20世紀のElmar Mと、21世紀のLeica M-Pと。

Leica M-P, Elmar M 50/3.5

土曜日の夕方、3月も終わりとはいえ半袖Tシャツで愛犬と散歩に行ける陽気に、心もどこかフワッとする週末。愛犬も心踊るのか、散歩へ連れて行けと騒々しいので少し早めに二人で家を出る。お供するカメラはLeica M-PとElmar M 50/3.5だ。

そういえば昨夜はまたひとつ、フィルムの販売終了のニュースが飛び込んできて、Twitterの中のフィルムカメラクラスタのみんなも動揺してる感じだった。インパクトがあったのは日本製のモノクロフィルムが消えるということだっだろうと思う。僕はモノクロ現像機が生活圏内に無いこともあって、フィルムで撮る時はすべてカラーネガ。だから、いまひとつ国内モノクロフィルム終了の知らせにリアリティを感じないところがあったけど、モノクロフィルムで自家現像してる愛好家の人たちにとってみれば切実だ。海外製フィルムはまだ残るとはいえ、いずれフィルムがこの世から姿を消すことを誰もがリアルに悟った日でもあったんじゃないかな。

フィルムはいくらブームとはいえ、記憶メディアとしてはデジタルへ転換するのに一手間もふた手間もかかる。それはやはりこのスピード社会においてスタンダードにはなりにくい。僕らフィルムをやる人間たちはその手間を愛情と受け取れるけど、普通の人にしてみれば面倒くさい過去の遺物だろう、実際のところね。もちろん、フィルムでしか描けない世界はあるけど、それをもってしても、時間とコストとの相性の悪さは市場もメーカーにも受け入れがたいことは間違いない。

いつまでもフィルムを楽しみたい。フィルムカメラがまだこんなに元気なのに、フィルムが無くなることでフィルムカメラたちまでも実用品として幕を閉じるのはなんともさびしい。でも、心のどこかでそれを受け入れなければならないんだろうなというじぶんもいる。そんな中、僕は幸運にもデジタルカメラとオールドレンズという楽しみ方に出会い、いまその味を楽しみ始めている。フィルムの代わりという意識はないけど、デジタルで撮ってるという意識もなくて、なんというかデジタルとフィルムの境目の曖昧な世界を浮遊しているような楽しさがある。つまり、アリなんだ、この世界は。

僕の手持ちのデジタルカメラたちはすべてそういう楽しみ方で選んだモノたち。Nikon Dfにはオールドニッコールたちがつけられ、Leica M-Pにはフィルムライカ時代のレンズたちがつけられている。最近手に入れたFujifilmミラーレス X-E2にはロシアンゾナーのJupiter-8がついている。この21世紀のボディたちに20世紀の往年のレンズたちをつけて撮る感覚は、なんとも言えない感慨深さが僕にはある。フィルムがいずれ無くなるかもしれないという恐怖感は常に心のどこかにあるけど、だからといって時代の行く先はマイナスばかりじゃない。時代に適合した新しい写真のありようがある気がする。まだ見ぬ何かもね、きっと。

とはいえ、フィルム。僕はフィルムライカがこの世にあるかぎり無くなることはないと楽観的に思ってるところもどこかある。未だに新品でフィルムカメラを売るライカというメーカーはちょっと特別だ。ライカユーザーの手元にフィルムライカが残り続けるかぎり、ライカ社はきっと自前になってもフィルムをこの世に残し続ける、そんな気もしている。さて、どうなることやら。僕らは実は凄い時代の転換点を生きてるのかもしれない。けど、僕はさびしさは感じない。時代に逆らうんじゃなくて、その風に乗って写真の楽しみ方を再定義することにしなやかでありたい。デジタルカメラとオールドレンズ、僕らにはまだまだ可能性がある。楽しもうじゃないか、バルナックライカが産声をあげた時のような時代の大きな転換を。

軽い、Mロッコール。頭も心も軽くなるレベル。

Leica M-P, M-Rokkor 28/2.8

今朝は広角M-Rokkorに履き替えて、街へ向かう。Leica IIIa×Elmarとどちらにしようか迷ったけど、少したくさん撮りたい気分だったから、デジタルをチョイスした。

いずれにしても軽い気分で出かけたかったんだよね。M-Rokkor 28/2.8もLeica IIIaにしても、とにかく軽いんだ。それだけでスナップする心待ちとしては弾む。これって凄い最高性能だよね。

カメラは持ち出さなきゃダメなんだ。持ち歩かないと、いつのまにか枚数が減って、いつのまにかカメラが日常から遠のいていく。カメラとはそういうところがある。スマホで撮ればいいじゃないかと。いや、あれは違う。残念ながら。カメラが必要なんだ、記憶を写真に残すにはね。出かけようじゃないか、軽いカメラを持って軽快に。

被写体は「いま」。

Leica M-P, Summilux 50 2nd

この人、写真上手いなあと思うのは、やっぱり主役というかテーマ、タイトルといってもいいかな、そういう撮りたいものが明瞭なものがやはり多い気がするけど、そういうものとは無縁のように、撮りたいものがファジーに思えるんだけど「あゝいいなこの空気感」みたいな写真がたまにある。それは何がいいんだろうと思うと、「いま」という臨場感を捉えているからいいんじゃないかなと思い始めている。

この場合の被写体は強いて言うなら、モノでもヒトでも風景でもなくて「いま」なんじゃないかと。街が呼吸してる感じを撮るとでもいえばいいだろうか。僕にそんな写真が撮れているとは思いづらいけど、そういうスタンスというか、そういう気配みたいなものが撮れるといいなあと思ったりする。誰に見せるわけでもない、じぶんが後から見て「あゝ、いいな」という写真だから、もうそれは個人的、とても私的な写真でしかないんだけど、僕はできればそういう写真が撮りたいなあ。

言うほど簡単じゃなく、あがってきたじぶんの写真を見てはため息をつくことも少なくないけど、僕の中に写真を撮る上でのテーマがあるとするならば、そういうこと。街が息づいている様子が、じぶんが「あ、僕は生きている」という感覚を再確認するのにとてもいいんだよね。写真をきちんととっている人からすると、ずいぶん甘々なテーマ設定かもしれないけど、近ごろそんなことを思う。写真にそれぞれタイトルをつけるとするならば、ぜんぶ「いま」。レンジファインダーで街を撮るようになって、そんなじぶんの好む世界に気づきつつあるんだ。こういう感覚ってTeitterでツイートするのはなかなか恥ずかしいけど、こうしてブログの中ならこっそり言える。ブログを続けられている原動力もそこにあるのかもしれない。