なシューティングタイム。こんな僕でも撮影が上手くなったような錯覚に陥り、次々と軽快にシャッターを切っていく。連写なんてしようものなら、あっという間にフィルム一本を撮り終える。そして高速で自動巻き戻しされ、次のフィルムが装填される。この一連の動作がまたプロ気分でたまらない。僕なんかはたまにこうしてゴツい操作感を楽しんでるわけだけど、F6一筋で四六時中これしか使わないという人はいたりするのかな。それはそれで相当かっこいい気がするけど、どうだろう。


そして、ライカを取り巻く気分転換のサブカメラたち。


Rolleiflex Standard, Tessar 75/3.5

(気分的には前回の記事の続き)そして思うのは、ライカが中心にあった時に、まわりいるサブカメラたち。まあサブというとちょっとニュアンスは違うんだけど、ライカを持ち出せないシチュエーションや、ライカでは撮れない味、ライカから気分転換を図る時に使うカメラたちっていうイメージかな。

例えばそれは、この写真にあるブローニー、二眼レフのRolleiflex Standardであり、例えば50mmライカでは撮れない広角専用機としてのVoigtlander Bessa-L。あと、出張先なんかにはフィルムコンパクトのKonica C35、夜間も撮るようならじぶんで露出を決められるRollei35であり、デジタルならRICOH GR、とかね。そうやって考えると、じぶんの中にも複数台あるカメラの楽しみ方のイメージが無理なローテーションじゃなく思い浮かぶ。まあ、撮ってる時はどれもメインカメラではあるんだけどね。すべてのカメラが揃った時の役割の違いみたいなものとしてね。

そこで悩むのが一眼レフたちなんだ。僕の所有しているカメラでいえばフィルム/デジタルの複数台のFマウント機たちと、Pentax SPかな。プロダクトとしても好きだし、そのダイナミックな撮れ味も独特、何よりNikon機は僕がカメラを始めた頃からの付き合いだから思い入れも強いんだけど、こうしてレンジファインダー中心のカメラライフになってくると、所有数も多い一眼レフ機たちはなかなか満足ゆく頻度でも使いきれない。それでもたまに味わう気分転換カメラとして、また望遠とか実用性重視の備えとしての機材として持ち続けるのがいいのか、そんなことをふと考えたりしている。じぶんに合ったカメラと出会うためにいろいろと買い試してきたカメラやレンズだけど、そろそろ人生を共にするカメラを絞り込んでいこうと思い始めていることもあって、いまライカをあらためて試している感じかな。まだまだ途中経過なんだけど、今の思考プロセスの記憶として。


近ごろはストリートじゃなくても、好んでライカを使っているじぶんがいる。


Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

僕の中でライカといる時間が加速したのはバルナックIIIaとデジタルライカM-Pを迎え入れたあたりからだけど、それは同時にストリートスナップを撮ることを好む気持ちが加速したことを意味する。実際、ライカほどストリートスナップに向いたカメラはないんじゃないかと再認識し、以前から所有していたM3も平日の街中へ持ち出すようになった。ライカとは、ある意味じっくり構えて撮るカメラというより、速写のスリルというかアジリティを楽しむカメラだと。

けれど、ここ最近は家の近所ののんびりとした散歩にもライカを持ち出すことが多くなった。ゆっくり撮るというかであればNikon Dfがあるわけだけど、それでもデジタルならM-PやX2、フィルムならM3がIIIaを自然と好んで持ち出す。以前のブログに「オールマイティということでいえば、カメラはM型デジタルだけでもいいんじゃないか」というような記事を書いたけど、デジタルという限定はしていないけど、何だったらライカだけでいけんじゃないか俺?、というのを試してるようなところがあるんだよな。

それくらい今はライカと過ごす時間が心地いい。それはプロダクトとしての見た目のデザインの良さでもあり、撮る時のレンジファインダーのフィーリングの気持ち良さであり、ライカのレンズが描く描写への思い入れだったりいろいろだ。とにかくいろんな要素が混ざり合って、ライカと過ごす心地いい時間を再認識しつつあるんだ。それには以前ブログにコメントをくれた建築家の方の「過去にはいろいろなカメラを使ってきたけど、今は仕事を含む日常すべての写真をライカだけで撮っている」と語ってくれた声の検証みたいなものでもあるんだ。

