機械式のニコンを持っておきたかった。Nikon F2という選択。

きょう仕事帰りにいつもの中古カメラ店をのぞいてみたら、程度のいいNikon F2がショーケースに加わっていた。僕はここ一ヶ月間くらいニコンのフィルム一眼レフフラッグシップ機を気にとめていて、FとF3はお店でその感触を確かめていた。そこでその二台の間に位置したF2もこの手で感触を確かめておきたいと思い、ショーケースから出してもらう。なるほど、Fよりは確実に新しさを感じる細部の造り、そしてF3よりは全身で機械式であることを持ち手に伝えてくる。シャッター音は噂通りFより甲高く室内に鳴り響く。

正直、しばらくF2を目の前にして悩んだんだけど、何度も何度も巻き上げの感触やシャッター音を試してはボディを眺め、オーバーホールされたという各部の仕上がりをチェック。最終的には手の中に収まった時のソノ感触を信じて、このF2を購入することにした。

決め手はやっぱりNikonの最後の機械式だということ。僕はNikon FEを二台所有しているけどそれらは電子式シャッター。露出計と絞り優先オートで撮れる楽チンさはとても気に入っているけど、いつまでも所有するなら機械式のフラッグシップ機を持っておきたいと心のどこかで思っていた。そうして、FとF2、そして電子式のF3とも触り比べた結果、僕が最終的に選んだのはNikon最後の機械式フラッグシップ機F2だった。

ボディだけ見ていたのだけど、ショーケースの奥にやはり程度のいいオートニッコール50/f1.4を見つけた。それもずいぶんお得な価格で、店員さんに理由を確認すると「このシルバー部分の美しさやレンズの綺麗さを考えると、昼間の店員が値段を安く付けずきた笑」と笑っていて、結果、装着して持ち帰ることにした。このお店は僕が所有するほとんどのフィルムカメラを購入したお店。店員さんもいつもの方だったので、さすがにオマケしてくれてNikonのプロストを付けてくれた。

写真はお店で撮ったもので、自宅でこれからパッキングを開封するんだけど、こんな夜だと部屋の中であの甲高い派手なシャッター音を試すのは気がひける。今夜はそのフォルムと手触りを確かめながら、眠りにつこうと思う。試し撮りは週末に。どこかで何度も聞いたことのあるフレーズだけど、僕も思う。もうカメラの購入はこれで最後にしようと笑。

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脳がグジャグジャになったら、懐かしい場所を歩いてみる。カメラも連れて。

脳はあんなに小さいけど収容能力はものすごい。でもたまに整理してあげないとオーバーヒートするというかグジャグジャになる。こういう時は、歩くといい。それも、できれば懐かしい場所を。

脳は現在から遥か過去まで収容してるから、整理するとなると時代の出し入れみたいなものが必要なんだろうね。僕には懐かしい場所を歩くのが、脳の整理整頓のスイッチらしい。

で、できればカメラも連れていくといい。そうするとこうして写真を見返した時に、もう一度脳の整理整頓ができる。カメラの凄さとはそういうところで、同じ写真が撮れるといってもスマホのカメラだとそういう感情は湧かない。不思議だね。それは記録じゃなくて記憶に作用するからだと思うんだけど、どうだろう。

日々を騙し騙し生きることもまた大切。

生きることは必ずしもハッピーばかりじゃない。仕事のこと、体調のこと、家族のこと、未来のこと、冷静に考えるとゾッと思うことも少なくない。いや、むしろ、そういうハッピーを阻む壁みたいなものに囲まれて生きる、その絶えない困難を避けたり、調整したり、僅かずつ乗り越えることこそが人生の有り様なのかもしれない。そんな理不尽な道だから100%正解とか完璧とか正論ばかりですり抜けようとすると、かえってひどく疲れる。ごまかすんじゃなくて、騙し騙し生きる。不確かさや不安定さを受け入れながら、騙し騙し。人生とはそういうものだと最近よく思う。綺麗ごとを脱ぎ捨てて、リアルを受け入れる、今日も。

一生、試し撮りだから。

週末に立ち寄った古民家カフェの写真が現像からあがってきた。見てみると、意外と普通に撮れている。屋内だけど、常用しているFUJI FILM業務用100で撮ったものだ。なにせフィルム歴3ヶ月だから、まだまだ露出とフィルム選びの感覚がおぼつかない。僕のつたない知識だと、屋内の灯りだと感度400以上のフィルムを使わないときちんと撮るのはむずかしい、そんな風に思っていたんだけど、f2でシャッタースピード1/50で撮ってみると意外と撮れるんだなと。ただ、風通しのいい日本家屋の晴れた日の部屋の中だから、そこそこ屋内には太陽の光が差し込んでいた。そんなシチュエーションなら感度100でもまあ撮れるんだなという経験になった。家族の写真も撮ったけどそれほどブレでもいなかったから、動きのあるものもいけるかもしれないなとか。

