一度は手にしたIIIfだったけど、土壇場でIIIaにチェンジ。僕の初めてのバルナックライカ。


Leica IIIa, Elmar 50/3.5

ちょっとTwitterでは書ききれなかったので、ブログのほうに綴っておこうかなと。そう、記事タイトルにある通り、僕はつい二日前にLeica IIIfを購入したんだけど、今日同じ店を訪れてIIIfをIIIaに交換してもらったのである。

そもそも今日その中古カメラ店を訪れた理由は、取り寄せ注文をしていたバルナック用のLマウントレンズ、エルマー50/3.5を受け取りに行くことだった。で、せっかく行くのなら先に買っておいたボディIIIfも持って行こうと思い、エルマーを装着したついでに店員さんにIIIfの調子をもう一度見てもらったのである。

というのも、IIIfを購入してからしばらく家で空シャッターを切っていたんだけど、SS 1/1000がたまにシャッターが引っかかる挙動があって、なんか心の中でどこか気になっていたんだよね。1/1000以外もシャッターは切れるんだけどどこか動きが頼りないというか、もうそこは直感なんだけど「どこか元気がない感じ」を受けていた。1951年のカメラだからそんなもんかなとも思ってたんだけど、やはり気になるから店員さんに相談して、もう一度IIIfのシャッターまわりを見てもらったんだ。店員さんは快くIIIfのシャッターを切っては症状を確認してくれてたんだけど、やっぱり何度か引っかかる挙動が出て、修理店にも電話してくれて症状を問い合わせてもらったりした結果、カメラ内部で何かが経年劣化で固まってるか、微細なフィルムかすか何かが引っかかっている可能性があるから一度修理店でバラして診てみましょうか、という話になった。

修理に出すと二、三週間はかかるとのことで、せっかくレンズは揃ったんだけど、今度はボディをしばらく待つことになる。まいったな、と思ってた時に、視界にこのIIIaが入ったんだよね。一昨日、実は最初に目をつけたのはこのIIIaだった。だけど、その時は数台のバルナックの中から店員さんにおすすめの品をョイスしてもらったこともあり、IIIaについてはじぶんの手でしっかり動作確認はしていなかった。でも、なんか気になる。他のバルナックIIIfやIIIgとはひと味違う、どこか凛とした佇まいのボディに惹かれ、「ちなみにこのIIIaの調子が良ければ、IIIfと交換も可能ですか?」と聞いてみたら、もちろんOKですと。じゃあということで、ショーケースから出してもらって、今度はじぶんの目で可能な限りIIIaを確かめてみた。

すると、まず何よりシャッターの挙動が元気というかキレがある。ん、これが本来のバルナックの挙動なのかなと瞬間的に思った。なんというかライカらしい質といえばいいのかな。そしてファインダーをのぞいてみると、これもIIIf並みに十分綺麗。二重像を見る窓はIIIfより古いカメラだけに少し暗く感じだけど、二重像合わせはしっかり確認できる。おや、なんかIIIfよりいいんじゃないかと。

あとはもう、じぶんの直感を信じるだけだった。修理すればしっかりコンディションを取り戻すかもしれないIIIfと、いま目の前にある想像以上に元気な様子のIIIa。僕が選んだのは後者だった。そもそも一昨日、最初に目にとまったIIIaの小ぶりなシルエットにもかかわらず他のバルナックより存在感を放つオーラのようなもの。そして、M3に通じるそのしっかりとした質感に、これでいこうと。

IIIfよりは多少キズがあったり、グッタペルカが少し色褪せたりもしてるけと、それがまた勲章のようで実にかっこいい。調べてみると僕のIIIaは1931年製で今年で79歳なんだよね。いい歳のとり方をした初老の紳士というか、いや、むしろアヴァンギャルドというか、男ならちょっとシビれるオーラを持ち備えている。この土壇場でIIIaにしたことが吉と出るか凶と出るかは、試し撮りを続けてみるまで分からない。でも、僕は所有するバルナックとしてコイツを選んだ。直感を信じて。