ライカはたしかにスナップシューティングに適したカメラだけど、だからといってDfのようにまったり撮ることに不向きかといえば全然そんなことはなく、むしろ小さなシャッター音が辺りの静寂を邪魔することなく、サイレントシューティングのような楽しみ方も存分に味わえる。そもそも手ぶれ補正もない、オートフォーカスもないわけだから、ゆっくりかまえて撮るほうが物理的にも快適だったりするからね。

思えば初めてのライカ、M3を手に入れてからしばらくは、M3は週末専用機で、街中でヒュンヒュン撮るよりは家の周辺の散歩道を緩やかに切り取るカメラだった。ある意味、そこへの原点回帰みたいなところも僕の中にあるんだよね。平日の街中も、週末の散歩道も、ライカがあれば多様なリズムで撮影を楽しむことができる。なんというかこの「行き着くところ、ライカ」という感覚がようやくわかりかけている今。ライカを生活の中心に置いた時、その周辺にどんな必要最小限のサブカメラがあれば豊かなのか、そんなことを自然と考え始めているじぶんがいる。思考とは生き物だなと思うし、そうやって熟考した先に現れるライカの本質力みたいなものは凄いよなと思うんだ。


ライカの可愛さと狂気。


Leica M3, Elmar M 50/3.5

昨夜あたりからTwitterを眺めていると「#バルナックはいいぞ」というハッシュタグと共にカメラ好きたちの思い思いのライカを写した画像が流れてきて、あゝライカ愛されてんなあとつくづく感じた。いや、ライカだけじゃないだろうけど、特にライカは溺愛されてる感じはやはりある。

あれって何なんだろうなと思うわけだけど、カッコいいとか凄みとかそういう正統派のこだわりだけではそういう現象は起きないよなと。そこには少し人間の本能を揺らす要素、僕には「可愛さ」とか「狂気」とかが絶妙にまじってるから人々はやられると思ってる。まあ、僕もそのあたりにやられたクチではあるんだけど笑。

なんというか人間と同じで、美人とか秀才とかそういうものとは異なる部分でいわゆる人気なひとっているよね。凄くクリエイティブかといえばユニークさも持ち合わせていたり、クールに見えて実はチャーミングさが多分に垣間見えたり。なんかそういう部分の、分かりやすいものとは少し違う成分がライカには入っている気がする。じゃなかったら、ひとはあそこまで首ったけになったり、その歓びみたいなものを人々に伝えようとしたりはしない、きっと。

それは、撮れる写真にも感じていて、ライカのボディやレンズで撮れる写真は精巧というより隙がある。でもその隙が人間らしさみたいなものを内包して、見る人、撮る人を魅了する。これが計算されたものならライカの科学はすごいぞと思うけど、それは作られたものというよりは、作り手の愛情みたいなものが滲み出た結果なんじゃないかと思うけど、どうだろう。それが伝染してか、ライカ好きな人たちはとてもピュアだ。決してライカをじぶんのアピールに使ったりはしない。もっと無垢な感じで惚れ、それを人々へ伝えようとしてると思う。そういうブランドはやっぱり強い。ブランドはこしらえるものじゃなくて、結果積み上がるものなんだよなと、あらためて。


エルマー、ズミクロン、ズミルックスで撮ってみて思うのは、それぞれ必要だということ。


Leica M-P, Elmar M 50/3.5

これはもう完全なる僕の主観なわけだけど、50mmのレンズを好んで使う僕がライカの古きレンズたちをひと通り揃えてみて思うことであってね、正解だとかそういうことではまったくないんだけど、エルマー、ズミクロン、ズミルックスは50mmライカの世界を代表するレンズでもあるから、そのことには触れておこうと。

Leica M-P, Elmar M 50/3.5

まずエルマーなんだけど、これはひとことでいえば「影のある端正」ということになるだろうか。ライカレンズの最初期の銘柄でf値は3.5だから、いわゆるボケなどを期待するレンズではない。だから撮る意識もおのずと光景を切り取ることが主眼になる。それもシンプルに。僕の感覚はそうだ。なんというか清々しい世界を描こうというより、少し影のある世界を描写したいと思わせるレンズ、そんな気がする。けれど、静かなんだけどその中に狂気のような強さがある。いろんなレンズを使っても結局エルマーに戻ってくるというのは、人間が内に秘めた孤独性みたいなものの真理の証というか、とても分かる気がする。どうだろう。