そうして撮ってはみたものの、現像するまではちゃんと撮れているかは未知数だったから、屋内で撮るなら感度400以上のフィルムも必要かなあとTweetしたら、いつもいろんなアドバイスをくれるフォロワーさんが業務用100でもけっこう撮れますよと事例写真を送ってくれて、それがたしかに雰囲気よく撮れていたから現像あがりを少し楽しみにしていたんだよね。これで、ある程度は業務用100で屋内もいけることが確認できた。そう、なんでも実際にやってみて失敗も成功も脳と体に染み込ませていくことが僕にはたいせつ。Twitterやネット記事なんかで目にした撮影事例やアドバイスなんかは少しずつだけど色々試したりしている今日この頃。上手い写真は無いけど、じぶんの中では確実に失敗カットが減ってきているという実感はある。

考えてみると、写真を撮り続けるということは、きっと「一生、試し撮り」なんだろうなあと思う。露出の値を覚えたからといって好きな写真が撮れるわけじゃない。それは前提条件をクリアしただけで、その日その時間にしかない光と影と少し仲良くなれたということであって、明日になればまた微妙に異なる光と影の中、写真を撮ることになる。昨日までの経験を紐解きながら、いちばん仲良くなれる露出値を探りながら撮る、また撮る、その連続。そして現像した写真を見て、また考え、そしてそれを経験値に、また撮る。その繰り返し。んー、一生でも足りなさそうだ☺︎。でも、この不確かなものが僕には心地いい。欲しいのは答えじゃなくて問いなんだ、なんでもね。

まいにちが散歩カメラだと思えば、悪くない。

週末も終わり、また平日の仕事場へと向かう。少々むずかしい問題を常にはらんでいる場に一日の大半を割く日常は気分も滅入ったりするわけだけど、考えようによってはまいにちカメラを持って散歩カメラに出かけているとも言える。そう思うとどこかこころは晴れてくるから不思議だ。世の中いいことばかりじゃないけど、悪くもない。きょうは現像出しにカメラ屋へ寄ろう。そして鞄の中にはいつものKonica C35が入っている。

 

画像じゃなくて写真が好き。

これはもう本当に個人的な”好き”の話なんだけどね。レタッチした写真が苦手というね。レタッチという解釈もいろいろだろうから、レタッチすべてが苦手という意味じゃなくて、写真とは目の前の光景や空気感を写し取ろうとする行為だったり努力みたいなものの結晶だと思うから、その範囲を超えて撮った写真をイジるというのは個人的にはするのも見るのもちょっと苦手、という話。

僕はじぶんで写真を撮るようになるまでは、レタッチというのは汚れをとったりトリミングしたり色を整えたりという、撮る時に目の前で見た光景に近づける作業がそうなんだと思ってたんだけど、そうではない写真も数多いことに気がついてくる。デジカメで撮るようになった時、”現像”という行為があまりにいろいろ後からイジれることに驚いた記憶がある。僕はなんか少し意固地になってデジカメで撮ったものもひたすら撮って出ししか使わなかった。なんというか、カメラやレンズ、そのセッティングとか撮る前の努力じゃなくて、撮った後に必要以上に写真をイジる行為は、写真というより”画像”だと感じたから。あと、逆の意味もあって、デジタルで撮ると目の前の光景とは異なる沈んだ色味やきつい発色になることがある。これは画像に見えるから、それを見た光景に近づける再現性という意味でのレタッチは写真という意味では必要だとも感じたり。

上手く言えないけど、僕の中には写真と画像の間に境界線があって、僕が惹かれるのはその写真のほうということ。あくまでも僕の中の境界線だから、レタッチが悪いわけじゃないし、画像がダメなわけじゃない、単なる好みの問題。あと、写真をスマホのモニターなんかで見る時代環境のことも関係あるのかな、デジタルのモニター映えする写真という意味でレタッチされたような必要以上に発色の強い写真は画像にしか見えなくてやっぱり苦手。写真が昔のようにプリントすることがベーシックな環境であればそうした画像は生まれないのかもしれないけど、とも思った。僕がこうしてフィルムに惹かれるのは、たぶんデジタル色の”画像”に少し疲れて、フィルム色の”写真”に触れたいと感じていることも大きいのかもしれない。