あと、IIIaと一緒に連れて帰ったエルマー50/3.5だけど、これもまたシビれる佇まいで、ほんと参った笑。IIIaに装着したフォルムはもう神々しいとしか言いようがない。エルマーもまた試し撮りしてみないと何とも言えないんだけど、現時点ではライカ社に敬意を表すしかないレベルの素晴らしさを感じる。少しクモリはあるようだけど、僕にはよく分からない笑。そう、もうボディもレンズも決めたから、あとはつべこべ言わずに撮るしかない。話は撮ってから。というわけて、僕の手元に、やっとやってきた。ようこそ、マイバルナック&マイエルマー。


僕の中の28mmは、考えることを放棄する世界。


RICOH GR, GR Lens 28/2.8

これは完全に僕個人の見解だけどね。僕にとっての28mmとはほぼGRのことを意味するんだけど、あれだけ苦手意識のあった広角を曲がりなりにも撮れるようになったのはGRのおかげで、GRがなかったら今も僕は広角とは仲良くなれていなかったと思う。

とはいえ、RICOH GRが教えてくれた、気づかせてくれたのは、28mmを撮る際のノウハウとかコツではないんだ。強いて言うなら「広角は考えるな」ということ。なぜなら28mmは僕の視界より少し外側が写り込んでしまうんだ。じぶんの目で目の前の光景を切り取ったつもりが、好むも好まざるも意識していない少し外側の世界が入り込んでくるから、僕の抱いた画角の世界とは少し異なる印象の写真が撮れてしまう。少しとはいえ、写真の端に想定しないモノが写り込む影響はかなりでかい。何度も撮るけど、これはもうどうしようもない。ある種の「放棄」の世界だ。思い通りの写真を撮ること、何か考えを巡らせて撮るなんてことを諦めさせてくれるものがそこにはあるような気がする。

そう思い始めてからは、実に楽になった。考えて撮らない、どうせファインダーはないし、モニターを凝視してる暇もない。そんなあれこれ考えてるよりは一枚でも多くシャッターを切る。そんなことをGRは教えてくれたように思う。僕はスナップ向けカメラといわれるものはGRしか知らないから、他のカメラでのぞく28mmの世界のことはよくわからないけど、GR的にはそう思ったし、僕的にはその解釈によって28mmが楽になり、好きになった。人間の視界の外側が少し写り込む微妙な違和感のある世界。そのザラついた感じがとても心地いいんだ。思い通りになることがなにも気持ちいいというわけではないことを、このカメラは教えてくれる。


思いがけずLeica IIIfを連れて帰ったので、少しだけそのことについて。


Leica IIIf Body

じぶんでも不思議なんだよね、なぜ、思いがけずバルナックライカに手がのびたのかと。たしかにふだんM3を使う身としては、その前身であるバルナックはルーツとして気にならないわけではなかったのだけど、ここのところ中古カメラ店をのぞいても特にカメラやレンズを欲しいという気持ちは消えていて、当分カメラを増やすことはないだろうと思っていた。

ところが今夜は少し様子が違った。これまでLeica M3、Nikon F2、Konica C35を購入したお店なんだけど、入店したら自然といつもの店員さんとバルナック談義を始めたんだよね。ほんと無意識な感じで。冗談ではなくて考えられ得る理由としては、昨夜少し気持ちが入った状態で田中長徳さんが書いた本「ライカワークショップ」を読んだということ。それくらいしか思いつかないんだなあ、今夜の僕の行動は。