Leica M-P, Summilux 50/1.4 2nd
Leica M-P, Summilux 50/1.4 2nd

そして、ズミルックス。これはもう僕の中ではとにかく華やぎを持つレンズという印象が強い。どんなにシックなシチュエーションで撮ってもそこに華やかさを持ち込んでくるとでも言えばいいだろうか。そこにはネーミング通り「最高の光」という、光をふんだんに取り込むことで写真を作り上げるズミルックス流の写真の仕立て方がやっぱりあると思う。ズミルックスだけはとにかく開放よりで撮りたいと僕は思う。f1.4、特別なノクチルックスをのぞけばライカで最も明るいレンズであるその開放値を使わない手はない。僕はもともとボケは好きで、それで一眼レフでカメラを始めたところがあるけど、このズミルックスとの出会いがライカを一眼レフ以上のカメラへと押し上げ、夜スナップへと僕を導いた、ちょっと特別なレンズといっていいだろう。このレンズに出会わなかったら、僕はここまでライカにのめり込んでいなかっただろうと思う。

Leica M-P, Summicron 50/2 1st
Leica M-P, Summicron 50/2 1st

最後がズミクロンだ。順番通り、手に入れたのもズミクロンがいちばん最後なんで、まだズミクロンが何かと言えるほど量も撮りきれていない。ひとつ前のブログ記事には始めて試し撮りした印象を少し書いてはみたけど、まだまだこのレンズについては未知数だ。けれど、一般的に言われる力強さはこの一枚にも見て取れると思う。f3.5のエルマーとf1.4のズミルックスの間に位置するズミクロン。つまりエルマーの静かさや端正さと、ズミルックスの光をふんだんにすくい取る華やぎの両面を持ち備えている気がする。そんなことを普通にやるとどっちつかずの描写になりそうだけど、そんな屁理屈を吹き飛ばす強さがこのレンズにはある気がする。それはそうだ、実際には孤高の性能を誇るLeica M3の標準レンズとして当時のありったけの技術を注いで作られたレンズだから、最高を形にしたレンズであることは間違いない。

つまり、同じ50mmのレンズでも、僕程度の知識しかない単なるカメラ愛好家でも、この3つのレンズにはそれぞれ差であり味つけのレイヤーが存在し、それは代わりがきくとかそういう問題を超越して、それぞれ3つが同居して存在する意味とか意義を強烈に唱えている気がする。僕も最初はエルマーひと筋で行こうとか考えていたんだけど、それをズミルックスがいい意味で壊してくれ、最後はズミクロンが3つ存在する価値のトドメを刺してきた。カメラやレンズは深く突き詰めるという意味では所有する数は少ないほうが濃密だ。しかし、この3つのレンズだけは、それだけの種類があることを見過ごすことはむずかしいと今は思える。ここに来てようやく、ライカのレンズのことを熟考する機会が僕に訪れている。いろいろ書いたけど、ここからが始まりのような気が強烈にしている。


デジタルライカと初代ズミクロン、60年越しの出会いになるのかな。


Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

それにしても違和感のない、実にしっくり組み合わせだ。Leica M-P typ240とSummicron 50/2 1st 固定鏡胴 後期型、ズミクロンが登場してから実に60年越しのM-Pとの共演といえるのかな。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

僕のズミクロンは沈胴しない固定鏡胴タイプで、手持ちのエルマーが沈胴式だから、ズミクロンは初代でも固定鏡胴が欲しかった。中古カメラ店で何度もtyp240とM型フィルムライカに装着してその佇まいを確認し、最後は「うん、これだ」と確信して購入した。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

もともとズミクロン1stを手に入れようと考えたのは、Leica M3用にと思ったから。この夏、僕はふとLeica M3のことをあらためて惚れ直すに至り、M3を生涯使い倒すのであれば、やはり当時M3とセットで売られていた標準レンズといっていいズミクロンをつけてやるべきじゃないか、そう思った。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

物理的に言えば50/2というレンズはPlanar T*2/50ZMを持っていたから必要ないんだけど、そこはやはりライカで確かめたかったというのかな。ElmarとSummiluxは持っているんだけど、その間を埋めるf2のレンズもライカのオールドレンズで確かめたかった。僕の中でライカのオールドレンズに魅せられてきた結果だと思う。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