最後に。デジタル時代ならではの作品として画像制作というのはアリだと思うんだよね。画像というもののかもモチーフに写真を使うという意味で。それを写真というジャンルと同じにしようとすると少し無理があるということかな。写真というのは、撮った後にあれこれ加工するのが楽しいんじゃなくて、撮る前の準備や工夫、撮った後の再現というプロセスを通して、撮る時に見た光景の空気感を切り取ったり封じ込めたりすることだと思うから。あくまで、僕の中の写真という解釈なんだけどね。

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フィルムを始めてから、まなざしが変わりつつあるじぶん。

フィルムというのは何なんだろうね。デジタルとは異なる、写真を記録する方法なんだろうけど、そういうことでは片付けられないほどの厚みとか深さがある、僕にはそれくらい大きな変化をもたらしている。

恥ずかしながら露出という写真の基本的なことも今更ながら理解し始めたところだし、機械式カメラに触れることで本当の意味で絞りやシャッタースピード、距離計なんかの存在というかカメラの基本的な構造がわかり始めた。そうすると、その構造の違いでカメラを撮り比べてみたいと感じたりね。その機能の差がボディデザインに反映されていて、まさに機能美ってこういうことだよなと感心したり。

レンズもそうかな。フィルムの感度によって絞り値を気にしたり、逆に昼間の広角スナップなら明るいレンズより軽いレンズのほうがいいなとか、デジイチ時代にはまったく考えなかったような”写真を撮る基本的な構造”みたいなものを考えながらレンズを見るようになった。いずれ望遠は気になるかもしれないけど、今は基本に立ち返って35mmと50mmという構図の世界をしっかり突き詰めたいなと思ったりしている。

それと、写真を見る目も変わったかなと思う。いいなと思う写真の種類、好みが変わったというか。じぶんでもまだはっきりとはしないんだけど、昔の偉大なカメラマンたちの写真を見るようになったし、TwitterやInstagramに流れてくる写真を見ていいね!と思う写真の気配も変わった。つまり、カメラも写真も今一度ふりだしに戻って走り始めた、そういう気分なんだ。このブログを始めた頃はデジイチのNikon D750やコンデジNikon Coolpix P900なんかも使っていたから、撮っていた写真も考え方も今とは少し異なるけど、そういうじぶんの変換も振り返ることができる場所として、こうしてブログを書き続けるのはいいなとも思い始めている。

フィルムで撮るということは、カメラの歴史の中に身を置くということ。見るものも変わるし、耳にする話も変わる。そして、カメラや写真がどんな風に人々と生きてきたかということを自然と考えさせられる。その長く、深く、広いプロセスを体感することこそがフィルムカメラで写真を撮る醍醐味かもしれないね。

絞り優先×35mmは実にリズムよく撮れる組合せだった。

今朝はNikon FEブラックボディに、先週手に入れた35mmレンズを装着して、初めての試し撮りに出かけてみた。中古のフードHN-3とスカイライトフィルター、新品のNikonストラップも買っておいたので、朝からニコン巻きをして、パッと見はシルバーボディのNikon FEと双子のようなルックスになり、それがどこか微笑ましい。こういう自己満足がカメラ愛好家の密かな楽しみである。うん。

これまで使っていたFEシルバーボディ×50mmの組合せと撮り比べたいと思ったから、いつもの散歩カメラコースへ出る。と、最初の一枚を撮ったところで”あ、なんか気持ちいいな”と思った。35mmはなんというか見たままの世界が撮れるというか、ファインダーの中であらためて構図を決める必要がない楽チンさといえばいいだろうか。絞り優先で撮れるNikon FEと組み合わせると、実に次々と軽快にシャッターを切ることができる。50mmよりも35mmのほうが標準だというひとがいるのもわかる気がした。

あと、たぶん僕の目が広角の目になってるのかなとも思った。一年間ほど28mmのRICOH GRだけで撮り続けてきたことや、ここ3ヶ月は平日は38mmのKonica C35で撮っている。週末こそLeica M3やFEシルバーボディで50mmの世界に集中している最中だけど、僕の目と体はまだまだ広角体質なのかもしれない。それにしても、絞り優先×35mmの組合せは実に楽で、一眼レフでスナップしたいひとにはいいんじゃないかな。このまえ立ち寄った中古カメラ店の店長さんも、「あまり考えずに撮りたい時があるから、私なんかもフルマニュアルよりは絞り優先のFEなんかで撮りたいと思いますけどね」と言ってたけど、あ、こういう感覚なのかなと思った。