購入したのはLeica IIIf。比較したのはIIIa、IIIb、IIIg、DIIだったかな、ひと通りショーケースにあるバルナックを店員さんと動作確認して、いちばん程度がいいであろうIIIfを残し、しばしあれこれ触ってみた。二つあるのぞき窓のうち左の窓をのぞく。M3のような中央部の黄色い二重像を合わせるのではなく、拡大された二つの像を合わせるんだと教えてもらう。そして右の窓に目を移す。試しに装着したヘキサノン50/1.9で目の前には50mmの世界が想像以上にくっきり見えた。この時、アリかもと思った。

シャッタースピードは1/1000が怪しい感じがしないでもなかったけど、M3でも1/1000は使わないから気にはならなかった。ひとまず全速いけるそのIIIfはひと通り整備されたものらしい。底蓋を開けてスプールも確認したけど、たしかに綺麗だ。もう僕程度の知識で確認できるのはこのあたりまでだ。あとはこのお店で購入したM3が一度も不具合がないことを納得材料にして、購入を決めた。

レンズはさすがに最初のレンズとしてヘキサノンをそのままつけて帰るのもどうかと思い、そこはやっぱり原点であるエルマー50/3.5をつけてやりたいと思った。だけど、あいにくこのお店にはいま在庫がなく、店員さんと相談して遠方のお店から在庫を取り寄せてもらうことにして、今日のところはボディだけ連れて帰ることにした。そうか、いま思えば、バルナックが欲しいより前に、Lマウントのエルマーが欲しいという気持ちはどこかにあったかもしれない。いつもはプラナーT*2/50をつけているM3に、エルマーをつけて撮ってみたいなという気持ち、うん、それはあったかもしれない。帰り際にその店員さんが「これでLマウントの沼についに突入ですかね」と笑って言うんで、「そうかもですね笑」と挨拶を交わして店を後にする。あー、やっちゃったななどと思いながら笑。

自宅に持ち帰ってあらためて空シャッターを切ってみた。最初は1/100とか1/200とかぎこちない感触だったけど、何度か切り続けるうちに機械が目を覚ましたというか、リズムよく動き出した。といってもいかにも精密機械的な滑らかな動きのM3と比べると、なんとなく頼りない。正直これで本当にちゃんと写真が撮れるのだろうかというくらい、懐古的な動作をする。味があるといえばそうなんだけど、逆にM3の進化の凄さもあらためて感じることに。けれど、これも不思議なもんでしばらく空シャッターを切り続けていると、なんだか人間くさくて憎めない感じが芽生えてくる。M3とIIIf、僕の中ではこの二つのライカはまったく別物の生き物のような気がした。

さて、レンズのほうは早ければ明後日くらいにはご対面できそうだけど、どうだろう。この日を逃すとしばらくお店には立ち寄れないんで今週末の試し撮りはむずかしい。とはいえ、焦る必要もないだろうと。このカメラの性質を考えると、急ぐという言葉が最も不釣り合いな言葉に感じるから。ゆっくり向き合って少しずつ仲良くなれたらいいなと。なにせM3より古いカメラだから試し撮りしてみないと頼りになるカメラかどうかはまだ分からない。できれば良い子であってほしいと願いながら、レンズの到着を待つとしよう。

それから、もうひとつ。実際に手に持ったバルナックは「小さい!」と感じた。これに沈胴式のレンズを装着したら、ポケットに入れて持ち歩くという感覚もなくは無いなと思った。さすがにM3ではそんなことを想起しないから、バルナックが体感的にいかにコンパクトなのかということの証な気がした。そうそう、そのコンパクトさを考えると、フードをつけないほうが持ち運びの機動力はあがると思ったんだけど、古いレンズだからフードは必須なんだろうな。ひとまずフードを見つけるまでは、裸のエルマーで試し撮り続けてみるかと考えてたら、ストラップもいるなあと。あ、LMアダプターもいるなあとか、嬉しい悩みが次々と。今日のところはこのへんで。ちゃんと撮れたら、またブログでこの続きを。