フィルムで撮る前に、まずズミクロンの性格みたいなものを掴みたかったから、デジタルライカM-P typ240に装着して、愛犬の散歩と共に試し撮りへ出かけてみた。エルマーとズミルックスとどう違うのか、同じf2のプラナーとどう違うのか、そんなことを考えながら、ひとまずは辺りをいろいろ撮ってみた。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

まあ僕の目にそれらの違いを語れる能力があるかというと無いわけだけど、感覚的なことでいえば、ズミクロンは「試されるレンズ」だと思った。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

僕的にいえばズミクロンは見事にエルマーとズミルックスの中間的世界だと感じた。エルマーの奥深さ、そしてズミルックスの華やかさ、その両者のよさを中間的に持ち合わせているレンズ。でも逆にいえば、どっちつかずのバランスのとれすぎた描写になる。エルマーとズミルックスで撮ってきた僕には第一印象としてそう感じられた。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

これは僕がエルマーとズミルックスの描写がそれぞれ好きすぎるからそう思うんだろうけど、ズミクロンを最初から手にした人であれば、このバランスのいい描写はまさに代表的レンズの風格を堪能できる一本だろうと思う。現代的レンズであるZMプラナーと比べても「癖のあるボケの余韻」は分かりやすくオールドレンズ の良さを堪能できる。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

でも、もっといえば「ズミクロンは簡単じゃないレンズ」じゃないかと思った。ひとまず試し撮りの第一印象としてこうして感想を言葉にはしているものの、たかだか試し撮り程度では語れない奥深さを持ち備えているレンズ、それこそがこのズミクロンの真骨頂じゃないかと。時間をかけてじっくりとその実力を絞り出していく楽しみがあるレンズ。それこそが僕が初代ズミクロンに感じた魔性のような魅力だ。

Leica M-P typ240, Summicron 50/2 1st

まずはデジタルライカで試してみたけど、このズミクロンの真髄はやはりM3につけてからが真の快楽なんだろうな。僕がこの初代ズミクロンの購入を決めた最後の押しは、このフードITDOOをつけてM3に装着してみた姿に惚れ込んだからに他ならない。この佇まいは、撮れる写真云々の前から撮り手にパッションを与えてくれる。

Leica M3, Summicron 50/2 1st

やばい艶かしさ。ズミクロンはやはりM3のために生まれたレンズ。当時のライカ開発陣の美学や気迫がプンプン漂ってくる。バルナックとエルマーの組み合わせと同じ種類の、ひとかたまりで圧倒してくる究極の機能美のようなもの。僕にとってカメラとはデザインの美しさも最大の要素、固定鏡胴のズミクロンはそこも軽々と撃ち抜いてきた。やるな、ライカ。人生を共にする価値がこのレンズにはある。


フィルムがいつまでこの世に存在するのか、というのはカメラ選びのたびに脳によぎる。


Leica M3, Carl Zeiss Planar T*2/50 ZM

さっきのポストの続きみたいなところがあるけど。その手ごたえがありつつ絶妙な軽量コンパクトのカメラたちとなると、僕の場合レンジファインダー機が筆頭になってくる。その最たるカメラがLeica M3だったりするわけだけど、こうしたカメラたちを手に入れたり、もしくは今後手元に残していくカメラを考える時、ふと脳によぎるんだな。「ところで、フィルムはいつまでこの世に存在するんだろうか」と。

きょうもTwitterでAgfaのフィルムが最終販売というのを見かけたし、現にAcros100の再開に向けた再検討がなされているとアナウンスもあったとはいえ、国内唯一のフィルムメーカーも年々フィルム扱い品目を減らしていってる現実もある。もちろん、需要が大きく供給を上回るようであればフィルムはビジネス的に無くなることはないんだろうけど、世の流れからいえばデジタル化がますます進むことは否めない。このままいけば、フィルムが永遠にあるというのは考えづらいんだよね、やはり。

そうすると、フィルム機を人生永遠の友にするのはやはりむずかしいのか?とか、かといってデジタル機では何十年も使い続けるのはむずかしいぞ?とか、なかなか手元に残していくカメラ選びというのはむずかしかったりするわけである。僕だけかなあ、そんな風に思うのは。僕はどちらかといえば、これからはカメラを増やすというよりは、最後に残すカメラたちを絞り込んでいくプロセスに入ろうと思ってるんだけど、その時にこの「フィルムはいつまであるのか問題」みたいなものがふとよきるんだよなあ、いつも。