あっという間に24枚撮りフィルムを一本撮り終えて、あとは現像に出してのお楽しみ。レンズの試し撮りというのもあるけど、スカイライトフィルターの効果もちょっとした楽しみ。キタムラの店員さんいわく、フィルムカメラ時代にはフィルターといえばみんなスカイライトフィルターを付けていたというくらい当時はポピュラーなアイテムだったらしい。余計な青みをカットするらしいのだけど、デジタルカメラはホワイトバランス調整ができるから今では見かけなくなった商品らしい。近ごろフィルムを始めた僕にしてみれば、フィルムの青みはむしろ”味”だとも思うんだけど、せっかくだから当時の人たちが愛用したスカイライトフィルターなるものも試してみようと思った。さて、どんな変化が見られるかな。楽しみは尽きない、今週も。

中古カメラ屋の店内には独特の気配が存在する。

中古カメラ店をのぞくのが日常になってきた。というか歩いてると目に入るようになった。そうすると素通りはできない体質にもなった。いいんだよね、あの店内の独特の雰囲気が。ショーケースに収められてライトに照らされたカメラたちを見ると、一瞬時代の錯覚を起こすというか、高度経済成長の名残りというか、とても夢や希望みたいなものを感じる。そういう世界がこの世に存在していることを知れただけでも、フイルムカメラを始めてよかったなと思う。

でも一方で時間が止まっている感覚も覚える。よく言えば古き良き時代感なんだけど、悪く言えば時代に取り残された感じともとれる。このまえのぞいたお店の初老の店員さんは、もうフイルムの時代じゃないからなかなかうまくいかないというニュアンスのことを話されてた。たしかにわずかにフイルムブーム感はあるのかもしれないけど、デジタルを含めてもカメラ市場全体がスマホに押されてシュリンクしてるから、やっぱり厳しいんだろうなと再認識した。

そういう夢や希望と失望みたいなものが同居している街の片隅の異空間、それが中古カメラ店の独特の雰囲気を醸し出しているのかもしれない。その中古カメラ店に同じ職場の若い女子たちが二人、それぞれ別の店に行ってみたと言う。フィルムカメラやその写真に興味を持ち始めたらしくて、少しアドバイスをしたら早速二人ともお店をのぞいていて少し驚いた。このブームなのか、それとも時代錯誤なのか、なんともいえない時代の空気が交錯する現代の中古カメラ店はとても不思議な経験ができる空間。フィルムカメラの興味の有無は置いといてもぜひのぞいてみてほしいな。知らない世界をのぞくという意味だけでもね。

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朝晩はRICOH GR、日中はKONICA C35。いまのところ。

今朝はひさしぶりにGRで撮ったスナップをTwitterに連投した。昨夜、いつもよりはやく眠りについた分、今朝は4:30amくらいに目が覚めて、夜明けの街を散歩カメラしてきたものだ。僕はふだんはフィルムで撮ることが増えたけど、常用の感度100のフィルムだと朝晩の太陽光は露出不足かなと思い、こうして朝晩出かける時はGRのほうが確実だ。そんな使い分けから、いまは朝晩はGR、日中はC35という使い方に落ち着いてきた。

RICOH GRはデフォルトでいくつかのエフェクトがある。僕が好んで使うのは「白黒」と「ポジフィルム調」。フィルムカメラで撮るようになってからは、GRで撮る時もフィルムをどこか意識していて「ポジフィルム調」を選択することが多い。アンダー気味でもしっかり描写してくれるところは、さすがデジタル、さすがGRといったところ。あとはとにかくGRだとヒュンヒュン撮れるということ。プログラムモードでノーファインダー気味にどんどん撮れる。28mmの広角も撮りやすさを後押しする。

一方で日中はもっぱらフィルムコンパクトのKonica C35で撮るのが最近の僕のパターンだ。感度100でも日中ならヘキサノン(テッサー型レンズ)は実にいい感じで街の表情を記憶してくれる。フィルム交換も簡単だから、立ち止まって気軽にフィルムチェンジができる。そして、朝晩のGRとは違って、日中は少しオーバー気味にあがることを意識している。実際はプログラムAEだから絞りとシャッタースピードはカメラまかせだけど、現像に出すと決してゆるふわではない、ほどよい落ち着きのある明るめの写真があがってくる。C35の特性か、それともラボの仕上げのせいか、実にほどよい風合いが気に入っている。カメラは何でもいいとも言えるけど、こうして使い分けるのもまた楽しい。さて、金曜日の午後、そろそろ脳が週末に向けてソワソワし始めている。