〈追記:後日談〉…実はこの二日後にこのIIIfはIIIaに姿を変えることになる。その経過はこちらの記事にて。


フィルムの不安定さに人は惹かれる。人間らしさという点において。


Nikon F2, Auto50/1.4, Fuji業務用100

精巧で整った写真を撮る、もしくは頭の中にイメージした絵に近い写真を撮る、その信頼性においてはデジカメで撮るほうが優れているのだろうし、何よりスピーディだ。でも、人はフィルムに惹かれる。デジカメで撮る人の多くもどこか心の奥底でフィルム写真へのオマージュみたいなものを感じる。そこにはたぶん、想像通りにいかない不安定さみたいなものを感じ、そのアンコートロラブルな世界にどこか惹かれまくるんじゃないだろうか。僕はそうだ。色も、光の現れ方も、周辺減光も、ピントも、すべては現像があがってくるまでわからない。頭では仕上がりを想像して撮るものの、そんなものは人間を相手にしているようでまるで反応は予測できない。ちっとも思い通りにならない恋愛みたいなものと同じだろうか。被写体の動きさえも思い通りにいかないのに、その写りまでも思い通りにならない、このフィルムの世界。正確さと信頼性が求められるこの時代にあって、すごいことだよね。人はバランスのとれたものに安心するけど、無性に惹かれるのはアンバランスなもののほう。どっちがいいのか。どちらかでないといけないのか。どっちも持ち備えるのがいいのか。答えの出ない人生の難題である。


フィルムとデジタルは、写真の仕上がりだけじゃなくて、撮る心持ちと行為も違うかも。


Nikon F6, 50/1.4D

夕方の愛犬との散歩カメラはNikon F6を連れ出した。やんちゃな愛犬との散歩には、片手で撮れるオートフォーカスのNikon F6か、デジタルならNikon Dfを連れ出すのがほとんとだ。

F6には朝と同様にLomography100を詰めて出かけたんだけど、やっぱり36枚は撮れなかった。僕はシャッターを切るのが好きなんでけっこう量を撮るほうなんたけど、今夕はがんはっても15枚くらいだったかな。やっぱり36枚撮りフィルムは多いな、なんて思ってたんだけど、よく考えてみるとデジタルだったら36枚なんてあっという間に撮っちゃうなと。ん?これって本当にコスト意識の差だけなのかなとちょっと思った。

たしかにフィルムのコストは安くない。フィルム代もだけと、現像とデータ化代で千数百円とかかかる。だからいくら撮ってもタダ同然のデジタルと比べるとたしかに無駄撮りしないというのはあるけど、撮ってる時は意外とコストのことなんかは考えていないよなあと。もっと根源的というか、撮影枚数の限られたカメラを今じぶんは手にしてる、という無意識な中で自然とじっくり撮ってるよなということに、はたと気づく。そんな感覚だ。

だから、辺りをじっくり眺めるし、光の入り方なんかにもデジタルの時より注意しているじぶんがいたりする。そんなテンポで撮り歩いてるから、なんというか時間がゆっくり流れている感覚に包まれる。フィルムとデジタルは、写真の仕上がりが異なるのはもちろんだけど、この撮影する心持ちや行為がもしかしたら別物といえるものかもしれないなと思った。写真を撮り続けてると、たまに写欲が落ちるとか聞く時があるけど、そんな時はデジタルからフィルムへ、フィルムからデジタルへ、カメラを持ち替えると時間の流れ方が新鮮でいいかもしれないね。なんか当たり前すぎて見過ごしてたけど、そんなフィルムとデジタルの違いにふと気がついたんで、ブログに記憶を。