そんなことどうでもいいじゃん!いま楽しめることに集中すればいいだけ!とか言われそうだけど、なかなかそうも割り切れなくてね。だって、カメラは飾るものじゃなくて、使ってなんぼの道具だからね。けれど、この答えのない悩みは常にどこかにあって、カメラをやる以上はずっとこのテーマとは向き合っていくんだろうなと。ネガ、ポジ、ブローニー、ずっと使えればずいぶん悩みは吹っ飛ぶんだけどね。


カメラは軽量コンパクトであればいいというわけじゃないけど。


Voigtlander Bessa-L, Snapshot-Skopar 25/4

僕もカメラを始めた頃は、カメラ=一眼レフという認識があって、割と大ぶりなカメラを「この重厚感がいいんだ」みたいに感じて使っていた。それでもフルサイズの中では軽量なNikon D750だったんだけど、標準レンズが24-120 f/4だったから、けっこうヘビー級なカメラではあった。

その後、そのヘビーさが嫌になったわけではないんだけど、カメラをコンデジのRICOH GRだけにしてしばらく過ごすことになる。たぶんこの時にカメラに対する価値観が少し変わったのかな。手軽に街に持ち出せてスナップできることが、僕の中でのカメラの理想像になっていった。

で、フィルムで撮るようになった今では、よく使うカメラはどちらかといえば一眼レフより小ぶりなカメラが多い。なんといってもコンパクトで持ち出しやすいのはフィルムコンパクトのKonica C35やRollei35。GRと合わせてこの3台は、ほんと荷物にならなくていつでもどこでも手軽にスナップ撮影が楽しめる。でも、じゃあ軽量コンパクトであることが最良かといえば、そうとも言えない。もう少し「手ごたえ」も欲しい、というのが僕の中での理想の軽量コンパクトだったりするんだ。

それがレンジファインダー系のカメラたち。ことし夏用カメラとして手に入れたBessa-LやコンデジのLeica X2なんかもそう。もちろん、バルナックIIIaやLeica M3なんかもこのクラスにあたる。大ぶりではなく、かといってコンパクトすぎるわけでもない、とても絶妙なサイズというのがこのへんのカメラたちなんだ。僕はここ数日間、Leica M3のことをあらためてジャストフィットなカメラだなと再認識してるところなんだけど、そこにはその絶妙なサイズと品質が高次元でバランスがとれていることが大きい。本格的な手ごたえを失わない、軽量コンパクトのギリギリの線を行くカメラたちとでもいえばいいだろうか。一度この絶妙なサイズに慣れてしまうと、大ぶりな一眼レフを持つことはむずかしい。僕はデジタル一眼レフも持ってるけど、Nikonフルサイズ機の中で最軽量のDfが今のところ許せる範囲内の一眼レフだと思っている。

もちろん、大ぶりな本格的一眼レフも時に使用する。Nikon F6やNikon D300なんかはそう。けれど、普段着のように持ち出しているカメラはといえばM3をはじめとするジャストフィットクラスのカメラたちなんだ。そう、カメラは軽量コンパクトなほどいいという気持ちはあるけど、最もコンパクトなカメラたちはサブで、メインはこのスナップシューター系カメラたちということ。一応、20台くらいの大小さまざまなカメラたちと付き合ってきた経験上からたどり着いた着地点みたいなものだから、案外説得力のある視点なんじゃないかと思う笑。

とはいえ、カメラは何が良くて何が悪いなんて論点のアイテムじゃなくて、じぶんにあったカメラこそが最良のカメラ。見るからに本格的なフラッグシップ系の一眼レフがいいという人もアリだし、中判カメラというのもまたアリ。逆に徹底してコンパクト機を楽しむのもアリだ。そういう意味ではサイズはあまり関係ないのかもしれないけど、だからといってこの絶妙サイズのカメラたちを放っておくのももったいない。レンジファインダー系カメラ未経験の人たちはぜひ一度、その「手ごたえ」なるものを味わってみてほしいな。なにかとんでもなくフィットする軽い衝撃みたいなものがあるから、きっと。