ヘッドホン×フィルムカメラなら、真冬の撮影も少しあったまる。


Nikon FEとLomography100フィルム

今朝も日の出前に愛犬に起こされて散歩へ。さすがにまだ薄暗い時間だったから、カメラは無し。んー、せっかく休みの土曜日の朝なのに散歩カメラできなかったなあという心残りがあった。で、帰宅しても家族みんなまだ寝ていたから、じゃあ父が朝のパン屋へ朝食でも買いに行ってくるかと。いや、正確にいうと散歩カメラしたかったんだよね、できればフィルムカメラと。太陽が少し出てくれば、感度100のフィルムが入りっぱなしのNikon FEを連れ出せる。ということで、今朝は週末らしくフィルムカメラで少し癒しの時間を持つことができた。

僕はカメラで撮りに行く時は、ひとりが好きだ。なんといっても自由に行動できるからね。フィルムカメラで撮る時はデジカメのようにはサクサクは撮れない。露出を気にしながら、フィルムの残り枚数を気にしながら撮るところがあるから、ふわふわと道端を浮遊しながらボチボチ撮る感じだから、誰かと一緒だとかなり迷惑な行動になると思う。でも、ひとりならそんなことも気にしなくてフラフラ撮れる笑。ほんとフワフワだからね。

レンズもひとりならマニュアルフォーカスでじっくり撮れる。これ、愛犬と一緒だとなかなかつらいんだよね、両手でカメラとレンズを操作しながら写真を撮るのってね。だから、愛犬と一緒の時はAFで片手で撮れるカメラとレンズのチョイスになりがち。そういう意味でも、ひとりで撮りに出かけるというのは、僕のライフスタイルだとけっこう大事なんたな。

あと、ひとりだとヘッドホンで音楽を聴きながら散歩カメラができるってところも大きい。今朝もそう、iPhoneで音楽をシャッフルにしてNikon FEを構えながらフラフラと辺りを歩く。そうすると、頭の中もフラフラと浮遊する感じで実に気持ちよく写真を撮り歩くことができる。ふだんは少々元気の良すぎるフィルムニコン機のシャッター音も、抑えの効いたマットな音しか聞こえなくてちょっと夢の中にいるような気分。そして、フィルム色に仕上がるであろう光景をファインダーの中でのぞいていると、心なしかアタマとカラダがホクホクとあったまっていく気がする。音楽を聴きながら写真を撮るというのは、とても五感に心地いい時間の流れ方をするんだよね。

今週も平日はなかなか翻弄されそうな忙しさが続いて、正直心は疲れ気味だったんだけど、こうしてフィルムカメラと音楽と過ごすと、わずか数十分間だけど心洗われるようなひとときが送れ、いろんな緊張から解放される。それはバランスをとるという意味でもとても大切なことでね。帰宅してからもしばらくNikon F2やLeica M3などフィルムカメラをさわったり空シャッターを切ってたんたけど、このデジタル時代にこうしてアナログなものにふれ、いろんな感覚を中和することは僕にはとても心地いいことなんだ。アナログなことばかりでも疲れるだろうから、ちょうどいいバランスなのかもしれない。たまにこうして思うのは、一年でも長くフィルムとフィルムカメラが生き残り続けて欲しいということ。こんな手軽で人生のバランスを保てるアイテムってそう無いからね。


リバーサルフィルムが持つ、あのウェットな時空感が好きなんだ。


Nikon F6, 50/1.4D, Fuji Velvia100

ネガで撮った写真だとしたら失敗写真になるのだろうか。この写真のようにポジ、いわゆるリバーサルフィルムで撮った写真は時に必要以上の濃淡を描き出し、その空間があたかもしっとりとした水分で覆い尽くされたような表情を見せる。ネガフィルムが乾いた空気感を描きやすいのと比べると、同じ「フィルム」というジャンルでくくるのは無理があるような違いを見せる。

それはそうかもしれない。だって、ネガとポジ、まさに真逆なのだから。

ふだん、デジタルとネガフィルムが多い僕がリバーサルフィルムを入れて撮ったのは、まだわずか三度だ。それも撮ったのは週末の自然や古い町並みの光景だけ。まだ都市という光景は未経験だ。でも、今日の雨模様なんか見たら、平日の都市をリバーサルフィルムで撮ってみたいと無性に思う。雨なら気分はソール・ライターということになるんだろうけど、雨じゃなくてもいい。曇り空なら十分ウェットな空気感をもたらしてくれる気がするし、うっすら霧模様の街角なら最高。いや、想像の世界の話なんだけとね。でも、とにかく撮ってみたい。

露出の正確さでいえば、僕の手持ちのカメラでいえばNikon F6ということになるんだろうけど、街中でF6をかまえるには少々勇気がいる。そこはいつもの街中スナップ用カメラ、Konica C35か。たしか家にまだリバーサルフィルムの買い置きがあったはず。平日の朝に少し早めに家を出て、職場までの街中を少し試し撮りしてみるかな。プログラムAEのフィルムコンパクトでどこまでリバーサルフィルムが撮れるか。うん、ちょっと楽しみになってきた。

ところで、僕はハーフサイズのカメラを持っていないけど、リバーサルフィルムも普通にハーフサイズカメラで使えるのかな。使えるだろうな、サイズの違いだけだから。だとしたら、量を撮る試し撮りカメラとしてハーフサイズのフィルムコンパクトを手に入れるのもアリかもしれない。フィルムコンパクト×リバーサルフィルムの作例、ネットでちょっと探してみよう。それにしてもカメラと写真の探求は尽きない。日々こうして新たな興味対象が生まれるんだ。幸福なことだよね、人生の趣味としてね。


モノクロを撮りたい気持ちはデジタルに託す。


Nikon D300, 18-200VRii

僕は過去にモノクロだけ撮っていた時期がある。その時はカメラはRICOH GRだった。D750なんかを断捨離してGRだけで撮ってた頃だ。その頃は、僕はもうずっとGRでモノクロばかり撮る人生になりそうだとすら考えていた。それくらい、実はモノクロ写真が好きだったりする。

でもフィルムを始めて、モノクロ現像が容易じゃないことが分かる。モノクロ現像機を置いているラボはそう多くない。そうか、ラボ頼みの僕の場合だとフィルムではモノクロ写真を楽しむのは難しいのか。ちょっと落ち込むじぶんがいたのだけど、そうだ僕にはデジタルもあると。今ならGRに加えて、Nikon D300とNikon Dfがある。デジタルの恩恵として、モノクロはデジタルで楽しもうと思い至る。

フィルムの質感とは違うかな、やはり。でも、制約はカメラの楽しみでもある。GRとD300、Dfとで撮れるモノクロの世界なるものをちょっと掘り下げてみようと思ったりしてる。今年はね、少しモノクロ写真を増やしてみようと思う。ここのところカラーのフィルム色にトリコになっていたところがあるけど、もう少し光と影の世界に目を注いでみる。いや、かつての目に舞い戻る感じかな。

上手く言葉で言い表せないんだけど、デジイチで撮るモノクロは難しいんだよね。GRのようにはなかなか上手くいかない。なぜかな。その答探しも含めて、少し量を撮ってみたい。僕の性格的には、量をこなしてみないと何でも分からないところがあるんだ。モノクロが上手くなりたいという気持ちというよりは、より記憶カメラに近づきたいという思いかな。曖昧な記憶を表現する方法のひとつとして。それにしてもカメラは尽きない。次々とテーマが現れるんだ。飽きてる暇なんてない。幸福なこと。


カメラやレンズが「沼」的なのは、どこまでいっても正解が無いからかもしれないね。


Nikon F2, Auto50/1.4, Fuji業務用100

日曜日の朝、懲りずにいつもの散歩道を愛犬とNikon Df+50/1.8Gと歩き写真を撮る。いつもの道だから特に変わり映えする景色があるわけでも無い。それでもわざわざ一眼レフを持って写真を撮るのは、日常を記憶すると共に、露出なんかをいろいろ試したいからなんだよね。

他の人のことはよく分からないけど、僕にとってはカメラやレンズは尽きない課題ばかりだ。朝の光は順光がいいのか逆光がいいのか。感度は100がいいのか400がいいのか。明るいレンズは何段絞るとおもしろいのか。シャッタースピードは結局125がいいのか250がいいのか、それとも500がいいのか。フィルムカメラを始めてすっかりハマったこれらの疑問というか課題、そんな無限とも思える無数の組み合わせのテーマを、日々試し続けてるといっていい。

Nikon Df, 50/1.8G

そんなことをひたすら試すのにデジイチを再び手にしたところがある。なにせいつもの散歩道だから、とりたてて珍しい光景がいつもあるわけじゃない。露出に変化をつけながらひたすら試し撮りするのにフィルムを使い続けてたら、さすがにコストが持たない。露出やマニュアルライクな撮影を学ぶのに、もう一度デジイチを購入しようと手に入れたのがNikon Dfだ。

愛犬と散歩する時は、やんちゃな動きをする愛犬のリードを持っていても写真が撮れるように、撮影モードは絞り優先かシャッタースピード優先。レンズはAFが多い。そうして、光や影を意識しながらファインダーをのぞいて、その露出〈絞り値とシャッタースピード〉を確認する。今朝なんかは絞りf3.5付近をいろいろ試してたけど、朝晩の光が微妙な時間帯はあえてプログラムモードにして、絞り値とシャッタースピードがどこになるかを確認したりもする。それがいつも新鮮でたのしいんだよね。僕にはゲーム的でね。

そうしてデジイチをマニュアルライクにしてつかんだ露出感覚を、フィルムカメラの撮影に活かす。活かすといってもデジタルとフィルムは露出が同じでも当然描かれ方が変わるから、また課題が生まれる。今度はフィルムカメラで疑問に思ったことをデジイチで試す、その繰り返しみたいなね。もうこの試し撮りのサイクルは果てしない。どこまでいっても正解が無いような果てしなさがある。レンズが変わって、カメラが変われば、またベクトルが異なる課題が出てきて、まるで事が着地する感じはない。カメラやレンズがよく「沼」と言われるけど、あれは物欲をさして沼というより、このちょっとやそっとでは正解を感じられないカメラと写真の奥深さにハマっていく状態を指すんじゃないかなと思う。

このカメラやレンズ、露出のことなんかが少し「分かる」という感覚でいえば、カメラとレンズの種類はむしろ増やさないほうがいい。カメラもレンズも一種類だけに固定して、ひたすらそこを深掘りしていったほうが何かがつかめると思う。つまり、この場合は世の中でいわれるカメラ沼やレンズ沼とは真逆の方向なんだけど、このなんともつかみづらい正解を追いかける行為もまた沼だなと思う。いや、こっちのほうがむしろ本当の沼だと。

人生は、昨日分からなかったことや出来なかったことが今日出来るようになる、その繰り返しであり、その一つひとつがまた次の向上心を誘発する、そんな果てしないサイクルの連続。カメラやレンズがいいのは、そういう人生の縮図みたいなことを教えてくれる道具であることだ。仮に露出のことなんかが分かるようになったとしても、日々目の前に現れる光景は光も違えば影も異なり、同じ光景は二度と現れない。つまりどこまでいっても正解なんかつかめない試される世界の連続なわけだけど、それが僕らを飽きさせないし、いかにも人生そのものだなと思う。どうだろう。


制約は向上心の母である。カメラもね。


Nikon F2, Auto50/1.4, Fuji業務用100

僕は以前、NikonのD750というデジイチを使って写真を撮っていた。カメラを始めて数ヶ月で手に入れたフルサイズのカメラで、とにかくファインダーやシャッター音が嬉しくて、愛犬と散歩しながら道端の風景をいろいろ撮ってた。少しネットやカメラ雑誌で撮影知識を学んで単焦点レンズや望遠レンズを揃え、そういう意味ではスマホカメラでは撮れない世界をそれなりに楽しんでたんだと思う。

それから数年経ち、その間にデジイチをすべて手放して、フィルムカメラを始め、今また再びデジイチを手にしたカメラライフを送っている。カメラを始めた当時と違うのは、露出や感度のことを考えながら写真を撮っているということ。当たり前に聞こえるかもしれないけど、以前D750で撮っていた頃は、正直あまり露出や感度のことは理解していないまま撮ってた。それでもなんとなく撮れちゃうんだよね、現代の高性能なカメラなら。

そんな程度の知識の僕がある日フィルムカメラを手にしたもんだから、最初は驚いたなあ。以前の僕は、こんなにもカメラ任せで写真を撮っていたのかと、フィルムカメラを使うようになって初めて気がついたんだ。と同時に、現代のカメラと比べるとあらゆる点でスペック的に劣るフィルムカメラだけど、カメラの仕組みを学びながら工夫する喜びみたいなものを得ていくには、このあらゆる「制約」がとても大切だなとも感じた。

昔のフィルムカメラは感度でいえば最高でもISO1600まで。常用でいえばISO100か400だから、今のカメラのように数万のISO値の感度なんて魔法のような世界。感度100とか400という制約の中で、絞りやシャッタースピードを工夫する。そのシャッタースピードをにしても、いいところ最高1/500とか1/1000が限界だから、そうするとある程度絞って撮らないといけない。現代のカメラならシャッタースピードはシャッタースピード1/4000や1/8000は当たり前だし、ご丁寧にNDフィルター機能もあるから、明るい単焦点レンズを付けていてもシャッタースピードの「制約」なんて考えもしなくて撮れるからね。制約を考えもせずに被写体に向きあえるのが利点とも言えるけど、僕はそれ、カメラの楽しみを半減してると感じたんだ。フィルムカメラという「制約」のあるモノと出会ったおかげでね。

感度の制約、シャッタースピードの制約、古いレンズゆえの癖や、ほぼ撮る時に補正なんてできない制約。そんな制約たちが、それを突破するための工夫や、それを逆手にとった写真のあり様みたいなものを発想させてくれる。そんなこんな試行錯誤を繰り返していると、ようやくカメラの構造の基本である露出のことが頭に構造として染み付いてくる。そこからようやくカメラという道具と共同作業で写真を撮る楽しみの本質みたいなものが分かるようになったんだよね、僕の場合は。

だから、制約はとても大事。カメラなら万能で高価な高性能カメラを手にするのもいいけど、例えば安いカメラでスペック的制約のあるものと向き合うほうが撮影の工夫という意味では実はワクワクするし、高価なカメラやレンズでも万能タイプよりは特長を絞ったモノのほうが、とんがったおもしろさが味わえる。それもある意味制約を楽しむということ。僕は広告の仕事をしてるけど、広告の表現というのはまさに制約だらけの中からアイデアを紡ぎ出す仕事で、まあ日々制約だらけの中で生きてる様なもんだけど、制約があるから工夫する楽しみがあると、ずっと教えられてきたし、実際それが日々の創意工夫になったことは間違いない。

制約というのは、意識の持ちようによってはとてもネガティブに聞こえる言葉だけど、制約こそが目の前のハードルを越える向上心の母であり、制約の中から突破してアウトプットを高めることこそが最高にクールと考えると、これほどポジティブなこともないよなと思う。そういう、生きてく上での本質的なよろこびみたいなものをフィルムカメラが思い出させてくれたように思う。そういう制約の仕組みのようなものの原点が理解できてから、満を持して高性能なものを手にした時に、その高性能を本当にフルに引き出せるよろこびが味わえるんじゃないかな。そこへ到達するには一生かかっても時間が足りないとも思う今日この頃だけど。